濡れた石

和希かずき、珍しいな。ペースが早い」


 バーのカウンターで、肩を並べていたたかしが眉を上げた。


「あぁ、そうかもな」


 俺は苦笑して、妹の玲良れいらと付き合っている男を見やった。出身校は違うものの、同い年とわかって以来、ちょくちょく飲みに来るようになっていた。


「年明け早々、仕事のストレスが凄くてさ」


 そう言うと、崇は「大変だな」と、右手に持ったグラスを持ち上げた。いかにもプロのギタリストらしい指だ。左手の先は固そうに変形しているが、右手は爪が独特の形に磨かれ、綺麗だった。


「新年早々、妹の恋人と飲んでいるよりは、女でも作って初詣に行けばいいんじゃないか?」


「余計疲れるだろう」


 眼鏡越しに軽く睨むと、彼は悪戯っぽく笑う。


「そうかな? 俺は玲良といると退屈しないけれど」


「それは兄としては嬉しいけどな。俺には女はみんな石に見える」


「石?」


 崇が呆れ顔になる。


「お前、薬剤師のくせに芸術家みたいな比喩をするんだな」


 汗ばむように濡れたグラスを指で触れ、俺は声もなく笑った。やっぱり、わかってはもらえないか。


「そんなことより、俺はまた玲良に『崇との時間を奪った』って叱られそうで身がすくむぞ」


「嘘ばっかり」


 くく、と低く笑う崇は色気がある。飛び抜けて整った顔という訳でもないが、どこか神秘的で、女はこういうタイプが好きだろうなと思う。


「前々から訊いてみたかったけれど、お前、なんで玲良と付き合ったの?」


 妹がクラシック・ギターを習っているうちに、崇に惚れたのは知っている。けれど、彼がそれを受け入れたのが意外なのだ。少し慎重過ぎるほど理性的な崇の人となりを知れば知るほど、生徒に手を出すようなタイプには思えなかった。


「気に入ったもんは仕方ないよ。でも、最近は顔つきのギャップが気に入ってる」


「ギャップ?」


「ギターを弾いているときと、普段と、俺の前にいるときで、全然違うから面白い」


「……なるほど。俺がお前と気が合う理由がわかったよ」


 女が石に見える理由は、俺のギャップを好む嗜好が原因なのだから。

 きょとんとする崇を横目に、一人納得したのだった。


 ほろ酔いになると崇と別れ、飲み屋街から一人歩いて帰った。

 真冬の道を踏みしめると、昨日の朝に降り積もった雪が音を鳴らす。頬を刺すように、空気が凛としていた。雪が降ったほうがかえって暖かいものだが、雪かきは御免だ。

 飲み屋街から抜ける小さな橋を渡っていると、あまりの寒さに川面から湯気が昇っているのが見えた。

 思わず立ち止まり、流れる水を見下ろした。真っ暗な夜に川の音が木霊している。川底の石に目をこらすが、闇に染まっていた。崇にあんな話をしたせいだろうか。今は、無性に石が見たかった。

 俺の目に女が石に見える理由は、女と初めて寝た夜に、妹が幼い頃に口にした一言を思い出したからだ。


「お兄ちゃん、濡れた石って全然乾いたときと顔が違うのね」


 一緒に川遊びをしていたときの言葉だったが、それが女の様子とかぶった。

 俺が初めて寝た女は、真琴まことという名で、サバサバした性分だった。別に付き合ってた訳ではない。ただ、お互い映画が好きで話が合って、波長も合ったのだ。だけど、彼女には他に好きな男がいるのも知っていたし、俺も真琴は友人の一人として接していた。

 ところが、大学に入ってすぐの頃だ。一人暮らしをしていた彼女から連絡が来た。


「和希、映画でも観ない? この前話してた『バグダッド・カフェ』のDVD、買ったんだ」


 彼女とは映画の話をしても、一緒に観たことがなかった。『バグダッド・カフェ』はまた観たいと思っていた作品だったし、彼女がどんな感想を抱くか聞きたくて、興味本位で「行く」と即答した。

 コンビニで飲み物と食べ物を手土産に用意し、彼女の部屋に行った。一人暮らしの女の部屋に入るのは初めてだったが、全然緊張しなかった。なにせ真琴を女として見たことがなかったからだ。

 俺たちはリビングに並んで座り、『バグダッド・カフェ』を観始めた。冒頭で『コーリング・ユー』という歌が流れる中、俺たちは肩を寄せ合って映画の世界に入っていった。

 そのとき、なんだか『こういうのもいいな』と、肩の力が抜けるのを感じていた。俺は付き合っていた彼女と喧嘩ばかりで疲れていたし、真琴が叶わぬ恋に苦しんでいるのも知っていた。

 だけど、男と女ということを抜きにして、こうして身を寄せ合って、ほっとできるのがいい。そんなことを考えながら、映画を観ていた。


 映画が終わったとき、俺たちは二人とも、何も飲み食いしていなかった。ただ、映画を観ながら肩にそっと触れる温もりを感じていた。

 ふと隣を見ると、真琴が俺の視線に気がついて顔を上げた。

 その瞬間、目眩がした。今まで一度も女として見たことのない真琴が、どうしようもなく綺麗に見えた。

 愛の滲む映画を観たせいだろうか? 画面の光で輝く瞳から、目が離せなくなった。

 俺たちは吸い寄せられるように顔を近づけ、そしてキスをした。おずおずと、そして次第に迷い無く。互いの体を手が彷徨う。

 俺の下になる彼女を見て、息を呑んだ。いつものサバサバした真琴はどこにもいない。俺との一時を楽しむ女がいるだけだ。その顔は艶かしく、それでいて悩ましい。ほんのちょっとの悔いと罪の意識を滲ませていて、それがかえって俺を興奮させた。

 まるで乾いた石が濡れて色を変えたように思えた。妹の言う通り、普段はわからない色が濡れて露になる。割ってみてもわからない、削ってみてもわからない。濡れたときだけ見える顔だ。

 それ以来、俺は女を石に喩えるのだ。

 結局、真琴とはそれっきりになった。暗黙の了解で、俺たちはその夜の出来事をお互いの思い出に押し込め、何もなかったように接した。

 真琴とは大学を卒業してから会ってもいない。けれど、正解だと思う。俺はあの濡れた石のような顔を見て、すっかり満足してしまったからだ。彼女の他の顔を見たいという意欲が湧かなかった。きっと、それは本気で誰かに恋をしたことがないせいかもしれない。

 だけど、どんなに好きだと思っても、濡れた石の顔を見てしまうと気持ちがさめてしまう。

 この顔を他の誰にも見せたくない。もっと違う顔も追いかけたい。そう思える相手が見つからない。だから、俺は今も一人だ。

 真琴がそれを知ったら、彼女はどんな顔をするだろう? ふっと笑ったときだった。


「あの!」


 不意に腕を掴まれた。いつの間にか一人の女が立っていて、俺のコートを掴んでいる。女は二十代前半だろうか、俺より少し若く見えた。

 なんだか見覚えがある気がした。だが、どこで見た顔なのか全然思い出せない。

 首を傾げていると、彼女がおずおずと口を開いた。


「あの、危ないですよ。この橋の手すり、低いですから」


 俺は納得がいって、苦笑してしまった。


「もしかして、俺が飛び込むかと思った?」


「はい」


 迷いなく答える彼女に思わず笑い、手すりから離れる。


「心配させたならごめん。川を見てただけだから」


 そう言うと、彼女は「よかった」と胸を撫で下ろした。そのとき、彼女はこう言った。


「先生が落ちて怪我でもしたら、お客さんが困るでしょう?」


「えっ、先生って俺のこと?」


「私、あなたのいる薬局によく行くんです」


 もどかしさがすっと腑に落ちる。そう言えば、うちの薬局で見かけたことのある顔だ。


「それはどうもありがとう。でも、俺は大丈夫だよ」


 彼女はほっとした顔になる。

 当然だろ。まだ俺は死ねない。『こいつだ』って心から思える相手に出会ってもいないのに。俺は酔った頭でそんなことを柄にもなく考えていた。

 歩き出そうとして、ふと訊ねた。


「君、帰り道?」


「え? あ、はい。会社の新年会の帰りで」


「一人で歩いてないで、タクシー拾いなよ」


「飲み過ぎたから、歩いて酔いをさましたくて」


「家はどこ?」


「あの、泉町いずみちょうです」


「女の一人歩きなんてするもんじゃないよ。この先は道も暗いから」


「大丈夫ですよ」


 戸惑う彼女に、俺は眉を上げた。


「歩くには遠いよ。おいで」


 歩き出した俺に、彼女が慌ててついてくる。橋を渡り終えて飲み屋街に戻ると、タクシーをつかまえた。彼女を押し込むように乗せ、上半身だけ突っ込んで運転手に千円を握らせながら声をかけた。


「泉町までお願いします」


「そんな、いいです!」


 驚く彼女を尻目に、俺はタクシーから体を外に出した。


「俺の意見でタクシーに乗って欲しいんだから、これくらいはね」


 彼女が何か言いかけたが、扉が閉まる。走り出したタクシーを見送り、俺は頭をかいた。

 いつもの俺だったら、こんなことはしない。

 けれど何故か、このときは誰かに優しくしたい気分だった。真琴とのことがあって以来、どこか冷めている自分を思い出したからかもしれない。

 今まで本当の意味で誰にも心を開いていない気がしている。自分が女に優しくするとき、下心や計算が必ず裏にあるんじゃないかと自分を疑ってしまう。だって、濡れた石を見たらそれきりで済む程度の気持ちしか抱いたことがないんだから。

 たまたま居合わせた女性だが、何の見返りも期待せずに優しくしてみたかったのは、そんな自分を否定したかった。

 俺は派手なくしゃみをして、歩き出した。慣れないことをするもんじゃないかな、などと考えてかじかんだ手をポケットに突っ込んだ。


 翌日、職場で豪快なくしゃみをした俺に、登録販売者の室井むろいさんが目を丸くした。


「風邪ですか? 珍しいこともありますね。斎藤先生が風邪をひくなんて」


「室井さん、俺だって人間ですよ」


「寝冷えでもしたんですか?」


「いや、酔っぱらって橋の上でぼうっとしてたせいかな?」


「何をやってるんですか。ただでさえインフルエンザのお客さんも多いんですから気をつけてください」


「はい」


 大人しく笑うと、彼女は母親のように「もう」と呆れていた。

 調剤からOTCに異動になってから、どうもこの人には頭が上がらない。OTCというのは、いわゆる一般用医薬品のことだ。薬事法が変わり、登録販売者だけでなく薬剤師も売り場に居たほうがいいという社長の判断で、新年になって異動になった。

 いくら薬剤師でも一般用医薬品にまで精通しているというわけではない。接客も商品も調剤とは違う。

 慣れない環境で、俺のストレスもたまる一方だ。そりゃあ、崇と飲みたくなるってもんだ。あいつの話し方は音楽みたいに耳に心地いいから。

 俺がそんなことを考えていると、ふと「こんにちは」と声がした。

 見ると、昨日、橋の上で会った女がカウンターの前に立っている。


「先日はありがとうございました」


「あぁ、昨日の……。いらっしゃいませ」


 俺が思わず微笑むと、彼女は会員カードを差し出した。


「胃薬ください」


 カードにある名前を盗み見ると、そこには『高島八重たかしまやえ』とある。


「痛むの?」


「重いっていうか、むかむかするんです」


「食べる前? 食べたあと?」


「前ですね」


「じゃあ、これはどうです? 胃粘膜を保護する成分が入っているタイプなんですけど」


「あ、じゃあ試してみます」


「ありがとうございます」


 そんなやり取りのあと、彼女は包まれた胃薬を手に、にっこり微笑んだ。


「また来ます」


「ありがとうございます」


 俺は複雑な気持ちで礼を言う。ここに来るということは体調が悪いことを意味する。

 あんまり彼女のためにはならないんだけど。そのときは薬局になんて用がないほうが幸せだという意味でそう思ったのだが、すぐに違う意味をはらむようになった。

 彼女は毎週決まって日曜になると、買い物に来るようになった。栄養ドリンクを買う日もあれば、雑貨や絆創膏の日もあった。

 買う品は色々でも、必ず話しかけて来る頬が赤く染まり、その目に熱がこもっている。自惚れ屋じゃなくたって、すぐに自分に気があるのがわかる。

 本当に、ここに来るのは彼女のためじゃないのに。俺は彼女が店を出るたびに、妙な罪悪感を募らせていった。

 彼女は可愛いと思うよ。健気で、まんざらじゃない。だが、だからこそ、濡れた石の顔を見たらそれきり終わるなんて仕打ち、彼女にはしたくなかった。


 そんなある日のことだ。

 仕事を終えて駐車場に戻った俺は、エンジンをかけながら車に積もった雪を下ろしていた。雪国はこれが面倒だよな。そうぼやきたいのを我慢しつつ、かじかむ手を擦ったとき、背後で犬の鳴き声がした。

 何気なく振り向いた俺は、その場に凍り付いた。


「和希」


 吠えているのはチワワだった。その犬を連れた飼い主が、俺を真っ直ぐ見つめて立っている。懐かしい声で、俺の名を呼んでいる。

 それは、真琴だった。


「お前、どうして?」


 やっとそれだけ言うと、彼女は肩をすくめて見せた。昔からよくやる仕草がそのままで、懐かしさに目眩がする。


「私、去年からこの近所に住んでるのよ。和希がそこの薬局にいることも知ってた」


「来てくれればいいのに」


 一瞬、口にしてから『失敗したかな』と思った。また顔を合わせないほうが懸命だと思っていたのに、口をついて出た言葉は真逆だ。

 すると、真琴が苦笑いする。


「嘘が下手ね」


 さすがは真琴というか、お見通しらしい。


「ねえ、和希に話があるんだけど」


 真琴はチワワのリードをたぐり寄せながら言った。


「今更かよ?」


「今だからよ」


 正直、戸惑っていた。彼女が胸に秘めていることがいい話であれ、悪い話であれ、それがどのみち俺を悩ませるような予感がした。

 だけど、俺は手にしていたスノーブラシを後部座席にしまい込んだ。

 知りたかったんだ。あの一夜を何事もなかったかのように流してから、彼女は何を考えてきたのか。。

 車のエンジンを止め、彼女に歩み寄ると、チワワはもう吠えずに尻尾をぶんぶん振っていた。

 俺たちは無言で歩き出す。彼女の気配が隣にあるのは何年ぶりだろう。そんなことを考えながら、雪道を踏みしめた。


 案内されたのは、比較的新しい二階建てのアパートだった。先に玄関に入った真琴が、犬の足を拭いてリードを外す。チワワは小走りにリビングに駆けていった。


「上がって」


 彼女は靴を脱ぎ、中へ消えていく。殺風景な玄関を見ると、女物の靴しかなかった。『今も独りなんだな』と考え、靴を脱いだ。男の気配があったら帰るところだ。

 リビングに行くと、そこはいかにも真琴らしい部屋だった。ゆったりとしたソファの上には既にチワワが座り込み、こっちを見ている。大型のテレビの隣にはDVDがびっしり並んだ棚があった。

 思わず、あのとき一緒に観た『バグダッド・カフェ』を探していると、奥から水の音がした。手でも洗っているらしい。


「そのへんに座って」


 振り向くと、彼女は対面キッチンの向こう側でお湯を沸かそうとしている。


「あぁ」


 短く答え、チワワの隣に腰を下ろした。つぶらな瞳と視線がかち合い、俺は苦笑する。まるで碁石みたいな目だ。

 しばらくして、コーヒーの匂いが鼻をくすぐった。真琴がテーブルにマグカップを置く。中身はブラック・コーヒーだ。


「……ブラックだって、覚えてるんだな」


 すると、真琴が目を細めながら俺の隣に座った。


「まぁね」


「で、話って?」


 真琴が肩をすくめて、こう言った。


「あのときの弁解よ」


「弁解?」


「そう」


 彼女は熱くなっているであろうマグカップの縁を触れるか触れないかの手つきで撫でている。


「あの夜、和希と寝たときね。私、あんまりいい恋愛してなかったじゃない?」


「そうかもな」


 コーヒーを口に含んでから短く答えた。


「でもね、誰でもよかった訳じゃないからね」


「そう? 映画を観て、なんとなくその気になったんじゃないの?」


 俺はそうだけど。最後の言葉を飲み込むと、真琴はお見通しだと言わんばかりに唇をつり上げる。


「そうね、その気になった。だけど、私が燃える人ってそうそういないのよ。だから今も一人でいるの」


 彼女は言葉を続ける。


「燃える人がそこにいたのに気づいたから。だからキスしたの。あなたで紛らわそうとしたんじゃないってことはずっと伝えたかった」


「じゃあ、どうして、それっきりになったんだ?」


「わからない?」


 真琴がじっと俺を見つめる。


「あなたは燃えなかったからよ。『こんなもんか』って顔をしてた」


 驚いた。


「そんなことないだろう」


 そう、そんなことはない。俺は確かにあのとき、真琴の女としての顔に新鮮さを感じた。いつもは男勝りなこいつが、切なげな声を上げるたびに酔いしれた。だからこそ、濡れた石を思い出したんだ。だけど、真琴が苦笑する。


「でも、そういう関係を続ける気はなかったでしょう?」


 あぁ、そうだな。俺は彼女が濡れたらどんな色に染まるのかをもう知ってしまったから。


「そうかもしれないな」


 真琴はそっと微笑む。ちょっと寂しさを漂わせた目元に、胸がぐっと掴まれたようだった。だって、そんな顔、あの頃はしなかった。あれから彼女も彼女なりの時間を過ごして、何かが変わっているんだと今更ながら実感した。

 真琴は黙って、DVDで埋まる棚の前に向かう。抜き取ったのは、あの『バグダッド・カフェ』だった。


「いつか、試したかったの」


「何を?」


「私の中で、まだ和希が燃えているのか」


「忘れられないのよ。別に和希に恋していたわけじゃないけど、誰と寝ても和希を思い出すの。だから、もう一度これを一緒に観て、また燃えるのか知りたかった。また会う勇気もないくせに、ずっとこのDVDだけは手放さなかった。誰とも一緒に観れなかった。和希と観て以来、私も観ていない」


 彼女はそっと歩み寄る。チワワがソファから降りて、泣き出しそうな飼い主を不思議そうに見上げていた。


「お願い。一緒に観て欲しいの。私の中のあなたにケリをつけたいの」


 俺は差し出されたDVDを受け取り、ため息を漏らした。


「お前がまた燃えたらどうするの? 俺がまた『こんなもんか』って思ったら、また同じこと繰り返すの?」


 彼女は黙ったままだった。ふと、俺はDVDの棚を見やる。

 さっと目を走らせると、真琴の苦手なジャンルの映画が目についた。きっと、一時は他の誰かと一緒にいたこともあったようだ。だけど、俺が重石になって動けなくなったんだろう。なんとなく、そうわかってしまった。

 俺は黙ってテーブルの上にあったリモコンを手繰り寄せると、DVDのパッケージを開いた。

 俺が女を濡れた石だと思い続けるのか、否か。ここで決まるような気がした。


 懐かしい『コーリング・ユー』が流れる中、俺たちは並んで座っていた。まるであの日のように。

 でも、確かに違う。あの頃の俺はスーツなんて着ていなかったし、彼女の髪も伸びている。なのに肩に触れるぬくもりだけは、何も変わらない。

 映画が終わる頃、俺はそっと彼女を見た。視線に気づき、真琴も俺を見上げる。そして、俺からキスをした。

 唇の感触が懐かしい。けれど、激しさはあの頃とは比べ物にならない。俺たちは夢中で抱き合った。濡れた石はまた俺の手の中に戻ってきた。

 そしてそれは俺の中に初めて嫉妬を沸き起こさせた。だって真琴の顔も、体も、動きも、あの頃とは違っていた。他の誰かと愛し合って刻まれた模様がそこに浮かび上がったからだ。

 勝手な話だ。俺は真琴を追おうとしなかったくせに、彼女の模様を変えた誰かに妬いている。

 彼女がこうも変われることに、もしかしたら自分が変えていけたかもしれないことに、今更気づく自分が馬鹿だと思った。

 何も変わらないのは、ただ一つ。彼女の濡れた石はとても綺麗だということだった。


 その後、俺たちは朝を迎えずに別れた。言葉なんてなくても、お互いわかったはずだ。『遅過ぎたんだよ』と。

 彼女が俺に何を見出したか知らない。燃えたとしても、一瞬にして燃え尽きてしまったのかもしれない。ただ、言葉にしなくても、俺たちはまたこうして会うことはないだろうと心のどこかでわかっていた。

 耐えられなかった。他の誰かに変えられた真琴をずっと見続けるなんて。それは俺がこの手で変えたかったという征服欲なのか、それとも意気地がないのかわからないけれど。

 玄関先まで見送った真琴が、呟くように言った。


「ありがとう。やっと前にいける」


 俺は彼女に笑ってやった。


「多分、俺もだ」


 濡れた色を知りたいだけじゃない。磨いて、刻んで、模様を変えていく様を見守りたい。初めて、誰かにそう思えそうな気がした。

 真琴のアパートを出て、冷えきった車のシートに座ると、深いため息が白く漏れ出た。

 俺はなんて馬鹿なんだろう。なんて遠回りをして、なんて大事なものを簡単に手放したんだろう。

 でも、そうだな。この遠回りにも意味があると思いたいよ。今度会う誰かを、決してあんな顔で泣かせないように。そう思った。


 それから冬が終わり、福寿草が顔を出した頃だ。

 仕事帰りに車に向かうと、高島八重が顔を真っ赤にして、立ち尽くしていた。この頃ではすっかりお店の常連になっている。


「あ、あの。先生、お話があって」


 このシチュエーションで話すことって、一つだろうけどね。そう苦笑しながら「どうぞ」と答える。彼女は耳まで赤くなりながら小さな声でぽつりと言った。


「好きです」


 俺は瞬時に、健気に店に通う彼女を思い出していた。自分の些細な一言や態度で一喜一憂する姿が脳内を巡る。

 俺、あんなに一生懸命に誰かを好きになったことってあるか? 俺は君みたいに一生懸命好きになれないかもしれないけど、いいのか?

 思わず、俺は眉尻を下げた。やってみなきゃわからない。


「あのさ、俺って女が石に見えるの」


「へ?


「俺と付き合うと砕かれるかもしれないし、刻まれるかもしれないよ? それでもいいの?」


 だって、俺は変わりゆく濡れた模様を見たいんだ。だけど、そのためにはときには傷つきあうこともあるかもしれない。

 すると、彼女が強い眼差しを返してきた。


「構いません! 私、ハッキリ言って先生の言葉の意味がわからないけど、だからこそ、先生がどうしてそんなこと言うのか知りたいです。どうしてそんなことを考える人なのか、もっと知りたいです!」


 思わず笑い出した俺に、彼女が戸惑っている。


「あぁ、君の変わりようが楽しみだな」


 そう自然と口をついて出た。オロオロしている彼女にそっと歩み寄り、両手で頬をそっと包んでみる。

 この手の中にあるのは、小さな石だ。無邪気で無鉄砲で、原石みたいな彼女が、俺の手の中でどんな色を見せてくれるんだろうか。どんな形に磨かれ、どんな模様を描くのだろう。


「楽しみだね」


 思わずそう呟いて、キスを落とした。顔を離すと、彼女は目を見開いたまま硬直している。思わず噴き出しそうになるのを堪えて、ぽんと頭を撫でた。

 なぁ、真琴。俺はやっと前に進めるのかな。本当ならお前と刻むはずだった時間や心のやりとりを、俺はこの子としてみようと決めた。

 さっき頬を包んだように、俺はこの子の心も包みたいと思うかもしれない。いや、多分そうなるだろう。だって、俺は自然に笑えていたから。

 それ以来、俺は女が石に見えなくなった。八重のおかげか、真琴のおかげかわからないけれど。

 でも、確かなことは八重が今も俺の隣にいるってことさ。

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