葉巻のキス
私の好きな人はちょっと変わっているかもしれない。煙草は吸わないけれど、葉巻は好きなのだ。
「こうして端を切って……」
今、目の前で説明しながら、初めて葉巻を吸う私のために葉巻をカットしている男が
「私、普通の煙草しか吸ったこと無いの」
ほんの五分前、そう何気なく言った私に、彼は一本のキューバ産の葉巻を取り出したのだ。
「面白いから、試してごらん」
渡された葉巻は太めで、ちょっと重い。恐る恐る口にくわえて、火をつけた。
「肺に入れるより、煙の香りを楽しむ感じだよ。そう、そんな風に」
むせるような煙の香りはどこか甘く、そしてほろ苦い。煙草を吸い慣れていても、その強烈な香りが皮膚の奥まで沁みそうだと感じた。
「ゆっくりと楽しむんだ。でも、あまり吸わないで放っておくと火が消えちゃうよ」
彼が目を細めて私を見つめる。まるで私の恋心を見抜いているかのような言葉だと思った。
「火が消えたら、またつければいいけれど。一分間に一度ふかすペースかな」
「ずいぶんとゆったり楽しむのね」
笑みが漏れる。私がふらりとバーに来て、あなたとの時間を楽しむのと似ているじゃない。そう思った。
彼が普段はどんな生活を送っているのか知らない。恋人がいるのかすら訊いたこともない。でも、こうしてゆっくりとウイスキーを片手にこの人と過ごす時間が好きだ。彼は眼鏡の奥から、優しい眼差しを送ってくれた。
「もう一本、あげるよ。家に帰ってから試してごらん」
そして、囁くように言う。
「クセになるよ」
そうね。葉巻はあなたに似ている。
じっくり、ゆっくり、火をつけたい。香りを楽しんで、余韻に酔って。灰皿に落ちた灰すら、何故か綺麗だと思えた。
「えぇ。私、きっと好きだわ」
私が彼を見つめて満足げに微笑む。きっと、彼は私の気持ちに気づいている。
水商売だからといって色を売っているわけじゃないんだろうけど、でもこういう駆け引きは嫌いじゃない。曖昧なラインを楽しむのも、悪くない。肺に入れるか入れないかの瀬戸際を楽しむ葉巻みたいだ。
家に帰ると、私は自分の髪の匂いを嗅いだ。独特な煙の匂いが鼻をくすぐる。
私は嫌いじゃないけれど、世間では煙たがられそうね。そう苦笑して、歯を磨いてからお風呂に入る。
あたたまった体を拭いて、髪を乾かしているときだ。ふと、鼻腔の奥からあの匂いが微かにした。
歯も磨いたし、時間も随分経っているけれど確かに、あの葉巻の匂いがふっとよぎる。なんだか彼の残像が瞼の裏に刻まれたような気がした。
私はリビングに行くと、彼がくれたもう一本の葉巻をそっと嗅いだ。煙草の葉の香りを吸い込み、そっと端を唇で挟む。まるで、彼とキスしているような錯覚に目眩がしそうだった。
きっと彼のキスは葉巻の匂いがするだろう。葉巻にじっくり火がつくように、私の心が穏やかな赤で燃えるのを感じていた。
今度の恋の始まりは、葉巻みたいに楽しむことにしよう。火が消えたら、また燃やして。何度でも楽しむのだ。たとえ燃え尽きても、灰すら美しいと思える恋になるだろう。
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