心化粧
化粧って絵みたいだな。
美術教師の俺は妻が化粧するのを見るたびに、いつもそう思う。要は色と影、そして構図が大事だ。
「ねぇ、スッピンでもいいんじゃないの?」
彼女が化粧し始めて既に十五分が経過していた。お昼時だし、早く行かないとあの店は混んでしまう。大体、暑いから蕎麦が食べたいって言い出したのは妻なのに、なんで俺が待たされるんだ。
急かすものの、「うん」と心のこもってない声が返ってきた。あとは窓からの蝉の声だけが響くだけだ。
鏡に向かって一心不乱に手を動かしている妻とは、先月結婚したばかりだった。付き合った期間は二年になるが、毎朝こんなに念入りに化粧をしていると知ったのは結婚してからだった。
時間をかけている割に、そんなに上手いとは言えない。自分の姉が化粧品会社に勤務しているせいか、どうも素人っぽく見える。まぁ、そのメイクの飾らなさが気に入っているんだが。
「今、どの段階?」
「フェイスパウダー」
やれやれ、まだ当分かかるな。
俺はベッドに寝転がりながら腕時計を見た。左手の薬指で新品の指輪が夏の陽射しを受けて煌めいた。まるで、グロスを塗った唇みたいだ。
鏡越しの彼女の顔は、なんだか浮世絵みたいにのっぺりだった。こいつの化粧には陰影がない。多分、それが化粧映えしない原因だ。
俺は彼女の背後に忍び寄って、手元をのぞき込んだ。
「ねぇ、このチーク、なんで一色しか減ってないの?」
その手にあるチークは三色セットになっているのに、明らかに一色だけが減っている。
「だって、これだけあればチークを塗るのに充分でしょ?」
「貸してごらん」
「え?」
戸惑う妻の手からフサフサの化粧ブラシを奪い取ると、妻の体を向き直させた。
「じっとして」
チークは光と影だ。高く見せたい鼻筋にハイライトを乗せて、シャープに見せたいフェイスラインには濃い色を乗せてやる。
ブラシを動かす俺に、妻が笑った。
「あなたって、お義姉さんと同じような仕事してたことあるの?」
「まさか」
苦笑して、俺はハイライトとダークカラーを中間色で馴染ませる。
「今の俺は油絵を描いてる気分だよ」
浮世絵よりも西洋絵画のほうが化粧向きだ。まぁ、ゴッホみたいな厚塗りはよろしくないけれど。
「女の人って大変だな。毎朝、自分の顔って作品と向き合うんだから」
「美術教師らしい言葉だわ」
ふっと笑い、彼女は目を細める。既にそこには黒々とアイラインがひかれていた。目が小さいことへのコンプレックスが露骨に出ている。
目が小さい、唇が薄い、眉がない。世の中には、いろんなコンプレックスがあるだろうが、それを少しでもよく見せようとする女性は毎朝のように自分の嫌な部分と対峙している訳だ。女は強い。
そんなことを考えていたとき、妻が口の端をつり上げた。
「女が化粧するのはね、いわゆる『こころげそう』よ」
「こころげそう?」
おうむ返しの俺を尻目に、彼女は「あら、いいわね」と、チークの出来映えを確認している。
「心の化粧って書く古語よ。相手によく見せようと、気持ちを改めること」
なるほど、古典教師らしいコメントだ。
「そんなもんかね。俺はスッピンのほうが好きだけど。でも、それだけ相手のためにって意味なら、健気で嬉しいかな」
綺麗な人を隣に連れているのは、そりゃあ男としては嬉しい。好きな人が自分のために綺麗になろうとしてくれるのはもっと嬉しい。
次にアイシャドウを見ると、これまた五色セットが一色しか減っていない。多分、この色を全体に塗って、これを瞼の半分くらい乗せればいいだろう。目の際はこの暗い色を塗るといい。
チップを動かし始めた俺が、妻に言う。
「俺のためと思ってくれるのは嬉しいけど、作り込まない化粧をするお前が気に入ってはいるんだ」
俺の姉の化粧の技術はすごい。その分、スッピンを見るたびに『化粧はトリックだ』と、痛感していた。そのせいか、なんだかのっぺりメイクのほうが、ありのままの彼女を見ている気がする。
そのくせ、こうして化粧を手伝っている俺は矛盾しているよな。綺麗でいて欲しい男の見栄と、そのままで居て欲しい気持ちの、変な葛藤だ。
「少し眉尻を長くしたほうがいいな」
眉の構図を思い描きながら、アイブローで描き足す。そんな俺を、妻が鼻で笑った。
「わかってないわね」
「なにが? この眉、気に入らない?」
きょとんとしていると、彼女は「違うわよ」と、まつ毛をカーラーで巻き出す。
「相手に綺麗って思われて、喜ばれる自分のためにするのよ。人それぞれだけど、私の場合はね」
そんなことを言いながら、マスカラを塗りたくる。
「どんなに暑さですぐ崩れたとしても、何度でも化粧するわ。綺麗な自分のためにね」
スッピンのときのあどけなさは消え失せ、そこにはパーツのよさを強調した顔がある。
何故、女は化粧なんかするのか。長年の疑問が解決した瞬間、ちょっと恐ろしくなった。いつもなら「可愛いな」と思う顔が、底冷えのする覚悟を帯びているような気がした。俺、一生こいつに頭上がらないのかも。
彼女は口紅を塗りたくっている。その赤が俺を闘牛みたいな気分にさせた。ようし、そっちがそうなら、受けて立とう。
「口紅はもう少しナチュラルなほうが似合うな」
「ベージュ系とか?」
小首を傾げた彼女に、俺はキスをした。唇に移った口紅を指で擦り合わせて笑う。
「これくらいの薄さがいいよ」
赤面している妻に、ふっと笑みが漏れた。
「俺といるときに化粧の時間を短くさせるには、俺がお前を安心させればいいってことだよな」
愛してるよ。綺麗だよ。一番だよ。俺のそんな気持ちを、妻が日々の中で感じ取って、『こころげそう』しようなんて思いつかないくらい安心させてやればいい。
俺がスッピンを好きなのは、ありのままの妻が好きだから。打算もトリックもない、小さな目を線にして笑う彼女が好きだからさ。
でも、それは俺だけが見られればいい。というより、そういう彼女を見るのは俺の特権だ。もし化粧が自分のためだというのなら、俺といるときには化粧なんて念入りにする必要ない。
妻をそっと抱きしめて、髪を撫でてやった。
「化粧に時間をかけるより、もっとこういうことしようよ」と、耳元で囁いた。俺が一歩リードかなと思った刹那、彼女がにんまりとする。
「単に私は、綺麗な自分が好きなの。でも、悪くないわね」
そう言って彼女はキスを返してきた。
「愛されて女性ホルモンを出したほうがどんな美容液より効きそうね」
はにかむ笑顔の奥に、キラリと光るものが見えた。紫式部や清少納言、和泉式部といった平安女性の強かさは現代女性にも脈々と受け継がれるほど、不滅なものらしい。でも、まんざらじゃないんだ。
そして俺は、夏の暑さよりも上手に化粧を剥がす方法を知っている。塗って剥がして、また塗って、男と女のいたちごっこだ。でも、長い結婚生活をそれで退屈せずに過ごせるなら悪くない。
女は強い。化粧という武器を手に、俺の心を狩りにくる。『こころげそう』をしなきゃならないのは、俺のほうかもしれないな。
あぁ、夏の蝉が俺を笑っているよ。
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