失恋行進曲

 クラスに一人や二人はピアノが得意な子がいるものだ。合唱で伴奏したりすることもあるし、音楽の成績はもちろんいい。すごいとは思う。でもお昼休みや放課後に音楽室で弾いているのを見ると、「わざわざ見せ付けないで家で弾けばいいじゃない」とうざったくもなるし、心を奪われる演奏に出逢ったこともない。

 けれど、高木亮たかぎりょうの場合は別だった。彼は夏休みの誰もいない音楽室を別世界に仕立て上げていた。私はそれがなんていう曲なのかも知らないまま、立ち尽くしていたんだ。


 夏休みにはいって三日目だった。この日は朝から暑くて、いらいらしていた。おまけに終業式のあと、同じ電車で通う別の高校の男子に思い切って告白したものの、手痛く振られただけに気分は最悪だった。

 入学してから一年と三ヶ月、決まって三両目に乗る彼に合わせて必要以上に早い電車に乗って、遠くからずっと見つめていた。勇気を出して駅で声をかけて告白した私に、彼は優しい顔で「ごめんね。でも、気持ちはありがたいよ」と、やんわり断った。


「そうですか。あの、お時間とらせてすみませんでした」


 そう言って逃げるように走り去り、駅から近いコンビニのトイレで少し泣いた。でも、トイレから出た私は、店の中にさっきの彼がいるのに声で気づいた。

 慌てて目の前にあった雑誌売り場に置いてあった本を立ち読みしている振りで、顔を隠した。彼は友達と一緒に、一本向こうの通路を歩きながら笑っている。


「あの子、まぁまぁ可愛かったじゃん? もったいなくね?」


 こう言ったのは友達のほうだった。話題になっているのが自分のことだと気づいて、本にうずめた顔が真っ赤になった。

 けれど、次の瞬間、彼はあざ笑った。


「だって、あれくらいならごまんといるじゃん。それに、気持ち悪いだろ、ずっと遠くから見てましたとか言われても。ストーカーかよ」


 その声は吐き捨てるようで、ひどく私の心をえぐった。彼らは「それもそうだな」と、コンビニでレジを済ませ出て行った。男性向けファッション雑誌なんかを立ち読みしている振りの私に気づきもしないまま。


 夏休みに入ったって、失恋したって、高校生には課題があるのが辛いところだ。

 美術部員の私は学校祭に出す絵を描くために一人で登校した。熱心な部員たちは午前中に来てお昼には帰ったようだけれど、私は昼から学校へ向かった。朝早く起きるには、失恋で落ち込んだ気分では勢いが足りないもの。

 早い人はもう下絵を終えてキャンバスに筆を走らせているらしい。美術室を開けると、油絵の具の匂いが充満していた。嫌いではないけれど、暑いせいもあってつい顔をしかめ、窓を全開にした。

 夏の昼下がり、グランドから野球部のバットがボールをとらえる小気味いい音が響いてくる。青空に映える白い雲が爽快だ。けれど、私の気分は冬のねずみ色をした空に近い。

 イーゼルにスケッチブックを立てて、どんな絵にするか考えることにした。鉛筆は何度か紙面を擦ろうとし、戸惑い、そしてまた下ろされる。線を引いてもすぐに消され、ぼろぼろと消しゴムのカスだけがこぼれる。

 本当はあの片思いの彼をモデルにして、何か描こうと思っていた。けれど、それだって相手にしてみれば『気持ち悪い』んだろう。恥ずかしさとショックとで、猫背で真っ白な紙面を見つめる。

 そのときだった。不意に怒涛のような音の洪水が、静まり返っていた美術室に響いた。思わず何もない壁を振り返る。その向こうは音楽室だ。鳴り響くのはピアノの音色だった。

 メロディは知っている。けれど、曲名が出てこない。おまけに前にどこかで聴いたものよりすごく早いピッチだった。憤怒のような情念がこもっていて、嵐のように早く流れる音色だ。自分の中にある悶々とした気分を一気に爆破させたような衝撃的な音だった。

 けれど、呆然としているうちに数分が経ち、その曲は終わってしまった。


「もう一度弾かないかな」


 こんなことを思うのは初めてだった。また聴きたいと思うピアノを、少なくともこの学校では聴いたことがない。

 そして、少しの沈黙のあと、ピアノはまた歌いだした。その代わり、今度はものすごく暗く湿った静かなメロディだった。鉛のように重い、重い音の連続で、まるで私のさっきまでの気分みたいだ。

 一体、誰が弾いているんだろう。私は鉛筆を握ったまま、そっと廊下に出た。音色はどんどん近くなり、そして閉められた音楽室の扉の前に立つと中を覗き込んだ。

 私は思わず息を呑んだ。

 まず、弾いていたのがクラスで目立たない男の子の高木亮だったことに驚いた。次いで、彼がピアノに座るだけで、いつもの音楽室が凛とした空気をまとい、まるでコンサートホールのような別空間に思えたこと、そして彼の横顔が午後の光を受けてまるで絵画のように見えたのが衝撃的だった。

 今度の曲は湿って重い、まるで何かに敗れた人たちの足取りのようだった。呆然と見とれていると、ふと彼がこちらを見た。ぎくりと思わず肩を震わせたが、彼は気にせず視線を鍵盤に戻した。

 その素っ気ない態度にむかっときた。少しは驚いたり照れたりすればかわいげあるのに。それに、床に転がっている綿ごみを見たような目をされてなにやらムキになってしまった。

 鉛筆を握り締めたまま、もう片方の手で音楽室の扉をそろそろと開けた。高木君はまるで野良猫でも見るような目で、「おや、入ってきた」とでも言いたげにちらりとこちらを見たけど、それでも手を止めない。

 むくむくと悪戯心が沸き起こる。こうなりゃ、うんと近くで見てあげる。最後までポーカーフェイスで弾けるものなら弾いてごらんよ。意地になった私は音もなく彼の真横に立った。

 高木君とは挨拶くらいはするけれど、親しく話すこともない。彼はクラスでも物静かで口数が少ないんだ。だけど無口でも、丁寧で人当たりがいいと評判だった。その彼に無視されたのがさびしかったのかもしれない。

 あぁ、意外と手が大きいんだ、などと思いながら、隣に立ち尽くした。彼の地味な黒縁メガネの奥にある目が、鍵盤を見つめている。旋律は重苦しいものから、夢見るようなパートに変わっていった。

 いつまで私を無視するのかとそわそわしていたけれど、次第に彼の演奏に引きずり込まれてしまった。魔法のように動く指と、耳に心地いい音楽は、私の意地など炎天下の氷のように、あっという間に溶かしてしまった。

 そして気がつけば曲はまた重苦しい旋律に戻り、盛り上がり、そして終わった。

 彼が曲を弾き終わったとき、私は思わず拍手していた。感極まって、何を言っていいかわからなかった。

 すると彼はやっと私を見て、こう言った。


「暇人なの?」


 彼はぶっきらぼうにこう続ける。


「夏休みだってのに、なにしてんの」


 そんなこと、こっちが言いたい。

 私が驚いたのはその質問の内容ではなく、彼の態度だ。物腰柔らかでおっとりしたイメージだったのに、今日の彼はいたく不機嫌というか、愛想がない。


「あ、ごめん」


 思わず口をついて出た言葉に、彼が眉をひそめる。


「何が? なんか悪いことしたの?」


「いや、あの立ち聞きして気を悪くしたかなって」


 口ごもると、彼は皮肉っぽく笑った。


「立ち聞きって、こんなに堂々と隣で聞いておいて今更?」


「うん、まぁ、そうなんだけど。高木君、ピアノ弾けたんだね」


 彼は両手を膝の上で組み合わせてうなずいた。


「まぁね。なるべく内緒にしてるけど」


「どうして?」


「ピアノが弾けると、伴奏してくれとか、吹奏楽部に入れとかなにかとうるさいから」


 どうやら、彼の口ぶりは怒っているわけではないらしい。ただ、これが彼の自然な口調なんだ。


「意外ね」


「ん?」


「高木君ってもっと優しい話し方してなかった?」


「うん、普段はね」


「今はちょっと違うのね」


「ピアノを弾けることを知られた人には隠さない」


 普段はピアノが弾けることを隠すように、無愛想な性格に猫をかぶっているけれど、どちらかがバレたら気を遣わないってことらしい。

 私は呆気にとられて彼の顔を見ていた。トレードマークの黒縁メガネはけっこう度が入っている。ふと、レンズの向こうの目が私をとらえた。


「で、ここで鉛筆握って何してんの?」


 美術部の絵を描いていた話をすると、彼は「へぇ」と興味を示した。


「何描くの?」


 ぐっと言葉に詰まる。きょとんとした彼は目を丸くした。

 何故って? さっきまでのピアノで踊っていた心は現実に戻され急降下して、思わず涙をぼろぼろこぼしていたからだ。

 彼を描こうとしていた気持ち悪いストーカーまがいだった自分。そんな自分が哀れで恥ずかしくて。それが失われたら、何も描くものがない薄っぺらい自分に呆れていた。あんなに泣いたのに、それでも涙は出る。

 高木君は呆気にとられて、私がみっともなく泣くのを見ていた。彼は何も言わず、ただただ、ピアノの鍵盤に左手をついたまま、じっと私を見つめていた。なんだか気まずくなってきて、涙でぐしゃぐしゃの顔をもっと歪ませながらぼやいた。


「ちょっと、慰めの一言くらいないの?」


 すると彼は困ったように眉を下げる。


「慰めなんてもらっても、よけい惨めにならない?」


 確かに。正論だけどなんか憎たらしいわね。


「でもさ、『どうしたの?』って一言くらい訊いてくれてもいいじゃない」


 口を尖らせた私に、彼は意外にもふっと微笑んだ。


「話したいなら、聞くよ」


 この人、つっけんどんなのか優しいのか、わからない。けれどそのときとても心地いい優しさだと感じた。

 私はぽつりぽつりと失恋の顛末を語る。高木君は時々無言でうなずきながら話を聞いていた。


「やっぱり、勝手に絵に描くって気持ち悪いよね?」


「まぁね」


 彼はにべもなく言い放つ。


「あぁ、そうですよね」と、うなだれた途端、彼は苦笑した。


「昔、ピアノ教室に好きな子がいてさ」


 驚いた。高木君の恋愛話なんて聞いたことがない。


「小学生の頃かな。調子に乗ってコンクールの前に『君のために弾くから』って告白したらひっぱたかれた」


「へ?」


「コンクールは自分のために弾くような人がいいって」


「はぁ」


「その人を想って弾くのは、好きな人に好かれた人だけの特権なんだって思い知った」


「なるほど」


 彼は私に向かって、唇の端を吊り上げた。


「だけどさ、ピアノ演奏とは違って、絵に残すと失恋したときにキツイからやめたほうがいいと思う。仮に付き合えていたとしても、別れたときにしんどいよ」


「ご忠告どうも」


 顔がひきつるのを感じながら、無理やり笑みを作った。高木君はふっと笑う。


「次いけ次、なんて言わないけどね」


「え?」


「簡単に次にいけるような簡単なもんじゃなかったのはわかるからさ。たくさん泣いてたくさん後悔して、たくさんひきずってたら、いつの間にか違う人を見てると思うよ」


「あ、ありがとう」


 びっくりした。高木君が背中を押すようなことを言ってくれたってだけじゃない。なんだか、その一語一句がしみいったから。

 もしかしたら、それは彼自身がピアノ教室の子に振られてから得たものだったからかもしれない。そう思った途端、彼はふいとピアノに向き直した。


「で、練習の邪魔なんだけどいつまでいるの?」


「そういう高木君はどうしてここで練習してるの?」


「家がリフォーム中で今日はピアノのある部屋に入れないんだ。先生に事情を言って借りたんだよ」


「ねぇ、さっきのすごいね。なんて曲?」


「二つ弾いたけど、どっち?」


 最初に聞いた激しい曲と、ついで流れてきた沈痛な響きの曲だろう。


「どっちも」


「ショパンの『革命』と『葬送行進曲』だよ」


「もう一回、聴かせてくれる?」


「どっちかにして」


「じゃあ、『葬送行進曲』で」


 彼は中指で眼鏡をちょっと上げると、鍵盤をたたき出した。

 足を引きずるような、それでいて湿った大地を踏みしめるような葬送行進曲だ。私の失恋も地を這ってひきずってでも、墓の中に押し込められたらいいなと思えた。

 途中で曲はがらりと様変わりして夢見るような旋律に変わる。それを聴きながら、ため息が漏れた。

 あの恋も、悪いことばかりじゃなかった。遠くから彼を見て胸をときめかせていた時間は、無駄じゃなかった。だって、あのとき私は一生懸命になれていた。

 そして再び、あの十字架を背負うような旋律が訪れた。けれど今度は思わず胸が詰まるほど壮大で涙が溢れた。

 私はちっぽけな存在だ。想う人に見向きもされず、ぽつんと取り残された。けれど、大きな何かがそんな私を包んでくれた。

 ふと、鍵盤を流れるように動く手から、彼の横顔に視線を移した。黒縁メガネの向こうでちょっと伏せられた目は、長く濃いまつ毛が窓からの光を受けて綺麗だった。

 私はそのとき、彼が美しいことに初めて気がついた。

 男子に『美しい』というのは変な気がするけれど、素晴らしい絵画と出会ったときと似た衝撃を受けていた。

 なぜ、彼がそう見えたのかわからない。ピアノが上手だったから? 励ましてくれたから? ううん、そうじゃない。きっと、彼の見ているものが果てしなく遠く大きいものだって気がして、羨ましく思えたんだ。

 演奏が終わると、彼は静かに私を見た。けれど、何も言わない。ただ、私が何か言うのを待っていた。


「ありがとう」


 私はそう言うので精一杯だった。言葉にならなかったんだ。彼のピアノがどどうっと私の中に何かを押し流し、なんとも言えない想いがあふれ出しそうだった。

 また目頭がじわりと熱くなった。慌てて踵を返して立ち去ろうとする。これ以上、彼に泣き顔を見られたくなかった。


「ねぇ」


 突然、彼が呼び止める。おそるおそる振り返ると、彼はこう言った。


「絵、楽しみにしてるよ」


 そのとき逆光の中にいた彼は、どんな顔をしていたんだろう?

 狐につままれたような顔で美術室に戻ると、またピアノの音が響いてきた。今度は最初に聞こえた激しい曲だ。確か『革命』だと言っていた。

 私は耳を傾けながら、真っ白いスケッチブックを見つめた。いくつか線を描いては消した跡の上に、鉛筆で新しい線を引いた。

 私が描いたのは、誰も座っていないピアノだった。『革命』を聴きながら、走る鉛筆は加速していく。洪水のように溢れる音色一つ一つに背中を押されているような、心を燃やせと囃し立てられているような気がしてならなかった。

 さぁ、革命を始めよう。そんな声がした。

 白いスケッチブックの中に描かれていくピアノの椅子に座るのは高木君だろうか。それともいつかこの心を高らかに鳴らす誰かだろうか。

 今はわからない。ただ、ピアノの上に黒縁メガネを描き込んだのは、彼へのお礼のつもりだ。

 夏休みがあけたとき、彼はどんな顔をして絵を見るだろう。何も言わなくていい。けれど、できればまた彼のピアノを聴きたいと思う。今度は違う曲を。

 いつの間にか、彼の黒縁メガネの奥にある顔をもっと見てみたいと願う自分がいた。

 響け、葬送行進曲。私の失恋を棺に横たえ、花を敷き詰め、土に埋めよう。

 彼が違う曲を弾いてくれるまで、鳴ればいいわ。

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