青い蝶

 父の書斎は幼い頃の私にとって、なんともいえず神秘的な場所だった。たった六畳ほどの部屋が、まるで歴史ある図書館のように感じたものだ。

 扉がある壁を含めた三面は天井まで本棚になっていて、窓のある一面には机があった。その革張りの椅子に座ると、窓の外に目を向けられるように配置されていたのだ。いかにも活字中毒の父らしい部屋だった。

 本棚は書物で溢れていた。古書や作品集、随筆、伝記とジャンルは様々で画集や美術書もあった。

 父に似て本が好きだった私も、まるで異世界に迷い込んだような気分で陶酔していた。手に取る本すべてが初めて見る世界の入り口なのだ。

 けれど、私が最も心を奪われたのは本ではなかった。鮮烈に私に焼きついたものは、青い蝶だった。本棚のあちこちに、箱の中に収まる美しい青い蝶の昆虫標本が幾つも飾られていたのだ。

 父はよく私の髪を撫でながら、こう言ったものだ。


「お前は青い蝶のようだね」


 艶のある青い羽を広げる美しい蝶に私を例えてくれた父は、私が中学生の頃に他界してしまい、主を失った書斎はそのまま私のものになった。

 そして私はいつしか、二十八歳になっていた。


美香みか、頼むから」


「しつこい」


 バーのカウンターで、三週間前に付き合った男が泣きそうな顔をしている。


「はっきり言うけど、飽きたのよ」


 彼の顔に屈辱の色が走った。そんなにいい男でもないくせに、自分ではそう思っている節がある男だった。


「あぁ、そうかよ。わかったよ。どこにでも行っちまえ、このブス!」


 先ほどまでとは打って変わった態度に、私は苦笑して立ち上がる。椅子に座ったまま睨んでいる彼を見下ろして、唇をつり上げた。


「そういう言葉は、本当にブスな女じゃないと効かないわね」


 吐き捨てるように呟き、店をあとにした。扉が閉まる間際にカウンターを拳で叩き付ける音がしたけれど、振り返る気もおきない。あぁ、このバー結構お気に入りだったのに、もう来れないわね。

 飲み屋街は春の歓迎会シーズンで賑わっていた。人混みが苦手な私は、すぐさまタクシーに飛び乗る。

 移りゆく車窓をぼんやり見つめながら、さっきのやりとりを思い返す。彼につきつけた『飽きた』という言葉は嘘だ。本当は最初から飽きるほど執着してもいない。ある人の代わりだったからだ。


「美香って美人だね」


「綺麗だよね、美香さん」


 そう言われるのが当然と言えば、世の女性から石を投げつけられるだろうか。でも、父が青い蝶にたとえただけあって、我ながら整った顔と体をしていると思う。

 無論、努力もしている。毎日のストレッチとトレーニング、肌の手入れ、コラーゲン摂取、メイクのノウハウと流行のリサーチは欠かさない。姿勢は常に意識して、歩き方にも気を遣っている。

 ダイヤの原石だって磨かなければただの石だ。でも、磨けば川原の石だって輝く。世の女は誰もが原石だ。それを自覚せずに怠惰に身を任せていながら「あなたは綺麗だからいいわね」なんて妬む女には理解できまい。……そう、芳子よしこのような女には。

 私は苦々しい気分で、車の背もたれにもたれかかったのだった。


 翌日、コピー機の音や電話のコールが響く職場に、昼休憩を告げるチャイムが鳴った。


「美香ちゃん、ご飯食べに行こう」


 隣のデスクで私に向かって微笑んでいるのは、芳子だ。

 彼女は色白で地味な女だった。デブというほどでもないが、細くもない。整っている顔とは言い切れないが、愛嬌があるせいか、可愛いように見える。そんなどっちつかずのタイプだった。地味な事務員の制服がよく似合うだけあって、彼女の私服はもっと地味だ。


「そうね。お腹すいちゃった」


 私は微笑んで鞄を手にすると、芳子と食堂へ向かった。並んで歩くと、彼女の小ささがよくわかる。もしかしたら150cmもないかもしれない。

 社員たちで賑わう食堂の端で、私たちは向かい合って座るのが常だった。私は焼き魚定食を選んだが、芳子は自分で作ったお弁当を持参している。


「芳子、偉いね。ちゃんと毎日作ってるんだ」


「そんなことないよ。今日はズルしちゃって、これは夕べの残りだもん」


「でも栄養ちゃんと摂れてるじゃない。バランスいいよね」


「もう、そんなことないってば。栄養摂り過ぎて太っちゃって大変なんだよ」


 顔では笑って「そんなことないよ」と言っておいたが、内心呆れ返る。『それはあなたが運動もせずにダラダラとお菓子を食べているせいでしょうが。仕事の合間にもチョコをついばむのは止めなさいよね』と言いたくて仕方なかった。

 呑気な芳子を見る私は、どんな表情をしているのだろう。彼女のぽっちゃりした左手の薬指には婚約指輪が光っている。それを見るたびに、私を誘ったあの男を思い出して胸が疼くのだった。


 あれは一ヶ月前のことだ。

 明日は休みだからと夜更かしして読書していた私は、不意に携帯電話が鳴ったのに気づいた。知らない番号だと気づき躊躇したものの、思い切って出てみた。


「もしもし、栗木くりきです」


 その声は、隣の課の栗木尚人くりきなおとのものだった。

 彼はよくも悪くも普通の男だ。中肉中背で顔も悪くもないが、色男というほどでもない。ただ、ひたすら優しくて、少し頭がいい。

 最初は気にもしなかったけれど、ふと彼が煙草を吸う姿を見かけたとき、心臓が音をたてた。私の父に似ていたからだ。姿というより、その眼差しが懐かしい姿を彷彿とさせる。それ以来、少し彼を意識するようになっていた。


「栗木君? どうして私の番号を知っているの?」


 戸惑いながら言うと、彼は私の問いに答えずに、こう切り出した。


「今から会えないかな? なんか飲みたくて」


「えぇ、構わないけど……何かあったの?」


「会ったら話すよ」


 彼は市内の『琥珀亭こはくてい』というバーにいると言い、場所を教えてくれた。私は戸惑いながら電話を切り、首を傾げた。

 何かあったんだろうかと、不安が胸をよぎる。だけど、それと同時に言い表しがたい優越感にも襲われた。彼は他の誰でもない、私を誘ってくれた。番号を知らないはずの彼は、きっとどうにか手をつくして連絡してくれたのだ。

 慌ててクローゼットに駆け寄り、着替えを始めた。新品のストッキングに足を通し、シフォンのスカートをはく。メイクを少し直し、タクシーで約束の場所に向かう間、私はずっと胸の高鳴りを感じていた。


 タクシーは飲み屋街の古いビルの前で止まった。真鍮の看板がライトで照らされ、『琥珀亭』の文字が浮かび上がってる。

 店に入ると、若い男のバーテンダーが出迎えてくれた。


「いらっしゃいませ。お一人ですか?」


「いえ、待ち合わせを」


 そう答えながら目を走らせる。カウンターには数人の先客がいたが、栗木君の姿がない。


「あぁ、こちらへどうぞ」


 若いバーテンダーが案内してくれた先にはテーブル席があり、探していた顔が見えた。栗木君は私を見つけて、どことなくほっとした顔になった。

 彼の向かいに腰を下ろし、バーテンダーにジン・リッキーを頼んでから栗木君に向き合った。


「お待たせ」


「ごめん、急に呼び出して」


 低い声でそう言うと、彼は吸いかけの煙草を灰皿におしつけた。その手元にはウイスキーのグラスが照明で輝いていた。


「いいのよ。それより、どうしたの? 何かあったの?」


 矢継ぎ早に問う私に、彼が眉尻をふっと下げた。その仕草に胸がぐっと締め付けられる。私を『青い蝶』だと言ったときの父と同じ顔に見えたからだ。


「君と話したいことが沢山あったんだ」


「会社でいつも会うじゃない」


「会社じゃ話せないことを話したかったんだ。それに、芳子のいないところで」


 どうして芳子の名前が出てくるのだろう。それに今、彼は名前で彼女を呼んだ。会社ではいつも苗字で呼ぶはずだ。

 私が戸惑っていると、彼は小さくぼやいた。


「俺、迷ってるんだ」


「何を?」


 私は気持ちを落ち着けようと、バッグから煙草を取り出した。嫌な胸騒ぎがした。


「お待たせしました」


 そこへ、バーテンダーがジン・リッキーを運んで来る。目の前に置かれたグラスを持つと、彼がウイスキーを差し出した。


「とりあえず、乾杯」


 私は無言でグラスを鳴らす。ジン・リッキーとともに、言いようのないスリルを飲み下した。


「実はね、俺と芳子は付き合ってるんだ」


 あのときの気持ちを何と言えばいいだろう。屈辱にも似た衝撃とも呼べるだろうか。私は彼の下心を感じ、優越感を抱いて駆けてきたけれど、おあいにく様。彼は青い蝶のような私ではなく、芳子といつの間にか恋仲になっていた。

 芳子は人当たりのよさと家庭的な優しさが取り柄だ。仕事ができるわけでもなく、むしろ同じミスを繰り返す。けれど、懸命にやっている姿で大目に見てもらえるタイプだ。書類をまとめて上司とやり取りするよりも、家でみそ汁でも作りながら、「おかえり」と笑っているほうが似合う。

 彼女はその場に溶け込むのが上手く、そこにいると人をほっとさせるところがあった。まるで春の菜の花畑で舞う紋白蝶のように。

 彼が求めたのは、紋白蝶だ。では、青い蝶の私を呼んだのは何故だろう。

 私は動揺を押し隠しながら「へぇ」と、頷いてみせた。


「それで?」


 彼はふと眉を下げる。強がったのが伝わってしまったのかもしれない。


「付き合って間もないんだけどね、向こうがもう結婚を意識しているみたいで」


「嫌なの?」


「嫌じゃないさ。けれど、早過ぎないか?」


 火をつけたばかりの煙草をもみ消しながら、私は素っ気ない声で返す。


「時間なんて関係ないと思うわ。フィーリングが合えば、それでいいじゃない」


「他にもっと合う人がいるかもしれないって思うということは、彼女とはフィーリングが合わないってことかな?」


 そんな質問を私に投げてくるなんて、ちょっとズルいわね。私は唇の端をつり上げ、「さぁね」と呟く。


「あなたがココで決めることでしょ」


 私は、彼の左胸に向かって人差し指を突きつける。その途端、ぐっと手を掴まれ、視線がかち合った。


「ねぇ、なんで俺が君の電話番号を知ってたか不思議じゃなかった?」


 私たちの手は、バーテンダーの死角で繋がれていた。


「君に電話するために、芳子の携帯をのぞき見たって知ったら、軽蔑する?」


 このとき、私の中でもう一人の私が唇をニタリとつり上げた。優越感を帯びた歓喜が女としての勝利を歌った。


「さぁ。酔いがさめてみないとわからないわ」


 そう言うと、彼は私の目をじっと見つめる。そして「うん」と小さく笑い、バーテンダーを呼んで勘定した。


 私たちは連れ立って店を出た。

 何も言葉が交わされることはなく、彼は右手を上げてタクシーをとめた。運転手に彼が告げた行き先を聞いた途端、心のどこかで怯んだ。

 これでいいのだろうか? 私はそこまで、この男が好きだっただろうか?

 なのに、彼が顔を近づけてくるのを拒めなかった。愛されることこそ、自分の価値観のような気がしてならない。箱に閉じ込められた青い蝶は、愛でられなければタダの死体なのだ。野に飛び交う紋白蝶のように、自然の一部を担うことすら許されない、乾いた標本だ。

 自分がどんな花の蜜を好むのかすら忘れてしまいそう。繰り返されるキスの中、痺れた頭でそんなことを考えていた。


 二人が着いた部屋は、いかにも『ラブホテル』という安っぽさだった。けばけばしいベッドサイドの灯りが下品だ。けれど、もっと下衆なのは私と彼。

 なのに、バッグを床に置き終わることすら待たずに抱きしめ合うと、そんな嫌悪感も一気に脳裏から吹き飛んだ。

 夢中でキスをし、服を脱がせ合う。彼の手が私の体をさまようたびに、『私は彼が欲しいんだ』と暗示をかけられているようだった。

 締まった肢体を彼に晒したとき、彼は確かに息を呑んだ。そして満足そうな顔に火がつき、私たちは本能のままに絡み合った。


 けれど翌朝になると、二人は何も言葉を交わさなかった。ただ一言、彼が「タクシーを呼ぶよ」と言っただけだ。

 気だるい沈黙だ。私は先に来たタクシーに乗り込み、彼の顔を見た。彼の顔は、ただただ遠く見えたっけ。

 それ以来、会社で顔を合わせても、会話することもなかった。携帯電話に連絡が来る訳でもない。

 そして彼を忘れようと付き合った男とバーで別れてから数週間後、出勤した私にニュースが飛び込んできた。芳子と彼が婚約し、おまけに彼女のお腹には三ヶ月の子どもがいるというものだった。

 それを聞いたとき、うまく笑えていたのか自分でもわからない。

 ただ、みんなから祝福される芳子が、私に気づいて微笑んだ。だけど、私には紋白蝶が標本をあざ笑ったように見えたわ。箱の中で、命を紡ぐこともできない死んだ青い蝶をね。


 春が終わる頃、栗木君は転勤し、芳子はそれについていくために退社した。結婚式はしないらしい。

 そして私は相変わらずコピーを仕上げ、伝票を見ながら電卓を叩く毎日だ。

 ある夜、私は父の書斎から持ち出した青い蝶をテーブルに置き、ビールをあおった。

 ねぇ、お前の名前はなんていうんだったかしら? どこで生まれ育つ蝶だったかな? どんな蜜を吸うの? どんな景色を飛ぶの?

 教えて。私もそこに行きたいの。この青い羽を広げて飛んでいきたい。私にとびきりの蜜のありかを教えてくれる人のところへ。どっちに飛べばいいのかわからないけれど。

 そう、わからない。だって、私は青い蝶の標本なんだ。誰かが箱を開けてくれたとしても、虫ピンで貫かれてこの心はそう簡単には動けないかもしれない。乾いた羽では飛べないかもしれない。

 でも、私は生きている。飛ぶしかないのよ、私。

 そうよね、お父さん。

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