抱く香り
同じクラシック・ギター教室に通う彼と付き合い出して三ヶ月になる。
けれど、高校二年生の彼は初々しいことに、いつまでたっても私のアパートに慣れないままだ。
「千尋、座ったら?」
私の部屋で一緒にギターを弾こうなんて言い出したのは彼のはずだが、部屋に着くなりギターケースを手に立ち尽くしている。
「あ、うん。ありがと」
彼はケースを置くと、リビングをきょろきょろ見回し、やっとソファの端に腰を下ろした。
私がコーヒーを用意している間、彼はテーブルの上に置かれた本を数冊めくっている。
「香澄、難しそうなの読むんだね」
「あぁ、それ? レポートの参考文献」
大学二年になる私がこともなげに言うと、彼は「レポートって新鮮な響き」と呟いた。そうか、高校生にはレポートの課題なんてないのか。そう気がつくと、かえって私のほうが新鮮だ。
私だって数年前まで高校生だった。だけど、何故か千尋と会っていると高校生というものが新鮮に映る。それは自分が大学生として板についてきた証なんだろうけど、年の差を感じる瞬間でもあった。
コーヒーを差し出すと、彼は礼儀正しく頭を下げた。
「いただきます」
こういうとき、私は何とも言えない気持ちになる。奥ゆかしくて可愛らしいと微笑ましくなる一方で、もっと自分の家に居るように寛いで欲しくてもどかしくもなる。
コーヒーを何口か飲むと、彼はまるで用意していたかのように色んな話題を振ってきた。
「……それでさ、澪ってバイオリンも上手いんだけどさ」
澪というのは、彼の話によく登場する親友の男の子だ。『琥珀亭』というバーの一人息子らしいけれど、なんでも女みたいな顔をしているんだそうだ。
さっきから千尋はひっきりなしに話し続けている。まるで沈黙が怖いとでも言うように、途切れることなく喋っているせいか、コーヒーはすっかり冷めていた。
彼の顔は、かなり緊張している。浮き足立って自分でも何を話しているのかわからないのが手に取るようにわかった。
思わず苦笑して、「ねぇ、千尋」と声をかけた。
話を中断してきょとんとする彼に、指でケースを指し示す。
「ギター、弾かないの?」
「あぁ、そうだよね。そのために来たのにね」
一気に顔を赤くさせた彼は、極度の緊張状態なんだろう。なんだか、まるで知らない人の家に上がり込んだ猫みたいだ。
そわそわ。どきどき。こわごわ。猫のような彼。いつになったら『うちの子』になってくれるかしら。
翌日、クラシック・ギターのレッスンが終わると、鑓水先生にその話をした。
彼は友人の兄で、私と千尋のギターの先生だ。同時に、男心をよく理解できないときにアドバイスをくれる恋愛の先生でもある。
「僕は千尋君に同情しますね」
彼らしい柔らかな笑みを浮かべ、穏やかな声で言った。
「どうしてですか?」
「だってね、男の子なんだから女の人の部屋に入ってドギマギしない訳がないでしょう? あんなことや、こんなことも考えるでしょうし」
「はぁ」
おっとりして見える先生もやっぱり男なんですね。そう言おうとして口をつぐむ。彼だって、先生という顔をぬぐい去れば誰かとあんなことや、こんなことをしていても不思議じゃない。
「ところで、新しいギターが届いてますよ」
「本当ですか?」
「ほら。すごく状態のいいものですよ」
それまでは先生の練習用ギターを借りていたけれど、とうとう私も貯金をはたいて自分の楽器を買ったところだった。
先生が選んでくれたギターは、手の小さい私のために一回り小さいサイズだった。ツヤツヤと輝き、真新しい。先生がチューニングをして、そぞろに鳴らした。
「小さいからって音がこもることもないし、よく鳴ります。いいギターですよ」
「ありがとうございます」
恐る恐る艶めくギターを受け取る。千尋より先に『うちの子』になったギターは、なんとなく嬉しそうに見えた。
アパートに戻ると、さっそくケースからギターを取り出した。練習用の椅子に腰を下ろし、踏み台に足を乗せる。つるっとした感触のギターを構えると、ふっと鼻先を真新しい香りがくすぐった。
削ったばかりの木の匂いだ。新築の家に入ったときに感じる匂いと言えばいいだろうか。オーダーが入ってから作られるギター製作所の作品らしかった。
深く息を吸い込み、木の馨しい香りを存分に胸にためこむ。なんだかほわんと温かい気持ちになった。まるで赤ん坊がミルクの匂いがして愛おしいように、私のギターは木の匂いがして愛おしい。
赤ん坊を抱くようにギターを抱えた私の中から、愛情というものがにじみ出るのを感じていた。
千尋を抱き寄せたときのようで、ちょっと違う。彼の頭を抱き包むと、彼の家の匂いがする。そのたびに「千尋の匂いだ」とくすぐったくなるけれど、心のどこかでもどかしい。自分の匂いで染めてしまいたくなるような、どこか狂気めいた感情を覚えるんだ。
ギターの中をのぞきこむと、真新しいラベルが内側に貼ってある。これからこのギターは年数を経るごとに音色にもラベルの色合いにも深みを増していくだろう。
じゃあ、千尋は? 私と千尋はどこまで深い音を奏でられるだろう?
そっと我が子にするように、ギターを頬に寄せて私は目を閉じた。
「会いたい」
いつもは千尋から聞かせてくれる言葉が、すっと口をついて出た。
もしかしたら、千尋もこんな気持ちだったのかもしれない。愛情が溢れて溺れそうで、どうしていいかわからなくなる。ふと、そんなことを思った。
翌日、新しいギターが届いたことを知ると、千尋が学校帰りに早速駆けつけてくれた。
「すごく綺麗だね」
今日の彼はアパートに来るなり、真っ先に私のギターをいじり出した。制服姿がなにやら新鮮だ。
コーヒーを置き、私はソファの端に座る。
「千尋」
「ん?」
振り返った彼をじっと見据えたまま、傍らをポンと軽く叩く。
「こっち」
「うん」
パッと顔を輝かせて、彼がギターを置く。もし彼が犬だったら尻尾がちぎれそうなほど振られているだろう。
私の隣に座ったところで、そっと抱き寄せてみた。彼が気持ちよさそうに目を細める。今度は喉を鳴らす猫のように見えた。
髪から、ふわりと彼の匂いがした。彼の家のシャンプーの匂いだ。
「明日、学校休みでしょ?」
「うん」
「泊ってく?」
「へ?」
目を見開いて顔を真っ赤にした彼に、私は思わず笑う。
「千尋の髪を洗いたい」
その髪を、私の髪と同じ匂いで染め上げてしまいたい。それをこの腕の中で嗅いだとき、何かが変わる気がした。
「まぁ、今日じゃなくてもいいけど」
ふっと口が綻んだ。きっと、あのギターが真新しい匂いがするから愛しさを感じたように、彼も違う家の匂いがするから愛おしいのかもしれない。ギターの匂いが私に染まるとき、きっと愛情の形は変わっているはず。千尋もそうかもしれない。彼の匂いが私に染められて『うちの子』になったとき、そして自然にこの部屋でくつろげるようになったとき、きっと彼への愛しさは形を変えている気がする。
それも楽しみであるんだけど、今はこの懐くようで懐かない猫のような彼を目に焼きつけておくのも悪くない。
「意地悪」
私の心を見透かしたように恨めしげに千尋が言うもんだから、思わず声を上げて笑ってしまった。「ごめんね」の代わりにキスをする。おずおずと伸ばされた手が、次第に力強さを帯びていった。
私に染められるのは、やはりギターよりも千尋のほうが先のようだ。あのラベルが色褪せる頃、きっと私たちは深みを増している。そう確信できた。
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