桜と雪、ふるふる
「一生分の恋をした相手」
彼が私にとってどんな人間かと問われれば、迷わずそう答える。
燃えるように求め合い、奪い合うようにキスを繰り返した。どの世界の恋人たちもそうするように、いつまでも一緒にいようと誓い合った。
けれど、北国から独りで移り住んでいた彼の孤独だけは、私にはどうにもできなかった。彼は故郷に帰りたがった。そして、私はそれについていけないと知っていた。
「ねぇ、私はあなたを孤独にさせたくないの」
「それをできるのは君じゃない。故郷だけだ」
そんなやりとりが何度も繰り返された。
我がままな男だと思う。故郷が恋しいくせに、家族はいらないと言う。旅が好きだったせいか、妻子を持ち、その土地に根を下ろすことを怖がっていた。
「俺は自由でいたいんだ」
それが口癖だった。
自由でいればいるほど、孤独はつきまとうものだという矛盾に気がつかないまま、彼は自分を貫いた。
そして、ちょっと変わった男でもあった。彼は誕生日を祝うことを無意味だと嫌がったのだ。
「その日はただ俺が生まれただけってこと。大事なのは今を生きているってことで、生まれた日になんの意味がある?」
そんなことを言うなんて、風変わりで寂しい人だと思った。。
そしてある年の春、彼は自分の誕生月にとうとう故郷に帰ることを決めた。私は泣きじゃくって、すがるように言った。
「お願いだから、家族を見つけて。私、あなたが孤独なおじいさんになるのは嫌よ」
すると、彼は皮肉な笑みを浮かべた。
「俺は孤独でいいんだ。何かに縛られたくないんだ。それでも、君を愛しているよ」
なんて勝手な男。でも、愛しい男。
私はあのときほど心を揺さぶるように泣いたことはない。
「いつまでも愛しているわ」
嗚咽の合間に、そう呟いた。
そして彼は誕生日が来る前に、故郷へ帰っていった。
淡い色をした桜が舞い降りるのをぼんやり見ながら、とうとう彼は一度も一緒に誕生日を祝うことを許してくれなかったと思った。
私はただ、この世に生まれてくれてありがとうと、キスをしたかった。ただそれだけだったのに、叶わなかった。
それから数年経つうちに、何度か恋をした。でもそのたびに、彼がどんなに特別だったかを思い知るだけだった。
「いつまでも愛しているわ」
そう言える相手がどんなに貴いものかをまざまざと感じた。
そんなある日、彼からメールが届いた。故郷で昔なじみの友人だった女性と付き合い、彼女との間に子どもができたから結婚するという内容だった。
そのとき私を襲ったのは、やり場のない怒りにも似た絶望感だった。彼のFacebookで見た彼女の写真は、私とまるで正反対の大人びた顔だった。
一気にどす黒い嘆きが渦のように私を呑み込んでいく。
ねぇ、彼女にあって私になかったものって何だった? 私は家族になる価値もなかった? あの「愛している」は嘘だった? そこにいるのは私だったかもしれないのに。
「いつまでも愛しているわ」
あのとき呟いた言葉を嘘にさせないで欲しかった。
それからというもの、葛藤の日々が続いた。彼のFacebookなんて見たくないのに、見てしまう。嫉妬は本当に醜い。自分の顔を鏡で見るたびにそう感じていた。
でも、一年後にFacebookを開いた私は小さな驚きの声を漏らした。
そこには幼い赤ん坊の写真が公開されていた。穏やかに笑う彼が、よく似た男の子を抱いているのだ。今まで見たことのない慈愛に満ちた顔に、私は身動きがとれなかった。
同時に、ふっと力が抜けてしまった。
あぁ、これで彼は孤独じゃなくなった。そんなことを思い、ふつふつと喜びが沸き起こった。
お人好しかもしれない。でも、それだけは本当に嬉しかった。
そして、私はそれ以来、ぱったりとFacebookを見なくなった。
あの笑顔を見た私は、本当に彼は私の手の届かないところへ行ってしまったんだと気づいたのだ。私では救えなかった孤独から、他の誰かの手に導かれて出て行った。一生分の恋が、本当に過去になった瞬間でもあった。
それから二年後のことだ。
その年はいつもより寒く、桜も数週間遅れて咲き始めた。
仕事帰りに、あのときと同じ色ではらはらと舞い散る花びらを見て、ふと彼を思い出した。二日前に、彼は誕生日を迎えたはずだった。
「どうしているかしら」
そう呟いて、久しぶりにFacebookを開いてみる。そして目に飛び込んできたのは、ありふれた写真だ。だけど、私には驚きの一枚だった。
彼が膝に子どもを抱きながら、バースデーケーキの蝋燭を吹き消しているのだ。あんなに誕生日を祝うことに意義を見出せなかった彼が、楽しげにしている。コメントには『俺の誕生日に雪が降るなんてどうかしてる』なんて北国らしいけれど、彼らしくないコメント。
ほっとしたと同時に、心底嬉しかった。彼は家族を得て、『生まれてきてくれてありがとう』という想いを知ったのがわかったのだ。
彼は本当に孤独ではなかった。そして、それを嬉しいと思える自分にも、同じくらいほっとしていた。
「いつまでも愛しているわ」
私が彼に言った言葉に嘘なんてなかった。そして、誰とだろうが彼が幸せに笑っているのがこんなにも嬉しい。
懸命に生きた過去は優しく、ちょっと切なく還ってくる。撫でるように、私の口許に笑みとなって宿るものだ。
そっとカーテンを開けると、そこには夜桜があった。舞い散る花びらに、私は目を細める。
彼のいる北国では桜ではなく、雪が舞い散っているはずだ。彼は舞い散る雪に、何を思っているのだろう。
私は桜の花びらに彼との思い出が宿って、心に降り掛かってくるのを感じていた。どんな陽射しよりもあたたかく、どんな雨よりもしんみりと。
桜の季節が巡ってくるたび、私はこの想いに身を晒す。優しく、ちょっと切ない笑みを浮かべて。あの花の色は私の淡い恋と確固たる愛の色だ。
でも、彼が変わったように、私もいつしか変わっていくのだろう。桜に別のものを重ねる日がくるのかもしれない。そして、それを彼も喜んでくれたら、私たちは本当に愛し合っていた証になるのかもしれないと、なんとなく思った。
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