四季彩センチメンタル
深水千世
春
恋は引き算
「いらっしゃいませ」
店員の声が響くのをぼんやりと聞き流しながら、俺はカウンターに肘をついていた。
ここは会社からほど近いところにあるシンガポール料理店だ。店全体が薄暗く、ピンクのライトで染まっている。安くて美味い、なかなかの人気店で、この時間になると人で賑わう。
男の一人暮らしなんて、そそくさ家に帰ったってつまらないもんだ。奥さんや可愛い子どもがいるわけでもない。湯気のあがる料理が食卓に用意されているわけでもない。独身生活というのは自由気ままな一方、夕方になるとほんの少し寂しさを覚えることがある。
この日の俺は、家にまっすぐ帰るのもつまらないけれど誰かを誘ってまで飲みに行く気分にもなれないまま、職場のタイムカードを押した。
そんなときは、このシンガポール料理店で軽く料理をつまんで、タイガービールを煽って帰ることにしているんだ。賑やかな店内は静寂が気にならなくて済むし、カウンターで居合わせた人々の話に耳を傾けていると、結構な気晴らしになるからだ。
いつものようにキンと冷やされたタイガービールを飲み、サテと呼ばれる焼き鳥に似た料理を頼んだ。
タイガービールはあちらでは有名なビールらしいが、シンガポールなんて行ったこともない。けれど、俺の舌に合うんだからそれで満足だ。今はまだ桜の時期だが、もう少し夏らしい陽気になれば、もっと美味く感じるだろう。
鶏のサテにピーナッツソースをつけてかぶりつき、ビールで流し込んでいると、カウンターの隣に二人の女性客がやって来た。
「マリコ、何にする? ビールでしょ?」
「うん。タイガービール」
「じゃあ、私も」
遠慮のないやりとりから察するに、仲のいい昔なじみというところか。ちらりと見やると、どちらも三十代前半といった風貌だった。
右側に座った女は茶色いロングヘアを器用に巻いて、流行の服で身を固めている。左側の女は一度も染めたことがなさそうな黒髪のストレートボブで、童顔だった。
二人はタイガービールが出て来るまで「元気だった?」だの「仕事どう?」だの互いの近況を聞き合っている。
右の派手な女は一見、軽薄そうに見える。そのくせ口を開くと堅実なしっかりした物言いだった。一方、左の女は地味で大人しそうに見えるが、その口調がキビキビしてどこか達観した雰囲気を醸し出している。
どうもこの二人は見た目は対照的でも、性格は似ているようだと思いながら、唇についたピーナッツソースを舐めとった。
彼女たちは乾杯をしたあと、料理が出揃うまで他愛もない話をしていた。気だるそうに仕事の話をしたかと思えば、右側の派手な女が惚気話を始める。どうも、最近同棲を始めたらしい。左側の童顔の女はそれを嬉しそうに聞いていた。
その童顔を横目で盗み見ると、とびきりの美人でもないけれど色白で可愛いらしい。咄嗟に、田中さんという会社の後輩に似ていると思った。容貌そのものではなく、あどけない雰囲気が彼女を思い出させたのだ。
田中さんは入社して二年ほどになる若い後輩で、いつもひっそりと一歩下がったところに立っているイメージだ。穏やかに笑う顔は人好きがするけれど、内気過ぎて同僚の輪から外れているらしい。でも、俺はそんな日陰の花みたいな彼女が気に入っていた。
いつか声をかけようとは思いつつ、勇気が出ない。だって、俺より八つも下なんだ。話題だって合うかどうか。そう躊躇しては、静かな小さい背中をいつも目で追っている。
彼女は一人暮らしのはずだ。今頃、一人で夕食でも食べているんだろうか? それとも、誰かと一緒にいるだろうか?
そう思うと、気になって連絡したくなるが、携帯電話のアドレス帳には彼女の名前はない。連絡先を聞くことすら出来ないなんて学生の初恋じゃあるまいし……と、今更ながら自分に呆れてビールを煽った。
その隣では、女性客二人がフカヒレ蒸し餃子を食べては「コラーゲン、コラーゲン」と騒ぎ、バクテーという薬膳スープを飲んでは「体によさそう」とはしゃいでいる。本当に女性というのは美と健康が大好きなものだ。
そのうち、右側の女がこう切り出した。
「マリコ、そういえばあの人はどうなったの?」
田中さんに似た彼女はマリコというらしい。あぁ、そういえばさっきも名前を呼ばれていたか。
マリコは眉を下げ、苦笑した
「駄目。私はユカみたいにアピールできないわ」
右側の派手な女はユカというらしい。もどかしそうに唇を尖らせ、「なんでよ?」と声を高くした。
「せっかくブログで知り合って、何年もコメントやりとりしてきたんでしょ? 気になるなら会えばいいじゃない」
「会いませんかって何度か言ってみたけど、向こうは仕事が忙しいから落ち着いたらって返事ばかりなの」
それを聞いて、俺は心の中で「へぇ」と妙に感心していた。このご時世、出逢いの場は合コンやら街コンだけじゃないらしい。ブログも何もしない俺にはピンとこない世界だが。
ユカがバクテーに入っている豚バラ肉から骨を外しながらしみじみ言う。
「でもさ、顔も知らないのに凄いよね。私には考えられない。それでも魅かれるってこと、あるんだね」
顔も知らない? ちょっと驚いて横目でマリコを見た瞬間、俺はハッとした。何故って? 彼女がはにかんでうつむく姿に目を奪われたんだ。
「文章とか写真観てたらね、こういう人なんだって内面が伝わるの。考え方とか、物の視点とかが凄く好きで」
そう答える彼女は、頬を染めながらも寂しげな目をしていた。それはこの年代の女性だから滲ませることの出来るであろう、影を帯びた美しさだった。
マリコがタイガービールを飲み干して、ため息を漏らした。
「ねぇ、ユカ」
「うん?」
「三十路の恋って、引き算よね」
一瞬、きょとんとした。俺だって三十路だ。だけど、そんなこと考えたこともない。
すると、ユカまで「あぁ」と頷く。
「確かにね。なんだか怖いよね」
「そうなの。いい人が出来ても『ここが駄目』『そこがちょっと』って相手から引き算しちゃうでしょ」
ユカがふっと笑う。
「それに、自分からも引いちゃうよね。この歳になると年下と出逢うことも多いしさ、『こんな年上で申し訳ない』とか『私のここは気に入ってもらえないんじゃないか』とか」
そして、俺はマリコが口にした言葉に胸が狭くなった。
「浮気されたとか、傷ついた過去がよぎって、怖くて動けなくなるのよ。信じてまた裏切られて馬鹿を見るんじゃないかって」
まさしく俺じゃないか。妙に乾いた喉を誤摩化すように、タイガービールを口に含む。
学生の頃、人気者だった女の子にアプローチしたことがある。まんざらでもない顔をしているから舞い上がっていた俺に、友達が教えてくれたんだ。
「あいつ、勘違いしてんの。馬鹿みたい」
そう彼女が言っていたってね。それ以来、俺は女に声をかけるのが苦手になってしまった。
田中さんに声をかけられないのも、そのせいだ。食事でも誘って、どう思われるのか、あとから会社で変な噂がたたないか、怖い。
俺もいつのまにか引き算の恋をしていたんだなと、なんだかビールがいつもより苦く感じた。
マリコが静かに笑う。
「あのね、相手は熱量がないわ。本当に会いたかったら、もっと違う反応をすると思うのよ」
「そうね。落ち着いたらなんて、キープされているみたいで嫌だわ」
ユカが静かに頷く。
「私、あんたには幸せになって欲しいから」
ふと、マリコが微笑んだ。
「ありがとう」
そして、こう呟く。
「ねぇ。ままならないことを受け入れる勇気があればいいのにね。そういう強さが常にあれば、人生、遠回りしなくていいのに」
「そうね。三十路の女は焦るからね」
二人は顔を見合わせ、静かに笑った。彼女たちはいい友達だ。そう心から思った。同時に、田中さんにもそんな存在がいればいいな、と願っていた。
俺は会計を済ませ、彼女たちを残して店を出る。
外の空気はすっかり春らしく、酔った頬にほんのり陽気をまとった夜風があたって気持ちがいい。街角で桜が揺れているのを見つけ、俺ははらはらと舞う花びらに目を細めた。
明日にでも、田中さんに声をかけてみようか。駄目でも、それを受け入れる強さってやつを鍛えられるかもしれない。
春はさ、何かを始めるにはいい季節じゃないか? まずは俺が足を踏み出してみようと思うんだよ。
いつか、田中さんとこの店でタイガービールを一緒に飲める夜が来るといい。マリコとユカとまたばったり居合わせることもあるかもしれない。そのときは、みんな笑っているといいな。夜桜に俺は心の中でそう語りかけた。街灯に照られてた満開の桜は、素知らぬ顔をしていたけどね。
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