第9話 魚‐horror‐

 ある夏の日の午後、釣り堀に出かけた。



 釣り堀は家の近所にあり、暇なときには、そこで時間をつぶす。

 竿と餌で三百円。魚の持ち帰りは、四匹以上は一匹につき八十円。

 釣れる魚は、フナかニジマス。


 緑色に濁った水面に糸を垂らし、時間を忘れる。日常を忘れる。

 特に釣りが好きというわけでもない――釣りが嫌いではない程度。

 こんな自分に釣られる魚は気の毒かもしれない。


「リリースはしないで下さい」と、店番の男はいった。この店の決まりだ。

 釣れた魚はバケツに入れたまま受付に返す。死んだ魚が四匹以上なら、その分料金を取られる。

 生きて残った魚は、客が持ち帰りを拒否すれば、一匹づつに何か薬のようなものを飲ませて堀に返している。



 その夏の一日は、太陽がぎりぎり近くまで迫ってきている暑さで、釣り堀には僕の他に、客はひとりだった。幅三メートル、長さ二十メートルほどの細長い堀で、僕とその客とは長い辺の両端に、同じ方向をむいて座っていた。

 水の近くなら暑さも少しはしのげるかと思ったが、間違いだった。

 釣り堀には貸し麦藁帽子があって、僕も、もうひとりの客も、それを被っていた。麦藁帽子には店の屋号の『番』という文字が大きく書いてある。


 僕は、たぶん二時間くらいは澱んだ水面を見つめながら釣り糸を垂れていた。

 忘れたくても、その日は妻と娘のことが頭から離れなかった。ふたりは妻の実家にいる。もうひと月近くになる。

 魚は、水の中には、いないのかもしれなかった――きっと、クーラーの効いた部屋で清涼飲料水なんぞを飲みながら、馬鹿な人間どもの噂話でもしているのだ――そんなことを想像しながら、ふと顔を上げると、もうひとりの客がこちらに顔を向けているのが見えた。その客の顔が判別できないほど、陽炎が立っている。

 そのとき、手応えがあった。


 僕は、大きなニジマスの入ったバケツを持って受付に戻った。

「もう終わり?」と、受付にいる店番の男がいった。

 男はバケツの中を覗いて「ほお―」と、いい、僕が何もいわないうちにビニール袋にニジマスを入れて、僕に渡した。ニジマスは、男に掴まれているあいだはおとなしくしていたが、僕がビニール袋を持ったとたんに、むやみに暴れた。


 僕は、麦藁帽子を店に返し、ニジマスを持って帰路についた。

 外は灼熱地獄のようだった。家までゆっくり歩いても十分ほどだが、途中日影がないのでやたら遠く感じる。

 家が遠く感じるのは、暑さのせいばかりではなかった。妻と娘が今いるはずの、那須の木陰の家を思い浮かべる。僕が戻ろうとしているのは輻射熱に炙られた住宅街の箱の中だ。

 僕はビニール袋を掲げ、なぜ持ち帰ることにしたのだろうと思いながら、ニジマスを眺めた。ニジマスはおとなしくしていた。


 後ろから足音が近づく気配がした。振り向くと、麦藁帽子を被った男が歩いている。釣り堀の麦藁帽子だ。さっきまで釣り堀にいたもうひとりの客に違いなかった。僕がその男だと分かったのは帽子のせいばかりでなく、かなり印象的な男の形のせいだった。肩がほとんどない。やたらに長い腕をだらんと下げている。帽子の影で、やはり顔は見えない。

 この暑さだから、忘れたふりして帽子を持ち帰ったのかもしれない。


 僕はまた家に向かって歩きはじめた。男の歩みは妙に頼りなくゆっくりで、追いつかれることはなさそうだった。



 家にたどり着き、僕は玄関の前から庭のほうへまわった。庭の水道の下にバケツを置いてニジマスをその中へ入れる。釣り堀でビニール袋に入れてくれた堀の水に、水道水を足してやる。ニジマスは、バケツの中を一周し、観念したかのように動きを止めた。


 以前、一度だけ、釣った魚を持ち帰ったことがあった。妻は、汚れた魚は食べないといった。結局、バケツにいれた魚は、死ぬまで放っておかれた。それは多分ゴミの日に妻が処分したのだと思う。


 このニジマスも同じような運命をたどるに違いない。ただ、僕が自分で処分しなければならないのだろう。

 僕は家に入り、居間のエアコンをつけた。暑くなりすぎた部屋の空気は簡単には冷えそうもなかった。一度窓を開けて空気を入れ替えたほうがいいかもしれない。僕はそう思って、庭に面した掃出し窓を開けにいった。


 カーテンを開け、なにげなく庭の水道のほうに眼をやる。するとそこに麦藁帽子が見えた。驚いて窓を開け、身を乗り出して外を見る。

 水道の前に、麦藁帽子を被った男がしゃがんでバケツを覗き込んでいた。麦藁帽子には大きく『番』と書いてある。


「なんですか?」 僕の声は少しうわずっていた。知らない人間に突然自分の領地に踏み込まれ、違和感と驚きと恐怖がいっぺんに襲ってきた。


 男は立ち上がって僕のほうを見た。

 その顔も、からだつきと同じように変わっていた。

 おでこと顎が小さく、口元が前に突き出ている。髪の毛は麦藁帽子に隠れてよく分からないが、眉毛がなかった。目は、ぎょろりと大きく、黒目をむき出しにして大きく見開いている。顔色は蒼ざめていた。暑さのせいか、それとも具合が悪いのか、顔中に脂汗が流れている。

 男は何もいわずにじっと僕の顔を見つめた。


「なんですか?」 僕はもう一度聞いた。

「あ……」と、いって、男はまた黙った。

「失礼ですが、どなたですか?」 

 僕は、男にそう聞いてしまってから、心の中では、男の名まえを知ることが妙な関わり合いにつながるような気がして焦っていた。

 男は黒目をきょろきょろと動かし、唇をパクパクと喘ぐように開け閉めしながら「わたしは……う……うお……です」と、いった。

「うお?」 それもまた変わっている。

 男はまた、僕の顔をじっと見つめている。瞬きひとつしない。

「いったい、何のご用です?」

 僕は、相手に出ていって欲しいという意味を込め、多少声を荒げてまた聞いた。


「釣られた魚がどうなるのか、気になりまして……」


「え……?」

 僕には、相手の真意がまったく分からなかった。釣り堀でさっきまで魚を釣り上げようとしていた人間が、他の釣り人のなにを探ろうとしているのか。

 そのとき僕はあることに気付いた。

「うおというのは、魚のこと?」

 すると、僕の胸の中で、目の前の男の奇妙な顔立ちや姿かたちに納得いくものがあるような気がしてきた。背中に冷たい風が当たりはじめていた。エアコンの吐きだす冷えた空気が、僕の横をすり抜けて庭へ逃げ出していく。

 南西を向いた庭がいよいよ暑さを増していく。ここ数日、夜でも気温が下がることはない。


 うおという男は西日を背負ったまま、言葉無く、ただ頷いた。

 この男は、自分を魚だといっている。そういうことなのだろうか。


 居間のテーブルの上に娘の絵本が置きっぱなしになっていた。――『人魚姫』


「どうやって、人間になれるんだ?」

 僕は、自分がそんな質問をしていることに驚いていた。魚が人間になる――そんなことは、あるわけがない。しかし僕は、目撃している事象がこの世にありえないことだとしても、受け入れようとする自分が心の内に在ることも知っていた。


「そうなりたいと……。ただ、望んだだけです。釣られていった魚はどうなるのか、この眼で見て、教えてやらないと……」

 男はそういうと、くるっと背を向けて庭から出ていった。フラフラと、おぼつかない足取りで――まるで、人間になったばかりで歩き方もよく分からない、『魚』のように。


 僕は一瞬後に、庭用のサンダルをひっかけて男の後を追った。道に出てあたりを見まわしたが、もうどこにも男の姿は見えなかった。



 バケツのニジマスはからだを横にしてゆっくりと口を動かしていた。その様子を見ているうちに、僕は、目の前にふたつの道を提示されたような気持ちになった。

 ひとつは、簡単だった。なにもしない。

 ふたつめは、釣り堀からの帰りに、ニジマスを見ながら、なぜ持ってきてしまったのだろうと思った気持ちと重なった。


 僕はバケツの中に製氷皿の氷を入れた。それが弱っているニジマスにとって良いのかどうかは分からない。でも、人間が暑さで参っているのだから、きっとニジマスも同じ、そう思うしかなかった。

 僕はそのバケツを抱えて、釣り堀へ向かった。



 釣り堀の店番の男は、僕がニジマスの入ったバケツを彼の目の前に置くと、僕とバケツとを交互に見ながら、なんで? という表情をした。

「釣った魚を返しにきた人はいないよ」と、彼はいった。

「死にそうなんだ。堀に返してやってくれないか」

 店番の男はバケツの中を覗き込み「どうかな……」と、いった。

 しばらくして、彼は、ニジマスを掴み上げると、その口の中になにか薬のようなものを入れて、またバケツに戻した。

「大丈夫だな、きっと。もう少し様子を見て堀に返すよ」

 それを聞いて僕はほっとした。

「これは、ここのぬしなんだよ。でかいだろ。一度も釣られたことがない。今まではね。……たぶん、眼が見えないんだ。針の匂いが分かるんだろうな。さっきは、だから、釣られたのを見て驚いて……」

 僕は改めてニジマスを眺めた。もう横たわってはいない。元気を取り戻しているようだった。

「魔法の薬があるからね、釣り堀の魚は長生きするんだ」

 店番の男はそういって、ニジマスの入ったバケツを持って堀へ向かった。



 次の日の夜、仕事から戻ると、家に灯りがついていた。

 玄関を開けると、娘が走りだしてきて僕を迎えてくれた。

 キッチンのほうからバターの焦げる芳ばしい匂いが漂ってくる。


「お帰りなさい」と、妻は、なんの隔たりも感じさせない笑顔で僕を見た。

「この子がね、絵本を忘れたってさんざんいうんで――『人魚姫』のね。昨日、釣り堀に行ったのよ」

「ふーん、那須に釣り堀があったっけ?」

「うん。あったわよ。人魚になる魚を釣りましょうってことで。そしたら、三十分くらいで十匹以上も釣れちゃって」

 そういって妻は楽しそうに笑った。

「なにが釣れたの?」

「ニジマスよ。ニジマス専門」

 テーブルを見ると、皿のうえには小麦粉をまぶしてバターで焼いた魚が、パセリとレモンスライスで飾り付けられて鎮座している。

「これ、釣ったニジマス?」 僕は思わず聞いた。

「まさか。それは新宿のデパートで買ってきたのよ。釣ったニジマスはその場でリリース。可哀想じゃない? 持って帰ったりしたら」


 そうだよ。持って帰ったりしたら、釣り堀のニジマスは可哀想だ。なんど釣られても薬で長生きして、針の痛みを覚え――釣られるのが嫌になったら、水底に身を潜めて。釣られた先の心配などしなくてすむように……。



 夏の終わりごろ、近所の釣り堀はつぶれてしまった。持ち主が亡くなったということのようで。

 堀はそれからしばらく水が張られたままだったが、冬が近づくころには取り壊され、跡形もなくなった。


 いちど僕は、つぶれた釣り堀屋の、堀の縁にたたずんでいる麦藁帽子の男を見かけた。それが人間になれた魚だったかどうかは、よく分からない。










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