第6話 壁の虫‐S.F.‐
石を積み上げた壁は湿りを帯びて、部屋の中はやけにひんやりとしていた。
男は壁に、陽が沈んだ数を刻み続けていた。窓は高い位置にあり、手を伸ばしても届かない。ただ外の明暗が分かるだけだ。
壁の傷は五十を超えた。壁に傷をつける以外、男は何もすることがなかった。
部屋にはからだを自由に動かせるスペースはある。音はなにも届いてこない。外の様子は皆目わからない。
男は、はじめのうちは、一緒に捕えられた仲間のことを考えた。ここから出られたときのことも考えた。そして、自分が生まれ育った地球のこと、残してきた家族のこと、傭兵として見知らぬ星に送られてきた日のことなどを思いだしていた。
男は、生まれ故郷の地球から数光年離れた星のうえの戦場で、捕虜になった。そして今は、解放される日を待ち望むだけの時を過ごしていた。
捕虜は皆、生きて返されると聞いていた。敵は、むやみに殺戮を好むわけではないらしい。争いは長く続いていたが、被害の少ない静かな戦いだった。
*
男が、壁の上に小さな虫を見出したのは、刻みつけた傷の数が八十を超えたころだった。
一インチにも満たない小さな羽虫が、壁の傷に付点をつけたようにとまっていた。男は、息を凝らして虫をながめた。
地球の蜂に似たかたち。色は透きとおるようなブルー。
虫はそのまま壁に居続けた。
やがてかたちが変わり始め、男はそれが変態生の昆虫であることを知った。
虫は自分のからだを殻で包んだ。もう羽虫ではなく、まっ白な真綿にくるまれた繭だった。
「王女様」と、男は繭にささやきかけた。
「君は中で着替えの最中かい。今度はどんなドレスに着替えるのかな」
繭は日増しに大きくなっていった。男は毎日、繭の成長を眺めて暮らした。繭から目を離すことができなかった。繭に話しかけ、柔らかな殻に触れてみたりした。
男の頭の中は、繭のことでいっぱいだった。
ときおり、繭が男に話しかけてくるようになった。直接頭の中に甘美な言葉をかけられて、男は心を震わせた。
繭のささやきは、音楽のように男の感覚を刺激して、快い気分にしてくれた。
繭は、恋人がそうするように、男のことをいろいろと知りたがった。
男は、自分のことを何もかも話して聞かせた。
やがて繭は、男のからだよりも大きくなった。はじめて壁にとまってから、すでに二十日が過ぎようとしていた。
男はいつのまにか、壁に印を刻むことをやめてしまった。
男のからだは、熱に浮かされたようにだるかった。毎日、決まった時間に差入れられる食事をとり、それ以外はベッドにからだを横たえたまま過ごすようになっていた。目だけは絶えず繭に向けられている。
*
繭が、ゆらゆらと揺れ動いた。まもなく新たな変態を遂げた虫が、殻を脱いで姿を現わす。男はそれを理解した。
記憶の片隅に、その虫についての情報が浮かび、男に危険を告げていた。だがそれは濃い霧の向こうにあって、男に、危険を回避するための行動を促すだけの効力を持たなかった。
目を覚ましたつもりでも、男の頭は朦朧としていた。与えられる食事の量が、異常なほど増えているのにも気づかなかった。男のからだは巨大な豚のように太っていた。もう、自分では立ち上がることもできない。
*
男の目の前に、自分の顔があった。精悍な顔立ちの、戦意に燃えていたころの自分だった。夢を見ているのかと、男は思った。だが、夢ではなかった。
自分にそっくりな男が、自分の顔を覗き込んで、うれしそうに笑っている。
「やあ、ずいぶんと旨そうだ」と、その男はいって、舌なめずりをした。
「生まれたばかりの気分は最高だよ。特に、目の前にご馳走が用意してある場合はね。――これから君の生まれ故郷まで、少し長旅をしなくてはならないんだ。君の代わりに、僕が帰還することになった。十分君の代わりは出来ると思うよ。君が何もかも教えてくれた。まるで以前、地球に住んでいたような気持ちがする」
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