第3話 台所を手伝いにきた鬼‐fantasy‐
「人が死んで、集まりがあるけぇに、鬼が、台所の手伝いに来とる。
頼まれんでも、自ら来るほどじゃぁでぇ、悪い鬼じゃなかろ……」
頭の豆粒くらいに小さい婆が、幾重にも羽織ってでっかく着ぶくれた丹前の襟口から目をだして、わたしに向かってそういった。
見れば、部屋の隅に人がわんさと集まっている――部屋といっても、とてつもなく広い。豪農の田んぼの四枚分くらいはある――。
奇妙な婆だと思ったが、集まっている人たちも皆、それぞれに奇妙な風体をしている。
「ならば、鬼に会いにいってくる」
わたしは大広間を抜けだし、鬼のいる台所へいくために廊下を歩いていった。
廊下は、細く、まっすぐで、どこまでも長い。所々にぼうっとした灯りの燈った行燈が置かれてあるが、光は弱く、行く先は墨を掃いたように暗い。
台所の場所はどこだか分からない。廊下の両側には襖障子が並んでいる。ずっとどこまでも同じようだ。
ずんずんと歩いていくと、ようやく灯りのついた部屋に出くわした。襖がわずかに開いている。中を覗くと、たくさんの膳が並び、精進の馳走やら酒徳利が置かれている。膳の前には、ゆうらりフワリとした様子の影の薄い人々が座っている。
「台所は、どこでしょう?」と、声をかける。
その問いかけに振り向いた人は、なんだかこの世の人とは思えない風貌をしていた。姿がなかば溶けかけて、どこか違う次元にでも呑まれかけているようだ。
「さぁ……。知らないねぇ……」
答えた声にも奇妙な音が混じっている。半濁和音。鈴の音。笙の音。
「ならば、そこにある料理を運んでくる人は、おりますか?」
「はて……。知らんよ」
「鬼が、手伝いに来ているそうですが……」
とたんに襖がピタリと閉じた。部屋の灯りも消えた。襖に手をかけるが、ピクリとも動かない。
仕方なく、わたしはまた廊下を行きかけた。
ふと見ると、向こうのほうに今までなかった光が見えた。なんだか、食べ物の匂いもする。――台所だろうか。わたしの足が速まる。
そのとき急に頭に浮かんだ。――いったい誰が死んだのだ? 鬼とは、なんだろう……わたしはいったい、何者?
考えたとたんにシャカッと途切れる。目も耳も利かなくなる。一瞬のことだが恐ろしい。総毛が立つ。からだのあちこちが自分のものではない気がする。
視界がもとに戻ると、目の前に男がいた。長い廊下を塞ぐように、のっそりと立っている。
男は髭をたくわえ、大仰な髷を結っていた。侍のようだ。男はわたしをまじまじと見つめ、そして、
「なんと! このようなところでお会いするとは……」
そういって、わたしに向かって深々と頭を下げた。
わたしは面食らった。思いきってたずねてみる。
「申しわけないが、わたしはあなたを存じません。
いいえ、それどころか、自分自身が誰なのか、
実のところ、それさえ分からないのです。
もしなにかご存じなら、教えてくれませんか」
それを聞いて、男は驚き、しばらく口をあんぐりとして、わたしの顔を見つめていた。
「これは……。いったい、どういうことか。
まことに、あなたが、ご自身の覚えがないとは……。
でもわたくしには、それをお教えするわけにはいかないのです」
それを聞いて、わたしの首の骨に穿たれた楔が、クキルッと音を立てる。
男は申し訳ないというように目を伏せて続けた。
「誰も、あなたの名を呼ぶことはできません。
それは、決まり事で……。
どうぞ、気を悪くしないでいただきたい」
「ならば、せめて、鏡のようなものがあるところを知りませんか」
「かがみ……?」
「自分の姿を見れば、なにか思い出すか知れません。
あ、そうでした。わたしは台所を探しているのです。
鬼が来ているというので、会いにいきます。
台所へいけば、、水瓶などもあるでしょう。
台所の場所をご存知ですか?」
「はて……」
男は困った顔をする。
「あなたは、水瓶に、ご自分の姿を映し見ようと思っておられる。
もしかすると、それは出来ないかもしれません」
「なんです?」
なんのことだろうと、わたしは思った。
ますます気持ちが締め付けられる。
この不自由な、がんじがらめな想いはどうしてだろう。
わたしには、男のいっている意味が分からない……。
男はますます頭を垂れて、もごもごと声も小さくなる。
「今は、鬼すらもくるという事態なのです。
それは、そもそも……。つまり、あなたが……」
「なんなのです?」
「わざわざ、あなたのほうから鬼に会いにいかずとも、
お呼びになれば、すぐさま飛んでくるでしょうに」
「わたしは鬼を知りませんよ」
「度忘れなさっておられる。
もっとも、あんなことがあった後では、無理もありません」
男はそういったかと思うと、踵を返して走り去った。素早い動きでたちまち見えなくなった。気がつけば光も消えている。
わたしは、静まりかえった闇の廊下の奥を、見透かそうと目を凝らした。
……鬼も、台所も、どうでもよくなった。
なにか、気持ちの隅に引っかかるものが生まれた。
呑みこみきれない猪のあばらの骨のようだ。
誰かが死んだと、聞いた。
死者の魂の離れていく祭がある。
人が集まっているのはその為だ。
では、魂を操るのは誰だろう。
魂が暴れないように、鎮めの祈りをする者は、いるのだろうか。
魂が暴れると、とんでもないことが起こるのだ。
吹き止まぬ風と、闇をもたらす霧が覆う。そればかりでは無い……
しかし、まあ、鬼が台所を仕切っているのであれば、事はうまく運ぶのだろう。
鬼の役目がそうなら、わたしの役目は、いったいなんだろう。
大事が、今、あるような……いま少しで、頭の中が晴れてくるような気がする。
……そのとき、闇のむこうに、赤いからだの鬼が見えた。廊下を横切り、急いでなにかを運んでいく。
生臭い。盆に載せて掲げていたのは、なにかの獣の肝のようだ。
鬼はわたしに気付かない。さっき、わたしは鏡に写らないといっていたから、たぶん鬼の目には見えないのだ。
廊下はどこまでも終わらない。部屋の灯りの消えた襖障子が、ただずらずらと並んでいるだけだ。
わたしはおそらく台所へはたどり着けない。
思いを変えた!
とたんに、背中の継ぎ目がピリッと裂ける。弦を弾くような音がして、鹿の脚の腱からつくった糸が切れる。
七つの頭と七つの尾をもつ龍と戦った折、あかがね色の龍の爪で背中の皮肉を引き裂かれた。そこを腱の糸で繕ってある。まだ癒えてはいない。
仕方がない。きりきりと力が張り詰める。成す術が分からぬのだ!
わたしは襖に手をかけた。すると……
「開けてはいかぁん!」
耳元で豆粒婆の声がした。姿はないが、何処かでわたしを見ているようだ。
「なぜだ!?」
「開けてはなりませんのじゃぁ!」
婆の叫ぶのは泣き声に聞こえた。
だが、わたしの襖にかけた手には、ドクドクと血の流れる力が込められている。
「えぇいィィィ!」
婆の声などかまうものか! 枷をはめられた荒ぶる心が内から声を上げる。
もはやそれに逆らうことはできない。事を起こせ! 事を起こせ!
力を込めて襖を開く。満身の力を、襖にかけた手に込める。
どうしてもそうしなければならないと、想いの内のなにかが叫ぶ。
ヒョォオオオォォォ……と、風が笛を吹く。幾千枚もの襖障子が宙に舞い、桜の散る花びらのように飛んでいった。
襖障子の取り払われたそこには、風の吹きわたる草原があった。
わたしは総毛だってそれを眺めている。前も後ろも、右も左も、見渡す限り、果てしない。長い廊下は、草原の中の一本の道になっていた。
キイィッと首の楔が刺し込んでくる。いづれ落ちるであろうか、この首。
「いいや。落ちはしない」
耳元で誰かが笑いながらそういった。
「なに?」
振り向くとそこに、人の形のものが立っている。花のような香りもする。
人の形は白い光。
「その首、わたしが拾って挿げた。
わたしの仕事の確かさは、知っているな」
「兄上?」
オォ……と、わたしの声が、裂けて赤い肉のみえる口から漏れた。
わたしの耳元に聞こえた懐かしき声音。それを聞いたときから、わたしはもう、わたしが誰なのかを知っている。
いや……。手をかけた襖がカクッと手応えを寄せて、開くはずのない襖障子がするすると、押し車のように押されていくのを感じたときに、わたしは、わたしが誰なのかを知ったのだ。
開けてはならない襖を開けた。
灯りが燈った部屋を探して廊下を行かなければならなかったのに、気の急く性根が間違いをさせたのだ。
「どこまでいっても灯りの燈った部屋は、無かったろうよ」
兄の声は、哀しい。
「わたしは、どこまでもどこまでも探さなければなりませんでした。
それなのに、自分の手で開けてしまった……」
「いいや。おまえが開けなくとも、
……結界は……
いずれ勝手に開いたであろうよ。
鬼が持ってきた聖獣の肝も、役には立たなかった。
あの鬼は、おまえの親であるのかもしれないな。
鬼でありながら、人の役にたとうとしてくれた。
……嬉しかった。
ああ、もう、こうしては、いられなくなった。
弟よ。別れをいう。
これは、寿命というものだ。
時が来たのだ」
人の形をした光がわたしの横をすり抜け、草原の上に立った。
逝くために身構えているのだと、わたしには分かった。
光は今しも飛んでいこうとする。
「兄上! わたしの力が足りなかったのです」
胸が、痛い。
「おまえは十分、わたしのためにしたのだ」
「わたしは、あまりのことに恐れて、正気を失い、
自分の成すべきことを忘れてしまったのです。
どうか、戻ってください!」
心の奥に、想いの楔が刺さって、苦しい。
「結界が開いてしまえば、もう定めは変えられない」
「兄上」
「人は死ぬが、神に生まれかわる。
わたしはもう逝かねばならない」
「兄上!」
わたしは兄の光に触れようとした。手を伸ばし、光のなかほどに兄の感触を探した。――痛みが走った。からだを貫く雷神の鞭に打たれたときのような、いいようのない痛みが走った。
「向こう見ず!」と、叱咤する兄の声が轟いた。
「おまえは向こう見ずだな……。
おまえを鬼が捨てていった。
あまりに美しい赤子なので、拾って育ててみようと思ったが、
やはり鬼の子。
短気で、粗暴な振る舞いは、鬼の気性そのものであった。
おまえは、太刀で遊んで、
自分の首が落ちてしまっても、ケラケラと笑っていたよ。
それに、心に悲しみを持つと、鬼の姿を見せる。今のように……
母上が亡くなった時も、そうだったな。
頼むから、わたしに、美しいおまえを見せてくれないか」
自分がどんな姿をしているのか、わたしには分からない。
「わたしもいずれ、神になれますか?」
「鬼は、死ぬことはないのだろう。ずっと、鬼のままなのだ。
人の役にたつ、よい鬼になれ」
「兄上には、もう、会えないのですか」
わたしの問いに、兄は答えない。
そして一瞬、兄の顔が見えたような気がした。わたしの望む想いが目に映したのかもしれない。兄の心がわたしに見せたのかもしれない。
そして兄は、わたしに強く論した。
「婆がおまえを呼ぶであろうから、そちらへ行けよ。
わたしが逝く風に巻き込まれるな。粉みじんになるぞ」
兄の光はもう宙に浮いて、小さく鋭い輝きの塊になっている。その塊を誰も正視することはかなわないはずだ。だがわたしの目には見える。
兄が、須弥山(スミセン)の頂近くにある洞窟でみつけた水晶から、わたしの瞳を造ってくれた。その瞳だからこそ、逝こうとする兄の光が見えるのだ。
清く真白い魂の御姿。
そしてだんだん高く上がっていく。
「兄上!」あらん限りの声。想いが喉元を吼えさせる。
「ヒコよ! 達者で……」
一塊の光となって、兄が、天上へと迎えられていく。この世と彼の世とを結ぶ、風渡る草原のかなた、錦の雲のたなびく天空の向こうへと。
「……ヒコ様。夷彦様」
耳元でそう呼ぶ声は、婆の声。
わたしは褥に横たわっている。
わたしの傍らには、冷たくなった兄の骸が……。
国を守って戦い、数百の敵の矢に当たって倒れた。
わたしは瞼を閉じたまま、婆の泣くのを聞いている。
わたしの力及ばず、兄は逝ってしまった。
それが定めであったと、兄は、わたしを慰めた。
兄は、わたしに見送ることを許した。
わたしは恐れ、戦いている。
鬼が入れぬ境界に、わたしは居た。魂の、召されて昇っていく様を見ていた。
『魂を呼び戻す』『魂を鎮める』 それがわたしの役目だ。
しかしそれは、単なる儀式にすぎない。
いつもわたしに見えるのは、黄泉の国から訪れる使者のほうだ。
人の魂を抜く使者が、家の門に立つのが見える。わたしは死を予言する者。
人ではないわたしに『夷彦』(イヒコ)と名付けたのは兄であった。
『夷』とは、よそ者を意味するのだと教えてくれた。そして、よそから来た者は尊いのだと、わたしの心が高められるように、願ってくれた。
兄はわたしの力を見出し、役目を与えてくれた。わたしは、黄泉の国から来た使者に、人の命の定めをかけあう。
それがなんの役に立つのか、皆目わからなかった。
それでもわたしの役目だ。鬼であるわたしに与えられた、天命としての仕事だ。
そしてそれが、兄の、願いであった。
兄のすべてはわたしの心にある。わたしのすべては、兄の願いの中にある。
強き者よ。尊き者よ。心深き、優しき者よ。
わたしは、兄よ貴方のようになりたい。成れるものと思いたい。
わたしの目頭に、熱いものが湧き出た。
兄がいっていた。鬼とは泣かないものだと。そんなことはない……。
わたしは鬼でありながら、美しい姿をしているそうだ。ならば、涙も出よう。
人である兄が、わたしを拾って育てたのだ。だから、心は人のように育ったのかもしれない。
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