第46話 祝杯を上げよう
「まさか本当に自力で帰ってくるとはねえ」
しわがれた声。弾かれたように振り返ると、すぐ隣に構えも取らずに老婆が立っていた。
覚えのある顔だ。思い出そうとして、しかし頭がずきりと痛んで思考が遮断される。短く悲鳴を上げて頭を押さえる。何度か深呼吸をすると、痛みは和らいでいった。
「あまり無理をせん方がいいだろうよ。頭に相当な負担をかけたからね」
「貴女……私に何を――」
「大丈夫か、会計殿」
なずなの疑問を遮って、駆けつける者がいた。
馴染みの顔が覗き込んでくるのを見て、なずなは目を丸くする。
「田路彦、何で前線に……」
「状況が変わったのだ」
田路彦に支えられながら立ち上がる。足元がパシャリと音を立て、水たまりが出来ている事に思い至った。雨が降っていた。人生初の雨に、しかし感慨にふける余裕はない。
身なりを確認すると、酷い格好をしていた。アビス・タンクは破壊されて残っていない。ところどころが破けたボディスーツが露わになっている。アビス・タンクの防御機構のおかげか、身体への負傷がそれほど深刻ではないのが救いだった。傷や打撲はあるが、臓器の損傷や骨折には至っていない。
アビス・タンクの忘れ形見ともいうべきか、かろうじて右腕部が肩口から引っかかっていた。巨腕をぶら下げたシルエットはかなり不格好だ。右腕部は独立稼働が出来るよう調整してあった関係でまだ動くが、その巨腕で振るうための武器は失われている。
戦力を大きく失った事に嘆息するうちに、段々と記憶が鮮明になっていった。
なずなは視線を転じて、憮然とした眼差しを老婆へと向ける。
「……どうして止めを刺さなかったの?」
老婆――スクルド・ラオベンはつまらなそうに鼻を鳴らした。
「ふん。思い出したようだね」
「ええ、貴女の魔法の直撃を受けたところまではね」
四愚会の魔女に勝利した直後、なずなはスクルドの急襲を受けた。俄かに、老婆が放ったとは信じがたい威力の魔法だった。尋常でない密度の光熱波は一撃でなずなを呑み込み、アビス・タンクを破砕するに至った。
昏倒した――のだろう。
それからの記憶は曖昧だった。恐ろしいような、楽しいような、そんな相反する感情だけが脳裏にこびりついている。頭に負担をかけたというスクルドの言から察するに、精神干渉の類を受けていたのだろうか。
「……何をしたの?」
「まだ生きてる事が不思議でならない、そんな面をしてるねえ。やれやれ。本当に全く、若いってえのに死にたがりばかりだ」
スクルドは大仰に嘆息した。が、すぐに考えを改めたように額を打った。
「否、そうでもないのかね。何せ楽園の檻から出てきたんだ。余程の執着がなきゃあ、ましてや死にたがりなんぞには絶対に壊せない檻だ」
「楽園の檻?」
おうむ返しに尋ねるなずなへ、スクルドは目を眇め、瞳の奥を覗き込むような視線を寄越した。深い皺の刻まれた顔の中で、老婆の瞳はやけに瑞々しく、爛々と輝いていた。
「大したもんだよ、アンタ」
その凄みに気圧されて、なずなはたじろぐ。
容量を得ない回答を出すスクルドの代わりに、田路彦が口を開いた。
「魔法による精神干渉を受けたのだ」
「精神干渉……」
「端的に言えば悪夢の類だな。但し看破しない限り、二度とは目覚めぬ類の悪夢だ」
言われてみれば、不可解な記憶の残滓が脳裏にこびりついている。顔ぶれは良く見知った生徒会のメンバーだったように思う。にもかかわらず、彼らと過ごした出来事には奇妙な違和感がつきまとっていた。
つまりそれこそが、現実とは乖離した、悪意ある幻想の類だったのだろう。
「成程、よく覚えてないけど、言われてみれば変な違和感があるわ。曇ってるけどまだ昼間よね? もっと時間が経ってたような気がするもの……」
「恐らく悪夢と現実とで経過する時間に差があったのだろうな。実際には、会計殿は一時間四十二分で楽園の檻から抜けだしたのだ」
「貴方が助けてくれたの?」
問うと、田路彦は苦笑しながら肩をすくめた。
「いや、スクルド老の言うとおり、会計殿は自力で帰ってきたのだ」
「そこの坊や、初めは血相変えてアタシに詰め寄ってきたんだがねえ」
「――スクルド老。それは言わないよう進言したはずだが?」
田路彦が厳しい視線を向けるが、スクルドはどこ吹く風でカラカラと笑っていた。
「いいじゃないか。美談だよ。楽園の檻がどんなもんかを説明したら、坊やはすっと冷静さを取り戻してアタシに言ったのさ。ならば放っておいても問題ないのだってね」
田路彦からの並々ならぬ信頼に気づかされ、なずなは目を丸くする。
そしてスクルドと同じような表情――悪戯っぽい笑みを浮かべて田路彦を小突いた。
「何? そんなに評価してくれてたの私の事? 可愛いとこあるじゃないの」
「やかましい小突くなうっとおしい。吾輩は冷静に判断を下しただけに過ぎないのだ」
緊張感のないやり取りに、スクルドは表情を柔らかくした。
「何故止めを刺さなかったかと聞いたね。簡単さ。アタシゃ負けたんだよ、アンタに」
「……はい?」
嫌がる田路彦を左手一本で制圧しながら、なずなはスクルドへと目を向ける。
「腕っぷしの強さだけが勝負の決め方じゃないだろうよ。アタシはアタシなりの勝負をアンタに持ちかけて、結果、アンタが勝ってアタシゃ負けたのさ」
自分だけが納得して、からからと笑うスクルド。
なずなは困ったように渋面した。明らかに無傷な老婆から、戦力を大きく削がれた自分が勝ちだと宣言されても、何一つ腑に落ちてこない。
楽園の檻での顛末が彼女の評価を変えたのは想像に難くない。だが、自分がそこで何を成したのか――肝心な部分を覚えていないのだから、疑問は尽きなかった。
「よく、分からないんだけど」
「そのうち話してやるさ。今度、茶でもしばきながらね。だけどいまは大事な事がまだ残っているだろう?」
そう言われては、ひとまずは溜飲を下げるしかない。
とにかく、これ以上危害を加えてくるような気配はないようだ。自分や田路彦が無事な時点でひとまずは脅威の対象から除外していいだろう。
思考を切り替えて、田路彦へと水を向け直した。
「状況が変わったって言ってたわね、田路彦」
「ああ。趨勢は決したのだ。あとは書記殿と監査殿にかかっている」
「桐吾君と、それに……歌誉?」
なずなは眉をひそめた。
当初の作戦行動において、歌誉の役割はそれほど重要ではなかった。謀反した魔族がいるという印象操作によって、魔族の隊列を乱すのが彼女の役割だった。
その情報戦が、意外にも功を奏したという事だろうか。
田路彦はふっと口元を緩めた。
「監査殿の歌によって強化された男女族の攻勢によって、龍魔は劣勢に立たされている。魔族も龍族も士気を下げているのだ。元々が弱者殲滅を目的に現われた彼らに、決戦に臨むだけの覚悟はなかった。想像を超えた抵抗に、龍魔の牙城は崩れつつある」
「どういうこと? 歌誉の歌?」
「監査殿はとんだ食わせ物なのだ。歌を詠唱と代え、戦場全体に魔法をかけた。男女族を癒し、強化する魔法だ。まさかそんな事が出来るとは、恐らく本人でさえ考えもしていなかっただろうがな。彼女は魔族の中でも四愚会に相当するレベルの使い手なのだ。その戦果は、絶大だったのだ」
「……勝てるの?」
誇らしげな口調の田路彦に、なずなは寧ろ呆然と問う。
十年以上をかけて突き進んできたその目標の達成が、眼前にまで迫っている。告げられる吉報に、なずなはどんな表情を浮かべていいのか分からない。
「言っただろう。あとは書記殿と監査殿次第なのだ。彼らがドラコベネ・ゼゼブ・ベネ・レゼに勝利する事が出来れば、長かった戦争は終わる――いや、正確にはキーマンがもう一人か」
田路彦が視線を転ずる先を追って、なずなは息を呑んだ。
二十メートルほど先、破壊されて無造作に積み上げられた瓦礫が高台のようになっている場所で、物憂げに人影が佇んでいた。
頬杖をつきながら戦場を見る彼女は雨に濡れるに任せて、遠目にも、まるで泣いているように見えた。
「ファアファル・ラオベン……!?」
「魔族が士気を下げている原因はあれにもあるのだ。四愚会代表・ファアファル・ラオベン、そしてその母親・スクルド・ラオベンが戦場を放棄しているこの現状。魔女達の困惑や逡巡は行き場を失くし、指標を求めて彷徨っているのだ」
「アタシゃもう負けてるからね。参戦する気はないさ。そもそもこんな老骨引っ張り出そうって根性なしばっかなのが気に喰わないねえ」
スクルドは嘆くようにそう言って、懐から取り出した酒を煽る。大儀そうに瓦礫に腰を下ろすと、酒気を帯びた息を吐き出しながら問いかけてくる。
「あの子はずっと何かを隠してきた。アタシにも、逝っちまった阿呆の旦那にもね。その秘密にいままさに直面して動けずにいる――違うかい?」
「その通りだろうな」
「元はと言えばアンタ達の差し金なんだろう?」
「それも正解なのだ」
スクルドは探るような眼差しで、zしかし気安げに問いを重ねた。
「ここまで来たんだ、流石に見当はついてるがね。教えておくれよ。そいつぁ何だ? アンタら人は一体あの子に何を吹きこんで、どこに勝機を見出した」
「発端は三年前なのだ。前生徒会長・周防破鐘がファアファル・ラオベンに持ちかけた。龍魔の関係性の悪化や人族の技術発展を背景に、彼は対立とは違う関係を築こうと画策した。すなわち――」
遠くで爆炎が上がり、不吉な音が風を伴って襲ってきた。
その爆心地で、桐吾とドラコベネは戦闘を繰り広げている。
なずなは遠くの眩しさに目を細め、戦場へと足を向けた。
田路彦はスクルドへの返答を一旦保留として、なずなへと向き直った。
「会計殿」
「まさか止めたりは、しないわよね?」
背中越しに振り向いて、なずなは田路彦へウインクをして見せる。
田路彦は肩をすくめて苦笑した。
「うむ。約束はまだ果たしていない。行って書記殿や監査殿と共に戦い、全ての条件にきっちり蹴りをつけて――祝杯を上げようではないか」
その背中の押し方は、どうにも微妙に彼らしくない。田路彦自身も勝利を掴める距離にまで来て、高揚しているのかもしれない。
それも仕方のない事だろう、となずなは不敵な笑みを浮かべて思う。
何せなずなの心は、武者震いでいまにも弾けてしまいそうだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます