第45話 あの素晴らしい世界へ
「いやでも、もしかしたらもう帰ってて、電気消し忘れかもしれないわよね。そんな事先生にばれたらヤバいんじゃないかしら。うん、そうよね」
わざわざ口に出すのは、一体誰に言い訳しているのか。
なずな自身、そんな考察を本気にしているわけではない。それが証拠に、しっかりと差し入れをコンビニで買ってから校舎へ忍び込んだのだ。
階段で三階まで上がると、廊下奥から明かりが漏れている。理科室と書かれたプレートが視認できるまで近づくと、カチャカチャと金属質な音が聞こえてきた。
「あ、まだ残ってたんだ、ふーん……」
さも意外だと言いたげな小声は、いかにも白々しい。扉の向こうに彼がいるのだと思うと、どういうわけか動悸が早まってきた。コンビニ袋を提げた手が汗ばんでくる。
他に誰かいないだろうかとあたりを見回す姿は、すっかり不審者然としていた。
「いやいや、何に緊張してるのよ私らしくもない」
ノックして彼を驚かせて、差し入れを渡しながら開発の進捗なんかを少しだけ聞いて、先生に叱られないようにねと釘を刺して出てくる。うん、それで行こう。
目を瞑って大きく深呼吸して、
「――網代さん?」
「ひゃうっ!?」
突然名前を呼ばれて肩が跳ね上がった。
目を見開いた先、扉を開けた桐吾が不思議そうな眼差しでこちらを見ていた。
不意打ちだ。完全に虚を突かれた格好のなずなは、驚かせるどころか驚きで身体が縮こまってしまった。
「どうしたのさ、こんな時間に」
「え、あ、いやその、ああこれッ、そう、差し入れ!」
バッとコンビニ袋を差し出すと、桐吾は素直に受け取って中身を覗き込んだ。
「肉まん?」
不思議そうな目のまま視線を上げた桐吾へ、なずなは視線を返す事が出来ない。すっかりイニシアチブを取られて、平常心を取り戻せないまま窓外へ目を逸らしている。
それでも、二人以外に音を立てるもののない夜の校舎だ、息遣いで、彼が表情を和らげて笑みを浮かべたのが分かった。
「ありがとう、これ見たらちょうど腹が減ってきたよ」
「そ、そう、なら良かった。じゃあ私はこれで、別に何ってアレもなかったし――」
何ってアレって一体何だと胸中でツッコミを入れながら、踵を返して来た道を戻ろうとするが、
「網代さんも食べていきなよ。二つあるみたいだし、寒くなってきたからね」
背後にかかった声で足を止める。振り向くと、笑みを浮かべた桐吾と目が合った。一度目を合わせてしまうと、もう帰る理由を探す事が出来なくなってしまう。
そもそも一方的に差し入れをして速攻で帰宅する謎のクラスメイトというのは、あまり気持ちのいいものではないだろう。
ばつの悪い顔で微妙に目を背けつつ、浅く頷きを返した。
「……じゃあ、少しだけ」
正直、パンケーキを食べたばかりで空腹感はなかった。それでも二つ買ってきたのは、我ながら何を考えていたのかと思う。
桐吾の後に続いて理科室へ入る際に、ふと思い出したようになずなは言った。
「……あとそれ、肉まんじゃなくてピザまんだから」
理科室には無数のパーツと機械が散乱していた。
ピザまんを食べながらの桐吾の説明で、一メートル程度の人型ロボットを作りたい事までは分かったのだが、その仕組みまではサッパリだった。
机に広げたパーツで作業を再開する桐吾の様子を、なずなは向かい側の席で何とはなしに見ていた。組んだ両手に顎を乗せながら、ふと疑問をぶつけてみる。
「ところで、いつも何時までいるのよ?」
「だいたい十時過ぎまでかなあ」
「貴方それ、ちゃんと許可取ってあるんでしょうね」
「な、内密にしてもらえると助かるかな……」
じろりと睨みを利かせるなずなを、桐吾は苦笑で受け流す。
「じゃあ内緒にしてあげる代わりに条件があります」
「げ、工具買っちゃったから財布ピンチなんだけど」
「そんなカツアゲみたいな真似しないわよ!」
「じゃあどんな?」
「え、うーん……」
言ってみたものの、考えていなかった。しばらく中空に視線を彷徨わせるが、どうにもしっくりくる条件が思い浮かばない。
とりあえず諦めて、なずなは肩をすくめた。
「今日帰るまでに考えておくわ」
「え、網代さん何時までいるつもり?」
「……何よ、いられるの嫌なの?」
手元から視線を上げた桐吾が目を瞠っているものだから、つい憮然とした口調になる。
「あ、いやそうじゃなくて。単純に訊いてみたかっただけ」
「せっかくだし一緒に出るわよ。意外と見てるの面白いしね」
「そっか――じゃあ早めに終わらせないと」
「ねえやっぱり嫌なの?」
「いやそうじゃなくて、夜遅いと心配になるからさ。網代さん女の子なんだし」
「な……っ、あ、そっか。うん、そ、そっか」
急におとなしくなる彼女へ首を傾げつつも、桐吾は作業を再開した。
桐吾と話していると、疲れる。笑ったり怒ったり穏やかになったり不安になったり、感心したり恥ずかしくなったり、ころころと表情を変える羽目になる。
でもそれらの感情の動きを総じて一言で表すならば、楽しかった。
桐吾を見守るうち、なずなも作業を手伝うようになっていた。元来器用で要領のいいなずなはすぐにコツを覚え、当日分の作業を終える頃には指示の先回りが出来るまでになっていた。
談笑を挟みながら一つの目標へ向かって作業する事に、充足を感じた。
ふと一息つきながら見た時計が十時半を示していて、なずなは驚いた。体感時間よりもはるかに長い時間が経過している。それだけ没頭していたのだろう。
しきりに謝る桐吾をなだめながら、二人で工具と機械とを準備室へしまいこんだ。
理科室の電気を消して校舎を出る。
夜の帳はすっかり落ち込んで、吹き過ぎていく冷たい夜気が夢中になっていた体を冷やしていった。それでも、熱を帯びて頭を巡る充実感は少しも冷めない。
「ホントにごめん、こんなに遅くなるつもりじゃなかったんだ」
「だからいいってば。時間を忘れてたのは私も一緒なんだから」
何度目の謝罪だろうと苦笑しながら、誰もいない銀杏並木を二人で歩く。
視線の先にある校門の向こう側ではまだ生活の音を聞き取る事が出来るだろうが、左右に並ぶ体育館にも校庭にも、いまは静謐が満ちていた。
照明の下で賑やかせていた理科室から、急に静寂に満ちた舗道へ移動してくるのは、不思議な感覚だった。
「明日も作業するんでしょ?」
「え、うん、朝からね」
「じゃあさ、さっき言ってた条件決めたわ。明日の作業にも私を参加させる事」
「……いいのか?」
「私がそうしたいの。実は前から興味はあったのよねー」
ふと、桐吾が歩みを止めた。
「どうしたの?」
訊ねながら振り返ると、桐吾が真剣な眼差しでこちらを見ていた。
見せた事のない精悍な表情が、なずなの心をざわつかせる。胸の前で手を組んだのは、動悸の音を少しでも抑えようとしたからか。
街路灯がまるでスポットライトのように桐吾を照らし出していて、彼の額に汗がにじんでいるのも、顔が紅潮しているのもはっきりと見て取れた。
「網代さん、入部してくれないかな?」
「え……」
一際、心臓が高鳴る。うまく言葉を紡ぐことが出来ない。
勧誘しているだけなのに、彼の口調はまるで愛を告白するような真剣さだった。
「今日、凄く楽しかったんだ。網代さんとなら、きっといいロボットが作れるし、いい成績も残せると思うんだ。明日だけじゃなくて、明後日もその次の日も、ずっと、参加してくれないかな」
「それは、その――」
解答を求めるように視線を彷徨わせるが、そんなもの、どこにも見つからない。
当然だ。それは結局彼女自身の胸中から放たれるべきもので、泳いでいた視線は桐吾の視線と交錯し、そこから逃れられなくなる。
彼もまた、余裕を失っている。その想いが純粋であるからこそ、繋ぎとめようと必死である事が分かる。
「来てくれて、凄く驚いた。でもそれ以上に嬉しかったんだ。自分でも不思議なんだけど、こんなに安心できるのは初めてで。網代さんに会えて、一緒の時間を過ごせて、だから僕は、その、ロボットを作りたいのももちろん本音なんだけど――」
彼の心の叫びが、痛切になずなの心へと届こうとしている。
純粋に。必死に。ただ一つの想いを叶えようとするために。
それは誰かに良く似ていた。何かに打ち勝つ覚悟を決めた、ここにいない誰かに。
「だから――」
ああそうか、となずなは思う。
これが幸せの形なのだと。
これこそが目指すべき幸せの形なのだと思い、なずなの頬を涙が伝う。
何物にも代えがたい宝物だ――安易に手に入れていい、はずのない。
「僕は何より網代さんと一緒に」
彼の必死さに、純粋さに、なずなの心は氷解していく。
だからこそ――だからこそだ。
よく知っている誰かの事を、否が応にも思い出す。
「――桐吾君」
だからこそ、なずなは呼ぶ。思い出した人の名を、もう二度と失わないように。
胸中で呼ぶ名は一つではない。いくつもの名前が浮かぶ。戦友の名だ。十年以上、志を共にしてきた仲間たちとの、大切な記憶だ。
そしてその数だけ、網代なずなは網代なずなを思い出していく。
だからこそ、なずなは相対する高天原桐吾へと告げる。
「ごめん」
端的に、別離の言葉を。
桐吾の表情が凍りつく。咄嗟に目を逸らして苦笑で誤魔化そうとするが、ショックは少しも隠せていない。なずなの心がずきりと痛むが、彼を受容する事は絶対に出来なかった。
目を伏せるが、それは彼の覚悟に対して不誠実だと思い直し、前を向く。
「……桐吾君」
「いや、はは、そっかゴメン、調子に乗って変な事言って、本当に……」
「桐吾君」
「あ、でも明日だけは来てくれるんだよね、それで最後に――」
「桐吾君!」
ぴしゃりと言い放ち、桐吾の両頬を両手で包み込む。目を背けようとする桐吾と、無理やりにでも対峙する。覚悟と困惑と激しく揺らめく感情の動きが、彼の黒瞳にはっきりと表れていた。
彼の頬は熱かった。その熱に負けないくらい、なずなの両手にも熱が通っていく。
「ありがとう桐吾君。凄く楽しかったし、嬉しかったし、ずっとこんな日々が続いたらいいって心の底から思えた。歌誉や虹子と馬鹿話して、部活と勉強に精を出して、遊んだり喧嘩したり、そのうち恋をして――それは私がずっとずっと憧れてきたものよ」
「なら……」
「でも駄目なの。私にはまだ、この幸せを享受するだけの権利がない。だって私は、まだ何も成し遂げていないもの」
なずなの頬を伝う涙が、雫となって煉瓦敷きの舗道を濡らす。
雫の落ちた地点から波紋が広がるようにして、光が広がっていった。温和にして残酷な光は暖かく力強い風を呼び、二人を包み込む。
朱の混じった黒髪をはためかせながら、なずなは桐吾への言葉を続ける。
「約束する。私達は絶対に勝って、いつかこんな景色を――ううん、これ以上の幸せを、きっと手に入れて見せる」
困惑に満ちていた桐吾の表情が、ふっと冷静さを取り戻した。
「戻るのか」
「うん」
「理解出来ないな。辛い記憶を封じられた状態でこれほど素晴らしい世界を体感して、それでも君は、煉獄の戦場へ戻る道を自ら選び取ると言うのか」
「辛い記憶ばかりじゃないわよ。楽しい事も一杯あったし、私にとっては、どれも掛け替えのない想い出。そしてそれはこれからも、どんどん増えていくわ」
「ここで叶う夢を敢えて酷薄な世界で叶えようとするのは、何故だ?」
「うーん……何ていうかここは、いまの私には優し過ぎるかな」
「――やはり理解に苦しむよ」
「じゃあ一つ教えてあげる。貴方はね、一つ思い違いをしてるのよ」
「思い違い?」
なずなは桐吾の両頬から手を放して、数歩を退いた。
なずなの身体が幾筋もの光の奔流に包まれていく。足元の煉瓦が音もなく砕け、剥がれていき、代わりに傷だらけのアスファルトが露出していく。
光の奔流は足元から形を変えていき、馴染み深い兵装が構築されていった。鋼鉄の脚部が、腕部が、胸部が構成されていく中、なずなは柔らかく笑みを浮かべる。
「現実は地獄なんかじゃない。辛い事も悲しい事も、苦しい事もある。現実の残酷さに泣いた事だって何度もある。でもね、それを乗り越えられるだけの喜びと幸せが、ちゃんとあの世界にはあるのよ。一緒に泣いてくれる友達がいる。一緒に頑張れる仲間がいる。支えてくれる先生や先輩がいて、支えるべき後輩がいる。それに何より、本当の桐吾君がいる。泣いた数だけ報われてきたかって言ったら、それは正直まだ負け越してるけど――言い換えれば、可能性に満ちてるって事じゃない? それって凄く、素晴らしい事だと思うのよね」
それは告白にも似た真剣さで、
永遠の別離の惜しみにも迫り、
再会を誓い合った覚悟にも似て、
旅立ちに放たれた勇ましき宣言のようでもあった。
「だから私は帰るわ、あの素晴らしい世界へ」
なずなの駆るアビス・タンクが地へ剣を突き立てると、光が弾けた。
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