第33話 嘘

ファアファルの視界に、凄惨な光景が広がっていた。


その光景は、否が応にも十五年前を想起させる。

オルテラによる突然の召喚。悪戯に肥大していった混乱と戦火。野放図に広がる燎原。ろくに意味も与えられずに絶命していった同胞達。


炎の赤。血の赤。いつ終わるとも知れずに視界を染め上げていく赤。

同じだ。あの時の戦争と。


だがこれは、過去のフラッシュバックなどでは、決してない。いままさに、現実に起こっている惨劇だ。

星の輝きさえ呑みつくす炎が、ファアファルの住む断頭庭園を喰らっていた。


「いったい、何があったん……?」


人族の娘を治療し、帰宅したファアファルを迎えたのがこの惨状だった。

俄かには信じがたい。数時間前まで健在だった街を、まるでそれ自身が意志を持っているかのように、炎が貪欲に喰らっている。


「報復だとさ……」


瞠目するファアファルに応える声があった。

振り向くと、彼女の母、スクルドが立っていた。錫杖を手に危なげなく立つ彼女は、見たところ怪我もないようだった。


「お母さん……良かった、無事で……」


混乱に震えている手で、母の手を取る。幻想でない事を確かめるように。


「……いったい、何があったん?」

「ドラコベネ・ゼゼブ・ベネ・レゼだ」

「旦那が……?」

「嘘に対しての報復だって、奴は言ってたよ」

「嘘……?」


ぴんと来ないまま、おうむ返しに尋ねる。

当惑する娘を見る目を、母は咎めるように細めた。


「アシハラの天板は壊せない――アンタ、あの龍にそう言ってたそうじゃないか」

「……ッ!」


息を呑む。咄嗟に母の手を放した。震える手から動揺を悟られまいとした。だがどうしたって表情が強張るのを、ファアファルは抑える事が出来なかった。


「確かに容易じゃないだろうね。アタシも見た事があるが、あの頑丈な鉄板はドラコベネには壊せないだろうさ。最強の龍に出来ない事は魔族にも出来ない。プライドの化身みたいなドラコベネがそれを疑わなかったとしても不思議じゃない。魔族は龍族に劣る。けどね、天板なんて動かないもんが相手なら話は別だ。詠唱に時間さえかけられりゃ、魔法はどこまでも威力を増してくんだ」


明かされていく。ファアファルの嘘が。そしてそれが招いた罪が。

母の視線に気圧されたか、絶句するファアファルが尻餅をつく。


「ドラコベネには破壊出来ない。魔女は好き好んで人族の街になんざ行かない。人族はここは安心だと勘違いをする。だからその嘘は成立し得た」


俯いたファアファルの頭上から、言葉の雨が降る。

良かれと思ってついた嘘が、瓦解していく。


「だけどアンタはもう少し慎重に考えを巡らせるべきだったのさ。それがどれだけ危うい均衡の上に成立していたかを」


細く脆い綱の上を渡っていたのだと、ようやく自覚する。そしてそこから落下した先に待つのは、煮え滾る業火だったのだ。


「十年以上も嘘をつき続けてきた魔族を、ドラコベネは許さなかった。奴が挨拶代わりにぶっ放した炎弾で、何百人もあの世逝きさ。そっからはあっという間だったよ。皆、事情も知らないまま死んでいった。生き残ったのはアタシも含めて数十人、やっとそれだけ逃げおおせた」

「お母さん、私……」


何かを言わなければならない。謝罪でも弁明でも。だがこういう時に限って、咽喉は灼けたように熱を持ち、言葉はまとまらない。


何を言ったところで、全てが言い訳だ。劣等種族の治療に出かけている間に、自分が犯した罪によって、無関係な同胞達が罰を受けた。どこに釈明の余地がある。


あらゆる言い訳の代わりに、ファアファルは訊ねた。

ずっと気になっていて、怖くて訊けなかった事を。


「あの人は……?」


名前を呼ぶよりも他人行儀で、だけれどもしっくり来るその呼び方を、ファアファルは一人にしか使わない。スクルドもそれを承知していた。

炎が爆ぜる。風が熱を運んでくる。柱が折れ、崩れる。そっと目を閉じたスクルドは、それら惨劇の音の間隙をついて、静かな声音で短く告げた。


「逝っちまったよ」


胸中に昏く深い穴が開く。


「……そう」


もう会えない。最愛の人に。二度と会う事はない。毎日顔を合わせていたにもかかわらず。今朝も笑顔で見送ってくれた。だけど、もう会えない。


最期に交わした言葉は何だっただろう。最期になるなどまさか意識せずに交わされた、その言葉は。行ってくるよとか夕飯は何だとか、多分そんな、色も甘さもへったくれもない、何でもない言葉だったと思う。


現実味はない。落涙もない。ただ実感の伴わない悲劇の存在を示すように、ぽっかりと、胸中に空虚な深淵が広がっていく。


炎の熱が消える。炎の音が消える。炎の色が消える。

何もかもが彩りを失っていく。


「ドラコベネからアンタに伝言がある」

「アシハラを潰すて、そう言いはったんやろ……?」


攻めない理由をなくしたいま、アシハラを放置しておくはずがない。ドラコベネの考えは手に取るようにわかった。

だが、それならばなぜ、虚言を吐いた魔族へまず制裁を加えるだろうという事に考えが及ばなかったのか。己の浅慮に歯噛みする。


「挙兵して二日後に開戦だとさ」

「二日……」


随分と性急な話だ。それでは満足な数の兵は集められないだろう。

二日で集められる兵力は限られるだろう。せいぜい三百か、五百に届けば御の字と言ったところか。

換言すれば、その程度の兵力で十全だと、ドラコベネが考えているという事だ。


また、挙兵に時間をかけている間に人族が天板を再築してしまっては元も子もない。

軽侮と警戒、その天秤にかけた結果が――二日という事か。


「魔族も手を貸せと言ってきたよ。裏切りによる謝意を、戦果で示せとね」


ファアファルの目が細められる。

その瞳に暗い情念が湧き上がってくる。


視界に広がる炎の海よりも尚黒く、粘着質なそれは、怨嗟だ。

二日後、アシハラは壊滅する。断頭庭園を襲った惨劇と同じものに、否、それ以上のものに見舞われるのだ。最劣等種である人族に、勝ち目などない。


あらゆる幻想、希望、期待が、ドラコベネの炎の前には灰と帰す。

立ち上がる。背筋を伸ばす。


ファアファル・ラオベン――四愚会の長にして魔族代表。

彼女が取るべき行動は一つ。


『支配からの脱却。それが我々の目的だ』


唐突に、かつて聞かされた言葉が脳裏をよぎった。

半年以上前の技術提供会で、人族代表・周防破鐘はそう言った。

ファアファルは自嘲する。なぜ今更になって、そんな言葉を思い出すのか。それがどれだけ金言であろうと、亡者のそれとあっては戯言に等しい。


馬鹿馬鹿しい。


無駄なのだ、何もかも。児戯をどれだけ研鑽しようと、所詮はままごとの域を出ない。戦う土俵が違うのだ。殊勝なる挑戦を、顔色一つ変えずに一蹴する程度には。

ファアファル・ラオベンは決断する。


「魔族に招集をかけとくれやす」


後悔も自責も、悲憤も悲哀も惜別も諦念も後回しだ。

何よりもまず決別を覚悟し、その立場を表明するべきなのだ。

魔族代表として。


改めて認識する。同盟を結んでいる相手が誰で、敵としているのが誰なのかを。


「せめて、あての手で――アシハラを堕とす」


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