第23話 一回ドン引きしてこいよ童貞少年

自嘲するように口元を歪めて、衣緒は続ける。


「もうさ、なーんも出来る事なくて出てきちったよ。あまりにも手の施しようがなくて、医者が雁首揃えて手ぇこまねいてんの。全身大火傷でボディスーツ脱がせる事も出来ないし、特に肺がやられてんのが痛いね。管繋いで呼吸させんので手一杯」

「そんな……」


語られる惨状は、桐吾が漠然と予想していたよりも凄惨だった。


「あの、会う事も出来ませんか……?」

「面会謝絶。決まってんでしょ。つうか、女の子があんな姿見られたいわけないし」

「では、戦線の復帰も難しそうか」

「はっ。復帰? いつまでも夢見てンなよタロ君。有り得ないって。何もかも上手くいけばあと二週間くらいは生きられるんじゃない?」

「そんな言い方……ッ」


桐吾は反射的に抗弁しそうになるが、踏みとどまる。非難しても仕方のない事だ。

彼女は三時間以上もなずなの治療に身骨を砕いてきたのだ。

それが医者の見解であるならば、素人である桐吾に返す言葉はなかった。


膝をついた桐吾は顔を覆い、現実を呪う。つい昨日まで元気に振る舞っていたなずなを思うと、涙が溢れるのを止められなかった。


田路彦はきつく目を閉じて、しばらく天井を向いていた。嗚咽も震えも表出させず、涙さえ見せない。だが血の滲む程に固く握られた拳が、静かに彼の悲壮を感じさせた。


しばらくの間、誰も言葉を発さなかった。何かを暗示するかのように、煙草の灰だけがぽつりぽつりと積もっていった。

悲嘆に重く沈む空気を嫌うように、田路彦が呟く。


「……報告、感謝するのだ豆戸女史。出来れば引き続き、会計殿を頼むのだ」

「行けるの?」


行くの、ではなく、行けるのと、衣緒は訊ねる。淡々とした口調からは窺い知れないが、田路彦の胸中ではまだ失意と動揺が渦巻いているに違いない。

しかし田路彦は、いつも通り淡々と答えた。


「やる事は山積みなのだ。今後の方針の検討もあるし、正午から行われる監査殿の裁判まで時間もない」


桐吾の肩がびくりと震える。歌誉を裁く裁判が、あと数時間で開廷する。

田路彦は、俯く桐吾を見下ろした。


「書記殿。昨日の会議を勝手に進めてしまった事は謝るのだ。我々の判断も軽率だった。すまなかった」

「……」

「また都合の良い事を言うようだが――我々は君を必要としているのだ。生徒会役員として、共にアシハラの未来を担っていきたいと思っている。そのためにも、まずは監査殿についての話を聞かせてほしいのだ」


桐吾は返答を探すが、すぐに霧散してしまい、上手くまとまらず、沈黙を続けた。


「先に行っているのだ。待っているぞ、書記殿」


肯定も否定も得ないまま、田路彦は踵を返した。

遠ざかっていく背中を見送る事もせず、やがて足音さえも聞こえなくなった。


「これはびっくりだにゃー」

「……ぇ?」

「タロ君が生徒会役員だって自分から言うの、もしかして初めてなんじゃない?」


記憶を手繰り、そういえば、と桐吾は初めて気づく。

確かに彼は、いつも仮役員である事を殊更に強調して、どこか距離を置き、一線を超えないようにしていた節があった。


今回の凶事で、彼の意志に何か変化があったのかもしれない。


「ねえ、桐吾君は知ってたん? 歌誉ちぃが魔族って」

「歌誉は――魔族なんかじゃありませんよ!」


言下に否定した桐吾は、立ち上がって、険しい表情で衣緒を見下ろした。

対し、衣緒は嘆息しながら二本目の煙草を取り出した。


「じゃあさ、アレ何だったわけ?」

「それは……」


魔法。端的にして決定的な解答を持ちながら、しかし桐吾は口ごもる。


「そんな調子じゃ先が思いやられるねー。ったく、一夜にしてキナ臭くなったもんだよ。ドーム崩れるわ魔女逃がすわ、なずちぃ瀕死だわ歌誉ちぃ魔族だわ。ただでさえがっ君のいない生徒会が欠員まで出しちゃって、捌けんのかよこの緊急事態」


衣緒は渇いた笑みを浮かべたまま、桐吾に問いを投げる。


「てかさ、君何でこんなとこにいんの?」

「な、何でって……?」


変わらず笑みを浮かべたままだというのに、彼女の視線は心臓を射抜くように鋭かった。

空気がぴんと張りつめたのを感じ取って、桐吾の身体に緊張が走る。


「何で歌誉ちぃのそばにいてやんねーのって、そう訊いてんだよ」

「それは、その……」


追求から逃げるように、桐吾は視線を逸らす。


「止められたんです、先生から……。歌誉、ずっと僕を呼んでるらしくて、却っていま会わせるわけにはいかないって……」

「んでノコノコ引き下がったんだ? うはーサイテーだねー」


衣緒の嘲笑に、桐吾は歯噛みする。


「僕だって、会いたいんです。でも……」


桐吾自身、思考の整理がついていない。

歌誉は大切な存在だ。共に死線を潜り抜けてアシハラへ移住してきた彼女は、言ってみればアシハラ内で一番古い友人だ。


だが、彼女は魔女だった。憎むべき仇敵の一人だった。


歌誉への友愛の心だって、あるいは魔眼によって操作された感情かもしれない。

彼女を信じたいという想念と疑念とが対立して、決着がつかない。


会えたとして――


「何話していいかわからないのかにゃー?」

「はい……」

「にゃははははは――あのさ」


唐突に、ネクタイが力任せに引っ張られた。

驚いた桐吾の視界いっぱいに、衣緒の蔑みの表情が映り込む。


「はいじゃねーだろ桐吾きゅーん? 好いてくれてる女が助け求めてんのにシカトしてその責任を指示だからって周りに押し付けて、何? 桐吾君頭いいって聞いてたけど、ホントに考える頭持ってんの?」

「……ッ!」

「何泣きそうな顔してんの? だっせえ。何もしてない君に泣く資格ねーっつの」

「じゃあ……じゃあどうすればいいんですかッ!」


混乱するままに絶叫し、ネクタイを握る手を振り解く。

たたらを踏んで数歩を後退した桐吾は、顔をくしゃくしゃにして、息を切らしていた。

衣緒は呆れるように目を伏せた。


「てんで駄目だね。圧倒的に覚悟が足りなすぎだよ君。あの娘がキレるわけだわ」


そう言って彼女は煙草を放ると、リノリウムの床で燻るそれを踵で踏み抜いた。

火は完全に消沈し、再び灯る事はない。

それはただの紙くずに成り果て、桐吾はただ黙してそれを見下ろしていた。


しばし衣緒は逡巡するように頭を掻いていたが、やがて何かを決意したかのような真剣な面差しで、桐吾に向き直った。暗がりの中で尚閃く、猛禽類を想起させる眼光で。


「前に近道するとロクな事ないっつったけどさ、そうも言ってらんなくなってきちったね。だからさ少年、ちょいと青春ショートカットしてこいよ」

「……どういう、事ですか」

「なずちぃの部屋行ってきな。近道になってっからさ。タロ君のとこより歌誉ちぃのとこより、君は何よりまずそこへ行くべきだよ」


指示の意図を測りかねて、桐吾は顔をしかめた。


「どうしてそんな所に……それに、女子寮は男子禁制じゃないですか」

「桐吾きゅーん、君高校生男子でしょー? この期に及んでそんな糞みてえなルール大事に掲げてんなよ。言っとくけどそれ越えた奴から童貞捨ててくんだかんね?」

「……あの、僕本当に何しに行くんですか?」

「行きゃ分かるから行ってきなって」


ひらひらと手を振る衣緒は、薄く空疎な笑みを浮かべていた。


「見てきなよ。何もかも背負い続けて決断してきた人間ってやつを。引くぜ、マジで。一回ドン引きしてこいよ童貞少年」

「……わかり、ました」


圧力さえ感じさせる視線に押されるようにして、桐吾は病棟を後にした。


圧倒的に覚悟が足りない――衣緒の言葉が心中を鈍く抉る。その痛みが増す程に、網代なずなという少女の強さが際立っていく。


龍族から逃走する桐吾と歌誉を、初めて実戦投入されたアビス・タンクで果敢に立ち回り救ってみせた。特に剣戟に優れ、特殊戦闘訓練では常にトップに君臨した。


覇権奪還構想に強く賛同し、異種への敵愾心が強い。絶望的に他種に劣りながらも、その意志は折れる事無く、他を圧倒し、また先導する。


また、生徒会役員として会計を務める。周防破鐘の不在によって膨張した仕事を、泣言も言わずにこなすだけの胆力を持つ。


面倒見が良く、粘り強い。息抜きに旧世資料館へ案内し、歌誉に歌という趣味を見つけるきっかけを作った。戦闘を嫌う歌誉の訓練に、辛抱強く付き合った。


但し多少強引な側面も否めない。衝突も少なくなかった。だがそれは、それだけ彼女が実直である事の証左に他ならない。後には謝罪を申し入れる、そんな優しさも持ち合わせている。


網代なずなという少女は、強い。


名うての刀鍛冶によって鍛え上げられた刀のように、しなやかにして、堅固にして鋭利。細微な傷一つなく、白眉であり、斬撃は躊躇なく強靭にして鮮烈。

それが、網代なずなに対するイメージだった。


そしてそれは彼女の部屋に入った途端、


「何だ、これ……」



音を立てて、瓦解した。



そこに展開する惨憺たる光景に、桐吾は絶句する。


ピンクを基調とした部屋は年相応の少女らしさを感じさせる一方で、調度類は飾り気のないシンプルなものが多かった。ラップトップの載った文机に、まだ空きのある書棚。級友との写真が留められたコルクボード。カバーの敷かれたベッドの上には、キャラクターを模したクッションが一つ、主人の帰宅を待つように座している。

だがそんな些事よりも、桐吾の目は壁に釘付けになっていた。


それは、傷だった。


壁紙が原型を失くすまで刃物で切り刻まれた、傷、傷、傷。


壁一面を埋め尽くすように、びっしりと無数の傷が刻まれていた。

数えるのも億劫になる程に繰り返されてきた、痛ましき記録の残影。

そう、記録だ。


「まさか、これ……」


浅く刻まれた傷には埃がたまり、深く刻まれたそれはまだ新しい。

幼い頃から、それは刻まれてきたのだ。それは回数を表している。訓練で敵を倒した回数か、あるいは他種への無力を感じた回数なのだろう。


呪詛のように、祈願のように、咆哮のように、あるいは芸術のように、胸中に溜め込んだ一切の感情が、そこに荒々しく放出されていた。


「はは、何だよこれ……」


乾いた笑いが漏れ、誰の耳にも触れる頃なく霧散する。

瞠目したまま、そっと傷に触れる。

消しゴムで消えるような生易しい記録ではない。

決して消える事のない、自傷の刻印。


網代なずなが、強い?


誰だ。そんな馬鹿げた事を自信たっぷりに他人事のように称えていた大馬鹿者は。


強くなんかない。

強く在ろうとしただけだ。

弱さを隠すのが上手かっただけだ。


いや、違う。

それも違う。


ただ――


「僕が気づこうともしなかった……それだけじゃないか……ッ!」


本当は、誰よりも辛かった。

弱音を吐く事もせず、泣言も言わず、諦めずに信念を貫く――それがどれだけ難しいか。


だが誰よりも強く在るためには、歯を食いしばってでも実践し続ける他なかったのだ。

こんな歪んだ方法を選択してでも、幼い少女は貪欲に強さを求め続けたのだ。

何年も、何年も。


覇権奪還を夢見て、耐えて、耐え続けて、摩耗する心をそれでも奮い立たせて、壊れそうになる自我を抑えつけて、克己し続けて、それでも彼女は皆に微笑んできた。


醜悪にして清廉なる刻印の数々が、網代なずなの笑みと重なる。


桐吾は、声にならない叫びを上げた。



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