第四章 魔女裁判
第22話 私にゃそれさえ、随分希望に溢れた言い方に聞こえるよ
居住区画の端に、その医療棟はあった。
底面積八千平方メートル、四階層からなるその病院は正確な正方形を描き、東西南北に十字型の廊下が伸びている。
その廊下を、桐吾は焦燥に突き動かされるように走っていた。
静止する受付の声を無視する。すれ違う人々の驚く顔を振り切る。たまにぶつかりそうになるのを紙一重で避けて、緑色の廊下を疾駆する。
夜明けから間もない廊下は、まだ半数の蛍光灯が消灯されたままで、薄暗い。
にもかかわらず、病院は騒ぎになっていた。
魔女の襲撃から一夜明け、入院患者や病院スタッフにも経緯が伝えられ、動揺が広がっているのだ。
もちろん、桐吾も魔女の襲撃を見ていた。
見ている事しか、出来なかった。
息を荒げて向かった先は、廊下の突き当たりだった。
奥にそびえる扉は緊張したように固く閉ざされ、その上に「手術中」と書かれたランプが赤く灯っている。その向こうで、なずなが生死の境を彷徨っている。
廊下はまだ冷えていて、火照った体を覚ましていく。しかし熱を帯びた思考は少しも冷却される事なく、まともな考えが浮かんでこない。
だから廊下の長椅子に腰かけていた田路彦の胸倉を掴んだのは、ほとんど無意識だった。
首を締め上げられた田路彦は僅かに呻く。
「……ッ。……書記殿か」
「なずなは……ッ」
「もう三時間が経過しているが、出てくる気配がないのだ」
悲痛な視線を手術室に向けたが、桐吾はすぐに田路彦を睨みつけた。
「……何であんな指示を出した」
湧き上がる怒りで、声は震えていた。
「何の事なのだ?」
「誤魔化すなよ……ッ。ドームの破損状況を調べに行けって言ったのは、僕が反対するのを見越した厄介払いだったんだろ……ッ!」
昨夜の襲撃があった際、桐吾は例によってCラボで研究開発を続けていた。夜更けにもかかわらず、桐吾も田路彦も眠る気配もなく没頭していた。
襲撃の報が入ったのは、天蓋の破壊音とほぼ同時だった。なずなからの通信に応答したのは田路彦だった。生徒会役員の集合を要請していたが、しかし桐吾に与えられた役割は、「崩落したドームの破損状況の調査」だった。
防衛と安全の要だったドームを調べるのは確かに急務に違いなかった。
だが、その真の目的が人払いであった事は今や明白だった。
男族と女族に別れたという虹子の宣言を、桐吾は奈落に堕ちるような気分で聞いていた。それは同時に、戦いが始まる事を意味していたのだから。
そして悟ったのだ。生徒会の面々は円滑な決断を果たすために、桐吾と歌誉の意見を予め封殺したのだと。
激昂する桐吾を前に、田路彦は弁解するでもなく首肯した。
「緊急事態だったのだ。議論を交わしている時間はなかった」
「そっちが招請したくせに、不都合な場合は除け者かよ……ッ!」
「会議に参加したところで、書記殿は反対していただろう?」
「当たり前だ! 本当に戦う事になるんだぞ、龍魔と!」
「だから十五年前からその覚悟だと、我々は散々言ってきたぞ」
「それは……」
平板な口調は、その覚悟が心根にすっかり浸透している事を感じさせた。
怯んだ桐吾を畳み掛けるように、田路彦は続ける。
「確かに男女族に別れたのは計画よりも早かったのだ。装備も戦略も不十分だと認めざるを得ない。だとして、他に道はあったか? ドームが破損した時点で龍魔の侵攻を止める手立ては失われたのだ。あの時点で既に我々の選択肢は二つしかなかった。すなわち恭順か抵抗か。ただそれだけだったのだ」
「だったとしても!」
彼の言葉が正論である事を胸中のど真ん中で理解しつつも、桐吾は叫ばずにはいられない。
「仲間だって、そう思ってたんだ!」
「……っ!」
今度は田路彦が言葉を失う。
目を丸くする田路彦の視界で、桐吾は顔を歪めて、いまにも泣きそうだった。
胸倉を掴む手が、いつの間にか縋るようなそれに変わっていた。
「信頼できる、相談し合える仲間だって、そう思えるようになってたのに……ッ! 肝心な時には邪魔者扱いなのかよッ!」
田路彦もなずなも、虹子も巳継もそうだ。初めこそ戸惑いもした。衝突もあった。だがともに過ごすうちに、大切な仲間だと思えるまでになった。
そう思った矢先に――
「どうしてだよ、田路彦……」
心情を吐露して力を失ったように、桐吾は膝をついた。
掴んでいた手も離れ、田路彦は自由になる。乱れた襟を正しながら、しかし項垂れる桐吾にかける言葉は見つけられないでいた。
「僕がいたって、何も変えられなかったかもしれない……。でも、爪弾きにされて、なずなも歌誉も救えずにただ見てる事しか出来なかったんだ……。そんな状況に追いやったお前らより何より、何も出来ずに呆けてた自分が、何より許せないんだよ……」
「それは……我々も同じなのだ」
田路彦は、やっとそれだけを言葉にする。
すれ違ってしまった想いのうちで互いに共有出来るのは、己の無力さだけだ。
と、暗い廊下に沈む影を割るように、突き当たりの扉が開いた。
「何騒いでんのさ、ここ病院だぞー静かにしとけー?」
奥の部屋から差す光を背負って現れたのは、保健医の衣緒だった。だが、手術中を示すランプは未だ灯ったままだ。
口調こそいつもの能天気な衣緒だったが、その声音は疲労を感じさせた。常に元気を振り撒いているだけに、目の隈や青白い顔が余計に目立つ。
桐吾は立ち上がって、衣緒に向き直った。
「姫先生、なずなは……ッ!」
「叫ぶなよ疲れに響くから。ちぃーっと座らせてねん。よっこいせっと」
皺だらけの白衣を無造作に翻して、衣緒はどっかと長椅子に腰を下ろす。壁に背を預けて天井を仰ぐ彼女の目は、どこか虚ろだった。
おもむろに、衣緒は胸ポケットから煙草を取り出す。
「豆戸女史、禁煙なのだ」
「いいじゃんかよー。まあ、見逃してよ」
何かを諦めたような軽口を返して、彼女はマッチを擦って火をつける。橙色の火が明滅し、小さな口から煙が吐き出される。
煙はまるで疲労を可視化したようで、不思議と大気に混ざらず、しばらく漂っていた。
「そもそもどこで入手したのだ。栽培されていないだろう」
「自虐戦争前から持ってんのよ。父親の形見。ヤな事あってどーしようもない時にだけね」
「消費期限などお構いなしか」
「だからひでー味だよ。っつっても、二十歳まで吸わずに取っといた私にしてみりゃあ、この臭みと苦みがスタンダードだけどね」
二回、三回と煙を吐いてから、辛抱強く待つ二人の生徒に、衣緒はぽつりと呟いた。
「生きてんよ」
その一言で、桐吾と田路彦の顔に安堵が浮かび、緊張が和らいだ。
だがそれも一瞬の事で、続く言葉に即座に打ち消された。
「何で生きてんのか不思議な状態だけどね」
「……それは、予断を許さないという事ですか?」
「私にゃそれさえ、随分希望に溢れた言い方に聞こえるよ」
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