第16話 何よコンマ二秒って?

やっとの思いで生徒会室につくと、扉を開けた途端、食欲をそそる匂いが鼻腔をついた。


テーブルには圧巻と言っても過言でない種類の料理が並んでいた。


さやえんどうと鶏肉のクリーム煮、さやえんどうとキャベツのチャンプル、さやえんどうと茸の澄し汁、さやえんどうの納豆和え、きんぴらに胡麻和えに筑前煮。

どれもさやえんどうが使用されている。主役になる事の少ない食材から、これだけのレパートリーを展開した腕前には思わず舌を巻く。


と、その敏腕の持ち主が給湯室から顔を出した。


「あ、田路彦さんに桐吾さん。随分遅かったですね?」


花柄のエプロンに身を包んだ虹子が、お玉を片手に不思議そうな顔をしていた。


「ああ、まあ、不慮の事故に遭ってね」

「事故?」

「それが――」

「げふんげふんっ」

「――何でもないんだ、うん」


ちらりと視線を投げた先には、犯人がそっぽを向いて座していた。素知らぬふりを装ってはいるものの、頬を伝う汗は隠せていなかった。

六人掛けのテーブルには犯人――もといなずなの他に、副会長の巳継と、監査の任を負った歌誉がついていた。


「桐吾」


見事な料理の前に垂涎していた歌誉が桐吾に気づくと、さっと腰を上げた。

桐吾の横に並んで、慣れた動作で腕に抱きつく。

無表情のまま平然と行うものだから、まだ桐吾も平静を保てていた。


これが例えば上気して赤らんだ、切なそうな表情で見上げられていたら、間もなく籠絡していただろう。まあ歌誉をしてそれは杞憂だろうが。


「桐吾、早く。美味しそう。いっそ美味しい」

「まだ食べてないだろ」


苦笑して答えながら、桐吾は歌誉の声に違和感を覚えた。


「歌誉、少し声おかしくない?」

「歌った。たくさん」

「声が枯れるくらい練習したのか? ほどほどにしとかないと」

「大丈夫」

「でも……」

「大丈夫。上手になりたい、早く」


桐吾の言葉にも、彼女は頑なだった。心配ではあったが、僅かに声が枯れている程度に過ぎないから、加減は弁えているのかもしれない。


「分かったよ。けど無茶はしないようにね」

「うん」


歌誉の先導で、虹子や田路彦と共にテーブルへ向かう。

虹子は更に料理を増やすようで、ミトンをはめた手には鍋が握られていた。


「これ全部、虹子が?」

「ですよー」

「初めて会った時のお昼もだったけど、本当に料理上手いんだね」

「いやいやー、ただ必要に迫られて作るようになっただけなんですよ」

「必要に?」

「破鐘君が研究や勉強に夢中になると、食事とか一切取らなくなっちゃうんです。そうなると全然相手もしてくれなくて。だから美味しいもので釣ろうと躍起になってた時期があったんですよ」

「成程ね。確かにラボに籠もりきりだと、食べるの忘れる事あるよ」

「あ、ダメですよ桐吾さん、ちゃんと食べないと」

口を尖らせる虹子は、ふと思いついたように顔を綻ばせた。

「なら私が作りましょうか、桐吾さんのご飯?」

「いや、それは悪いって」

「大丈夫です。一人分も二人分も変わりませんし」

「うーん……」

「ちょっと! 会長の仕事増やすんじゃないわよ?」


迷いを斬り伏せるように、テーブルの方からなずなの諌める声が上がった。

桐吾もこれには同意だった。いくら作る手間が変わらないとはいえ、生徒会長として激務をこなす虹子の負担は増やしたくなかった。


「あ、うん。やっぱり悪いから遠慮しておくよ」

「えー。そうですか……」


心から残念そうに言う虹子は、本当に気遣いの出来る気立てのいい娘なのだろう。

と、意外なところから名乗りが上がった。


「じゃあ作る。私が」


フラットな口調でそう言う歌誉が、ぴんと手を挙げていた。

無表情な中に、根拠薄弱な自信が見え隠れしている。しかも涎を拭きもしないだらしない口元は、説得力皆無だ。


「ちなみに歌誉、調理の経験は?」

「食べた事なら」

「却下だ」

「どうして」

「僕が用意してちゃんと食べるようにする。だからそういうのいいから」

「……分かった」


歌誉が引き下がったところで、テーブルに鍋が置かれ、皆が椅子に腰を下ろした。巳継、歌誉、桐吾が横並びになり、対面になずなと田路彦が並ぶ。


虹子だけはまだ準備するものがあるようで、足早に給湯室へと戻っていった。


席について早速、巳継が肘を立てたまま半眼で、不敵な笑みを向けてきた。


「おい桐吾、テメエ新入りのくせにスケ侍らせるたぁ良い根性してんな」

「い、いやそんなつもりは……歌誉、誤解を招くから離れよう」

「嫌」


と峻拒する歌誉は、離れるどころかますます腕の力を強くしてきた。それも、仲を裂こうとする巳継に対して挑発的に舌を出すというオプション付きで。

全くの逆効果に、巳継のこめかみがぴくりと震えた。


「ほっほーう。テメエ桐吾、いい度胸じゃねえか」

「絶対僕じゃないですよね!?」

「細けえ事ぁいいんだよ表出ろコノヤロウ」

「最も細かい事に拘泥しているのは副会長殿だと思うがな」

「何だとタロイモ!?」


対面からの冷静な指摘に、巳継が身を乗り出す。睨まれている当の田路彦はつまらなそうに腕組みして、静かに目を閉じていた。


「ちょっとこっち向いて叫ばないでくださいよ唾飛ぶから」

「なずなまで何だ全員敵かよ!」


なずなは持てるだけの皿を持って、口角泡を飛ばす巳継から避難させていた。


「だから叫ばないで――だいたい、巳継先輩でも桐吾君には敵わないと思いますけど」

「……お前、随分桐吾の事持ち上げるじゃねえか」


巳継は顎を突き出して、不審そうな目をなずなへ向ける。


「べ、別にそういうつもりはありませんけど! ただ龍と戦った時の桐吾君の常人離れした動きが凄かったのは確かです!」

「――テメエ、そんなにやるのか」


湧いた興味で落ち着いた巳継が、腰を据え直して桐吾へと向き直った。


「さ、さあ……? あの時は必死でしたし」

「桐吾、強い。頼りになる」

「お前はいつもこいつの肩持ってるだろが」


歌誉の偏った意見を補うように、なずなが悪戯っぽい笑みで同調した。


「正直強いと思いますよ、巳継先輩よりはね?」

「ほほう……。では、かつて極彩色の海に沈められたあの秘宝を、既に再び我が手中に収めていたとしたら――どうだ?」

「虹子ー手伝うわよー」

「あ、じゃあお茶お願いしますー」

「あ、凄いお茶まで豆なの?」

「合わせてみましたー。流石にさやえんどうじゃないですけどね」

「おいコラなずな! なずなさーん!? 会話の流れ意識しよう!? キャッチボール! ヘイ、キャッチボール!?」

「副会長殿の暴投を受けられるのは、豆戸女史くらいなのだ」

「ヤだよ、あいつのボールどこ行くか分かんねえし」

「副会長殿でさえ辟易するのか……」


田路彦が呆れた声を上げたところで、虹子となずなが戻ってきた。これが最後の品のようで、虹子はエプロンを外していた。

それぞれに豆の炊き込みご飯と茶が配膳され、全員が席につく。


「それでは皆さん、本日はお集まりいただきましてありがとうございます。召し上がっていただく前に、ここでお豆を育ててくれた自走式プラントさんに登場していただきましょう、どうぞーっ」


招請に応じて、給湯室の影から自走式プラントが走ってきた。静かな駆動音を響かせて、虹子の隣で停止する。外見は技術提供会で見た『トメ伊藤』に酷似しているが、主にデザインが洗練されていた。全体的に丸みを帯びて、小型化している。

最大の相違点と言えば、栽培されているのがトマトではなく、さやえんどうである点だ。


「自走式プラント試作弐号機『サヤ遠藤』さんです!」


そのネーミングは誰が行っているのだろうか、などと考えたのは桐吾だけではなかったようで、一瞬、その場を沈黙が支配した。


「……女性なんだ」

「やらしー」

「何で!?」


とりあえずの桐吾の感想に、なずなが白い目を向けた。


「がはは! 女の豆を――ぐぼあああッ!」


巳継が叫声をあげて椅子ごと倒れ込んだ。無言で立ち上がったなずなが腰に据えた警棒を展開させ、やはり無言で巳継の禿頭を打ち払っていた。


刹那の攻撃を放った後、なずなは何事もなかったかのように警棒を収納し、席についている。割とよくある光景のため、皆も特に触れなかった。


「それでは皆さん、サヤさんの恵みに感謝しながら、いただきましょー」


席に着いた虹子に合わせて、皆が手を合わせる。食事会が始まった。


料理はどれも絶品だった。口に運ぶ度に思わず美味いと唸るほどの仕上がりだ。歌誉などは、一心不乱に次々と箸を伸ばして休む様子がない。


料理の腕を誉めると、虹子は照れ笑いを浮かべていた。サヤ遠藤も『てれる』『うれしい』『ありがとう』と、和やかなメッセージを表示していた。


主に虹子が話題を出し、なずなが笑顔で応じる。

田路彦と歌誉はたまに応答を返す程度で、食事を優先させる。昏倒していた巳継が目を覚ますと、歌誉と競うように荒々しく箸を繰り出し始めた。


桐吾は話題に混じる事もあったが、積極的ではなかった。虹子と話すなずなが終始笑顔で、介入しづらかったのだ。


今日なずなが桐吾へ向けた表情は、怒ったり軽蔑したりと、どれも険しいものだった。話しかければせっかくの笑顔が消えてしまいそうな気がして、つい二の足を踏んでいた。せめて邪魔をしないようにと、桐吾は意識的に笑みを浮かべる事に徹した。


笑顔に包まれた、しかし水面下で気まずさを内包する食事会は、一時間程度で宴もたけなわとなった。


満腹で動けなくなった歌誉と巳継が、苦しそうに椅子に仰け反っている。それを尻目に、田路彦はさっさと生徒会室から退室していった。

片づけを始めようとする虹子を制して、桐吾はその役目を買って出た。


「僕がやるよ、虹子は座ってて」

「え、悪いですよぅ」

「全部用意してもらったんだから、これくらいはやらせてよ」


それでも虹子は働こうとしたが、有無を言わせず、桐吾は食器類を片付け始めた。

六人分ともなると、結構な量の洗い物になる。給湯室のシンクが狭いのもあって、かなり時間がかかりそうだった。

腕まくりして、スポンジに洗剤をつけて、一定量を磨いたところで水切り籠に入れる。


と、籠に入れた食器を取る手があった。


まるで予め決められていた事のように自然な動作で食器を拭き始めたのは、なずなだった。

隣に並んだ少女は、無言で食器の水気を拭き取っていく。拭き終わった食器は脇に置いて、また次の食器に手を伸ばす。


ちらりと横目で彼女を見やる。静かな表情だが、僅かに瞳が揺れていた。


声をかけたものかと逡巡していると、なずながそっと諭すように、


「ほら、手止まってる」

「あ、ああ……ごめん」


洗剤を洗い流して、水切り籠に食器を入れる。

なずなの細い指がそれを取り、しなやかな手つきで拭いていく。

以降、二人とも声を掛け合う事も、目を合わせる事もない。きゅきゅと皿を拭く軽快な音と、水の流れ落ちる音だけが、狭い給湯室に奏でられた。


なずなが口を開いたのは、もうあと一人分程度で食器洗いが終わるという頃だった。


「ごめん」

「……え?」


唐突な言葉に、桐吾は戸惑って問い返す。


「……昨日の事。言い過ぎたわ」


謝意の意味に気づいて、桐吾はがつんと頭を殴られたような衝撃を感じた。

自分が情けなく、恥ずかしい。気まずさに憂悶するばかりで言えないでいた一言を、彼女から紡いだのだから。


桐吾はどんな表情を浮かべていいものか分からない。


ただ、沈黙する事だけは許されないと思い、


「こっちこそ、ごめん」


と、同じく謝罪の言葉を紡いだ。


それからまた、二人とも言葉を探すように視線を落としたまま、口を閉ざした。ただ、先程まで感じていた居心地の悪さはない。穏やかで、こそばゆい。


『でも――あ』


と、口を開くタイミングと内容が重なってしまう。

反射的に互いに顔を向け、目が合う。曇りのない瞳に、桐吾自身の姿が映っている。こんなに近くにいたのだと、初めて桐吾は意識した。

驚いたように口を半開きにしたまま、なずなの顔が少しばかり朱を帯びていく。


「そっちが先に、言いなさいよ……」

「いや、なずなこそ……」


二人で見つめ合う。


魔眼に魅了されたように、目を逸らせない。


なずなの瞳が揺れ、映し出された自分の姿もまた揺れ動く。


「何で……私からなのよ」

「な、なずなの方が、コンマ二秒は早かった」


咄嗟の返答は、予想もしない指摘だったようだ。


「――………………はあ?」


緊張から解き放たれたなずなの顔色が一瞬でフラットに戻り、胡乱な眼差しになる。


「何よコンマ二秒って?」

「あ、やばいまた機嫌がっ。いや違うんだっ。昨日アビス・タンクの反応速度が遅いって言ってただろっ? だから今日何時間もアクチュエータの駆動音聴きながら速度試験しててっ、ついっていうか、コンマ何秒の差が耳で分かるようになってきちゃったというか、つまりだから――」

「――ぷっ」


必死に言い訳する桐吾の様子に耐えかねて、とうとうなずなは吹き出した。背中を丸めて口を押えるが、もう我慢の限界だった。


「あっははははは! ほんっとに研究馬鹿なんだから! コンマ二秒ってっ!」


なずなは腹を抱えて笑い始めた。

彼女が爆笑した理由が分からずに、桐吾は呆然とするしかなかった。


「えっと……えー、僕どうしたらいいのさ」

「ごめんごめん……っ。もう止めるから許し――やっぱまだ無理、あはははっ」


ひとしきり笑ってようやく落ち着いたなずなは、目に溜まった涙を拭った。苦しそうに丸めていた背を伸ばした彼女と、自然と目が合う。


「全く、アニメだったらそこは『じゃあ一緒に言おうか』って続けるところじゃないの」

「じゃないのって言われても、僕は――」

「はいはい、観た事ないもんねーこのギーク少年は」


言葉を遮られて桐吾は憮然とするが、なずなはお構いなしに続けた。


「だから今度一緒に観ましょうね。約束したもんね、プリメラ観るって」

「――っ」


屈託のない笑みに、桐吾は思わず言葉を詰まらせる。

その笑顔は卑怯だな、と桐吾は思う。胸中の抗弁もすっかり散逸してしまう。

苦笑しながら息をつき、桐吾は肩をすくめた。


「楽しみにしてるよ」

「ん」


と、浅く頷いたなずなは、切り上げるように布巾を水切り籠にかけた。


「もう少しだから、桐吾君、あとは一人でお願いね」

「え、ああ、大丈夫だけど」

「歌誉にも一言、謝ってくるわ」

「――うん。ありがとう」

「じゃね」


踵を返したなずなは、給湯室から出ていく。

そのまま遠ざかるかと思えたが、去り際に彼女は振り向いて、勝気に眉を吊り上げた。


「さっきの続き。コンマ二秒早かった私から言うけど――」


芯の強い彼女はそこで一息を入れて、真剣な面持ちを取り戻して続けた。


「間違ってたとは、いまでも思ってないから。言い過ぎたとは思ってるけど、でも正しいのは私だって、いまでも確信してる」


臆病な心を射抜くような視線に、しかし桐吾はたじろぐ事なく、不敵な笑みで返した。


「――僕もだよ」

「何、同じ事考えてたの? そんなのまるで――」


苦笑するなずなが、はっと気づいたように口ごもった。


「まるで?」

「何でもないわよっ。じゃね!」


促したが答えは得られず、去っていってしまった。

結局最後は怒ったような口ぶりだった。だが、それが彼女らしいとも思ってしまう。

何を形容しようとしたのかは判然としないが、今度彼女と例のアニメを見れば、正答が得られるのかもしれない。


桐吾は残りの洗い物に手を付けながら、食事会を振り返る。


夕方までのつっかえが嘘のように、心中はすっかり晴れやかだ。企画者の虹子には感謝しなくてはいけない。


悪くない一日だった――充足感に満たされて、桐吾は最後の皿を洗い終えた。


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