第三章 生徒会

第14話 鈍すぎますよ乙女の痛み……っ

技術提供会から一週間後、桐吾は田路彦に呼び出された。


昼前の時間帯、いまは特殊戦闘訓練の授業が行われていた。

桐吾は転校初日を思い出していた。その日も田路彦は、こうして二十五のモニターに注意深く視線を配りながら、ラップトップを操作していた。


モニターには、集まった生徒達が映し出されていた。生徒達は全員、身体の線がくっきりと浮かぶ、専用のボディスーツを着用していた。


床も壁も鉄製で、ところどころ錆が浮いている、武骨な灰色の空間だ。若い女性が話に花を咲かせるには、いかにも不釣り合いだった。


彼女らの脇にずらりと並ぶのは、待機中のアビス・タンク。そこはアビス・タンクの着脱場だった。時計を見て鑑みるに、訓練を終えた後なのだろう。


「どうした、田路彦?」

「ああ書記殿。すまないのだ、授業時間中に」


田路彦は振り返りもせずに言った。


「いいよ。どうせCラボにいたんだし」

「仮眠中だったか?」

「いや」


否定すると、田路彦は上体だけ反らして桐吾を振り返った。


「嘘を言うな。袖口に涎がついているのだ」

「げ、しまった」

「嘘なのだ」

「……」


慌てて袖口を確認する桐吾だったが、ぴたりと静止した。

憮然とした目で田路彦を見るが、そんなものどこ吹く風で、彼は平然と画面に向き直った。


桐吾は非難がましく目を細めたまま、パイプ椅子を引き寄せて田路彦の隣に座した。


「アビス・タンクの開発はどうなのだ?」


田路彦が問いを向ける。ここ一週間ほどは開発項目を分担し、アビス・タンクを桐吾が、その他の技術開発を田路彦がそれぞれ担当していた。


「行き詰ってるよ」


桐吾はくしゃりと髪を梳きながら、正直に答えた。


「外殻は出来てきたんだけど、中身がね」

「中身?」

「ほら、遠隔操作型にするからさ、本来人間が入る部分にAIを積むだろ? それとアビス・タンクの外装との接続が上手くいかないんだ。アビス・タンク自体がアブセント9でブラックボックス化してるから、そいつの解析が全然進まなくて……」


遠隔操作を実現するには、操縦者の命令とアビス・タンクとを繋ぐ、いわば中継役としてのAIが必須となる。

しかし、アビス・タンク自体の構造が不透明な以上、それを応用するのは難しい。


それがどうしても上手くいかず不貞寝していたのだが、田路彦はそれを聞いてきょとんとして問い返してきた。


「何故わざわざ外装接続などするのだ?」

「なぜって、接続しなきゃAIの命令が外装に返せないじゃないか」

「操縦者の動きをトレースする人型アンドロイドを作り、それにアビス・タンクを装着させれば良いではないか」

「……あ」


淀みのない即答に、開いた口が塞がらなくなる。

単純すぎて、却って思いつかなかった。


恥じるよりもただ呆気に取られてしまった桐吾に、田路彦は珍しくにやりと笑った。


「気にする事はない。思考の坩堝にはまるのは、技術者なら誰にでもある事なのだ」

「う、うわあ……」


技術の迷路から一気に引き上げられた格好である。

しかも、難しく考え過ぎていたがために、目の前の出口に気づかなかったというバツの悪さだ。

急に開けた視界に戸惑う桐吾は、もう何というか「うわあ」としか言えなかった。


「い、今すぐ開発に戻らないと」

「気持ちはわかるが書記殿を呼んだのはそんな用事ではないのだ」


にわかに腰を上げようとする桐吾の襟首を、田路彦が掴む。

後ろ髪を引かれる思いの桐吾だったが、確かにそうだと思い直し、腰を落ち着ける。


「そういえば……。それで、どうしたって?」

「最近、監査殿と会っているか?」

「歌誉に?」


監査殿、とは歌誉の事だ。彼女の動向を思い返そうとして、桐吾ははたと気づいた。


「いや、最近は歌の練習に夢中みたいで、あまりラボに来なくなったから……」


旧世資料館を訪れて以来、歌誉はほとんど桐吾のラボに顔を出していない。様子を見に来ることはあっても、三十分もしないうちに自室へと引き上げていった。


特に変わった様子は見受けられないと思ったが、そう思うのは接触する機会自体が減っていたからなのかもしれない。


「何かあったのか?」

「ふむ、あの通りなのだ」


田路彦が顎をしゃくってモニターを見るよう促す。桐吾が視線を向けた瞬間、荒々しい怒声が耳に飛び込んできた。


『いい加減にしなさいよッ!』



「いい加減にしなさいよッ!」


怒声を向けた先、歌誉は逃げるように身を竦ませた。


「アビス・タンクを着てる間、またずっとそうしてたわよね?」


剣呑な声に、しかし歌誉は答えない。ただ微動だにせず、怯えている。しっかりと歌誉を見据えるなずなに対して、歌誉は影に視線を落とすばかりだった。


何も変わらない。特殊戦闘訓練の度に繰り返されてきた光景だ。


なずなと歌誉のやり取りを、女生徒達が遠巻きに見ている。皆一様に動揺していて、その表情は固かった。


「顔を上げなさい」


その言葉に反して、歌誉は更に萎縮する。なずなの剣幕から顔を守るように腕を交差させ、その奥で耐え忍ぶように静かに唇を噛んでいる。


歌誉が特殊戦闘訓練に加わって三週間が経過する。しかし、彼女の成績は一向に伸びなかった。眼前の仮想敵にただ怯え、一撃を見舞われれば無様に転倒し、それきり身体を丸めて動かない。


ダメージ蓄積の警告音に耳を塞ぎながら、やがて授業が終わる――つまり仮想死を迎えるのを待つばかりだった。


そんな歌誉に対して行われたのは、なずなを中心とした、クラスメイト達による献身的な教育だった。


アビス・タンクの性能について、あるいは効果的な戦術について。


勝つための技術を教え込む事で身体的な強さを培い、勝つ事が出来るのだという意気を繰り返し伝える事で精神力を培おうとした。


出来ない事を笑顔で赦し、怖いという感情に寄り添い、次は出来ると激励してきた。


どれも無駄だった。


彼女の行動は変わらなかった。


龍魔に逃げ惑い、怯えるばかりだった。


決して勝たなかった。戦わなかった。挑まなかった。志さなかった。


そして今日。なずなと歌誉でチームを組んで出撃した、累計二十回目の仮想戦。戦場での変わらぬ歌誉の態度に、不満がとうとう噴出した。


「どうして戦わないの? そうやって小さくなってるだけじゃ死ぬだけなのよ!?」


怒髪天を衝くなずなに、しかし歌誉は答えない。


「私達、ずっと教えてきたわよね? 歌誉のためを思って無理のない訓練内容だって考えたし、サポートだって惜しまなかったわ。なのに、どうして何一つやってくれないの?」


歌誉は答えない。


「実際の戦場でもそうしてるわけ? 皆が命がけで戦ってる間も一人そうして怯え続けるわけ? あんたにも、戦う力があるのにッ!」


歌誉は答えない。


「龍魔の支配からの脱却! 覇権奪還構想! それが私達の夢であり悲願であり達成すべき任務よッ! 私はそのための努力を惜しまない! ずっと支配されてるなんてゴメンだから! あんたはそうじゃないの!?」


歌誉は答えない。


なずなの脳裏に、先日の特練で見た白昼夢が蘇る。龍族に虐げられ、下卑た嗤い声に包まれながら、それでも自分に価値を見出したくて、惨めに歌を振る舞った。

辛辣で遠慮容赦のない悪逆が怖気を誘う。悔しさに胸が締め付けられる。


「ずっと支配されて命令されて虐げられて……。そうやって小さくなって肩身狭くして震えて怖がって耐えて怯えて逃げ続けて、恐怖から目を背け続けるの……!?」


歌誉は答えない。


「顔を上げなさい! 背筋を伸ばして先を見なさい! 拳を固めなさい! 戦いなさい挑みなさい! かつて奪われた私達人族の未来のためにッ!」


なずなは正義を振りかざす。あまりにも正しくて、真っ直ぐで、理想的で――それだけに鋭く突き刺さる。傷つける事さえ、いとわずに。

とうとう歌誉は、泣きそうな顔で、小さく呟いた。


「……もう嫌」

「この……ッ」


否定の言葉になずなの頭は真っ白になり、思わず平手を振り上げる。

咄嗟にその手を掴む者がいた。睨みつけるように振り向けば、制止したのはクラスメイトの一人だった。


「――何よ」

「……いい加減にするのは、なずなの方だと思う」

「私、間違ってる?」


真っ直ぐに目を合わせて問うと、クラスメイトは力なく腕を放し、気まずそうに視線を逸らした。周囲を見れば、他の生徒達も皆、同じような表情を浮かべていた。


「間違ってはない、けど……」

「けど、何ッ!」


声を震わせるクラスメイトに、なずなは矢継ぎ早に言葉を放つ。


「これ以上歌誉を庇ったってどうなるのよ? 私達が教えた事をちゃんとやってくれてるならまだしも、この子は何一つ実践しやしない。それはアンタだって問題視してたじゃないの」

「それはそうだけど……」

「あんた達もあんた達よッ!」


とうとうなずなの怒りは、周囲の生徒たち全員に飛び火する。


「同じミス何回もして! 今日の訓練は一週間前と同じ内容なのよ? なのにどうして戦績がほとんど変わってないのよ。前回の反省点を踏まえてちゃんと訓練してればこんな事にはならないでしょうッ!」


なずなは全学生中でもトップの成績を常に維持している。それは弛まぬ鍛錬の成果だし、誰よりも努力しているとの自負もある。

例え訓練でも龍魔に敗北すれば涙し、歯噛みしながら猛省し、鍛錬に明け暮れ、二度目には必ず勝利を収めてきた。


だから叫ぶ。


胸の内に抱える不満を。


自分には、その資格がある。


「どうして出来ないの? 努力が足りないのよ、あんた達全員。ねえ本当に勝つ気あるの?本気でやってないんじゃないのッ!?」


周囲の皆の沈黙が、よりなずなの怒りを助長していた。

咎める視線で周囲を見渡しながら檄を飛ばす。


「必死になりなさい、覚悟を固めなさい、鍛錬に励みなさい、足掻きなさい――死に物狂いでッ!」


その凄まじいまでの様相に、クラスメイトの一人がぽつりと呟く。


「なずなちゃん、鬼みたい……」


なずなははそれこそ鬼のような形相で、その胸に宿す怨恨を吐き出すように叫ぶ。


「魔族の口を削ぎ龍の牙を砕けるのなら、鬼だろうがなってやるわよ……ッ!」

「もうそこまでだ」


突如闖入した声に、一同が静まり返る。

その声は低く、この場の誰の声でもない。男性のものだった。


なずなが声のした方向に視線を投げれば、扉に手をかけた桐吾の姿があった。大方、管制室でここの様子を見て飛び出してきたのだろう。


水を打ったような静寂が一瞬だけその場を満たしたが、なずなの怒りは収まっていない。


「何よ桐吾君。何か用?」

「田路彦に呼ばれて管制室にいたんだけど、とてもじゃないけど見てられなかったよ」


答えながら、緊張を帯びた表情で桐吾は部屋の中央へ歩いてくる。


「何よ、私間違ってる?」

「間違ってはいない」

「なら」

「でも」

「でも何!」

「でも、正し過ぎる」

「……っ」


予想もしない返答に、なずなは瞠目する。

正しく在る事を窘める言葉の意味が分からず、眉根を寄せた。


「……どういう意味よ」

「確かになずなの剣技はずば抜けてる。断トツの成績だ。それを努力で培ったなずなには、他の皆がサボってるように見えるのかもしれない」

「……」

「だけど、皆が皆、なずなのように上手くは出来ない。結果に落ち込む事もあるし、敵が怖くて逃げたいと思う事もある。自分が出来るから相手も同じ事が出来るはずだなんて、そんなわけがないんだ。……そんなの、なずなにだって分かってるだろ?」


しんと静まり返る中、桐吾の声だけがなずなの胸中を打ちにくる。

周囲を見渡せば、クラスメイトが二人を囲むように立っている。彼女らは様々な表情を浮かべている。困惑、緊張、批難、沈痛、辛苦。


それらの感情を一身に受けたなずなは、


「臆病者の言い訳ね」


皆が息を呑む中心で、それを一笑に付す。


「出来ない事が当たり前みたいに言って、そんなの、本当にただの言い訳でしかない」

「僕は、そんなつもりじゃ――」

「あんたこそ臆病者の代表じゃないッ!」


口を挟もうとする桐吾を、なずなは言下に否定する。

床を蹴るように桐吾の眼前まで近づく。今度は桐吾の方が動揺に顔を歪めている。なずなは桐吾の額に指を突き付け、笑みさえ浮かべて見せた。


「戦場に立つ勇気もないくせに、偉そうに何言ったって届きやしないわよ?」

「そんな、つもりじゃ……」


爛々と輝く瞳と正対する桐吾が、気まずそうに目を逸らす。

それを勝利と解釈し、なずなは転身する。

重い空気を割るように、なずなは声を張った。


「田路彦! どうせ見てるんでしょ! アビス・タンクの右腕、アクチュエータの反応速度がまだ遅いわ! 次までに調整を――」


指示を終える前に、何かが倒れる音がした。


突然視界が真っ白になったかと思うと、次の瞬間には暗闇に包まれていた。疑問を挟む余地さえなかった。


急速に思考が霞む。安らかとは程遠い、テレビの電源を切った時のように唐突で無慈悲な暗転。


オンとオフ。


切り替えの隙間に介在するものはない。

尻切れになったまま、指示の言葉を継ぐことは出来なかった。


沈んでいく視界でなずなが最後に見たのは、悲壮な表情を驚愕に変える桐吾の顔だった。



「まあ過労によるストレスってのが健全な診断結果かにゃー」

「健全って、それ使い方あってます?」

「お、生意気な事言ってっとぉー、お姉さんが不健全なことしちゃうぞーわきわき」

「遠慮しますっていうかその公共の電波に乗せられなそうな両手の動きは何ですか」

「おいおい少年傷つくなあ。これでも姫ちゃん四捨五入したら桐吾君と同い年なんだぜー?」

「いまお互いに十の位を四捨五入しました?」

「ブロークン・ハートっ!」

「ぐふっ。何だこの人傷心を必殺技みたく叫んでタックルかましてきた……ッ!」

「乙女の心の痛みを具現化した結果だよ?」

「鈍すぎますよ乙女の痛み……っ」


――何だこの会話。


白い天井をぼんやりと見ながら、意識を取り戻したなずなはそんな事を思う。

会話は聞き取れるが、まだ頭は茫洋として、うまく物事を考えられない。


身体を横たえたまま、なずなは全身に倦怠感を感じていた。自分の思っていた以上に、身体は疲労していたらしい。弛緩しきった身体が重力に引っ張られて、そのまま沈んで行ってしまいそうだ。


白いベッドに白い布団。額に感じる心地よい重みは、冷水で絞ったタオルだろう。声はカーテンの向こうから聞こえていた。その会話の応酬を聞き流しながら、そういえば保健室で寝るなんて初めてだな、となずなは思った。


「なずな、倒れるくらい大変だったんですね……」

「同じ生徒会にいたのに気付けなかった僕最低だ、って顔してんね?」

「それは、まあ」

「しゃーないっしょ。桐吾君の仕事は研究開発なんだしさ。ほとんどラボに寝泊まりしてんでしょ?」

「そうですけど……」

「こう言っちゃあ何だけど、君も随分青い顔してんよー? あんま寝てない顔。研究が上手くいってない顔。なずちぃと喧嘩して気まずげな顔。さて正解はどれでしょーか」

「えっと」

「はい時間切れーぶっぶー。答えは全部でしたー。残念だったねー正解者には生脱ぎ下着プレゼントだったのににゃー惜しいにゃー青い性欲の捌け口なくした気分はどう?」

「ええと、僕いまどっから突っ込むべきかを答える問題やってます?」

「そこは泣いて悔しがるとこだぞー?」

「姫先生っていつもこうなんですか?」

「だいたいね」

「即答ぉ……」

「まあ実際さ、生徒会の負担は増えてるよ」

「そうなんですか?」

「すげー勢いでね」

「それは、どうしてです?」

「がっ君がいなくなったからね」

「がっ君?」

「周防破鐘。アタシ、彼の事そう呼んでんだ」

「ああ、虹子のお兄さんで、前に生徒会長をやってたっていう……」

「そ。がっ君の不在はでかいよ」

「そんなに、ですか」

「君達二人じゃ埋められない程度にはね」

「……」

「そう睨むなよ、意外とプライド高いタイプ? ってまあ、技術者なんて皆そっか」

「周防破鐘さんって、そんなに凄い人だったんですか?」

「やめろよ」

「え?」

「『だった』って。過去形。死んでねーし」

「あ、すみません……」

「ん、凄いよ。マジで。嫉妬とか羨望とか、そんな目線じゃ見えないくらい遠い存在」

「よく、分かりません」

「そのうち会えると思うよ。んでまあ、会ったら分かるさ。天才と凡人じゃあそもそも測る定規そのものが違うんだって事がね。まあそうだなー、がっ君がいなくなってから、なずちぃの仕事は三倍増しだろうにゃー」

「そんなに凄いんですか……?」

「それはどっちが? がっ君の処理能力の凄さ? それともなずちぃの仕事量の凄さ?」

「どっちもですけど……特に、なずなの。努力家だって知ってたつもりでしたけど、そんなに抱え込んでたっていうのは」

「予想してなかった?」

「……正直」

「掘れば掘るほどケツの青いガキだねー。ブルーマンだね」

「発言ギリギリなのは置いといて、ほんと、僕は自分の事ばっかりで、見えてなくて」

「まあ見えねーだろうね。あの子、全部自分で抱え込んで、誰にも相談しないまんま血反吐吐きながら頑張って、最後には何とかしちゃう完璧超人だからさ」

「どうして、たった一人で頑張るんでしょうか?」

「教えてほしい?」

「……いえ。やめときます」

「ほーん。にゃんで? なずちぃ攻略に大きく近づくかもよん?」

「何か、ずるいじゃないですか。知らない間に土足で踏み込んでるみたいで。それに――」

「それに?」

「教えてやんねーよって顔してますし、姫先生」

「にゃふふ、バレてたか」

「今度、自分で訊いてみます」

「いいねー。青春に近道使うとろくな事ないし」

「年長者が言うと含蓄ありますね」

「ねえねえ桐吾君の命日が今日って知ってた? 知らなきゃ教えてあげるよっつーか刻み込むよその身体に?」

「失礼しましたーッ!」


慌ただしい駆け足が遠くへ離れていき、扉の開閉音が聞こえて、一瞬静かになる。と思うと、再び乱暴に扉の開けられる音がした。


「なずなの事、よろしくお願いします!」


それだけ言い残して、また扉の閉められる音。今度こそ、室内は静かになった。


会話を聞いているうちに、思考は明瞭になっていた。


桐吾には、随分と心配をかけてしまった。恐らく、田路彦や歌誉をはじめ、クラスメイトにも、同様に余計な心配をかけてしまっている。


特練での一幕を思い出すと、胸中にもやもやとした疼痛が生まれた。酷い事を言ってしまったという自責と恥と、正しさが受け入れられない事への怒りとやるせなさ。息苦しさに眉根を寄せる。布団の上から胸を押さえるが、痛みは緩和されなかった。


「起きてんでしょ?」


不意に、カーテンの向こうの衣緒から言葉を投げかけられた。

少しの間、返答しようか狸寝入りしようか逡巡したが、結局は素直に応じた。


「……気づいてたの?」

「保健室での事はなーんでも知ってんよ。保健医だもん」


茶化すような口調で、衣緒はけらけらと笑う。


「いい奴じゃん。青臭いけど」

「桐吾君?」

「そ」


口論を交わした直後なだけに、素直に肯定しづらい。

その事情を、衣緒は知っているのだろうか。先程の桐吾との会話から察するに、恐らく知っているのだろう。百も承知で尚、彼女は同意を求めているのだろう。


意地悪な人だと思う。が、なずなは少し顔を赤らめながら、結局は浅く頷いた。


「……まあね」

「にゃはは」

「何よ」

「揃いも揃って青臭いにゃーと思ってね。青春の香りがぷんぷんするよ」

「桐吾君?」

「揃いも揃ってって言ったろ? あんたもだよ」


その言葉になずなは反目しそうになったが、それこそ青臭さを肯定するようなものだと思い、留まっておいた。


「……そうかしら?」


と、布団を被ってむくれてみた。

頬を膨らませるなずなに、衣緒はあくまで軽口で頷く。


「そうよん。桐吾君に言われた事ちゃーんと受け止めて、よぉーく考えな」


そう言うと、衣緒の立ち上がる気配があった。


「出掛けるの?」

「ん。目ぇ覚めたんならもう心配ないし。これでも忙しいんだぞー尊敬しとけー?」

「……」

「何その疑いの目。感じ悪っ」

「よく分かったわね」

「保健医だかんね」


根拠のない自信を誇るように言って、衣緒の遠ざかる気配がする。


「もう少し寝ときなー。で、歩けるようになったら鍵かけないで出てっていいから」

「ねえ姫ちゃん」


部屋を出ようとする衣緒に、なずなはどうしても聞いておきたいことがあった。


「ん?」

「着替えさせてくれたのは感謝してるんだけど……何で下着まで脱がした?」


そうなのだ。なずなはいま、ゆったりとした病衣に着替えさせられていた。それ自体はいい。アビス・タンク用のスーツでは締め付けがきついし、制服は皺になる。

だがその配慮の結果、どうして下着まで――それも上下――脱がす必要があったのか。


なずなが目覚めても起きられなかったのは、そのためでもあったりする。


「ふむ。そうだにゃー、敢えて理由を挙げるとするなら――ロマン?」

「んな破廉恥な文化があるか!」

「ちなみにさっき桐吾君にあげようとした生脱ぎ下着ってなずちぃのだから」

「ちょっ」

「にゃははははー。嘘ぴょん。下着は制服と一緒に足元のラックに入ってるからねーそんじゃあロマンチスト・アタシ、退散ッ!」

「もう!」


扉の音と共に、室内から衣緒の気配が消える。今度こそ一人きりになって、静穏とした空気が保健室を優しく包み込んだ。


一息。


思わず浴びせた怒声と共に起こしていた身を、再び横たえる。

仰ぐ視界には天井しか映らず、いまが何時かも分からなかった。直観だが、特練から二、三時間程度が経過した頃だろうと見当をつける。


仕事は山積みだ。目を通すべき書類が五件。夜に会議が二件。うち一件は田路彦に委任してしまえば何とかなるが、もう一件は参加しておきたい。日課のランニングも欠かしたくはなかった。いますぐ起き上がればどれも間に合うだろう。


だが――なずなはそう出来なかった。


一人になった事で緊張が泡のように消えていき、代わりに、堰を切ったように、先程の口論が脳裏にありありと蘇ってきた。


特に桐吾の言葉が、何度も何度も反芻される。


「皆が皆、なずなのように上手くは出来ない。結果に落ち込む事もあるし、敵が怖くて逃げたいと思う事もある。自分が出来るから相手も同じ事が出来るはずだなんて、そんなわけがないんだ」


そんな事、改めて言われるまでもない。


「そんなの、なずなにだって分かってるだろ?」


当たり前だ。


分かり切っている。


本当は彼の言わんとする言葉など、十全に理解しているのだ。


誤解なく曲解なく、真実そのままに、彼の意図そのままに、理解しているのだ。


「そんなの、なずなにだって分かってるだろ?」


だというのに、なぜ、そんな簡単な言葉がこんなにも思考を埋め尽くし、かき乱すのか。


頭の中から振り払うように、なずなは強く目をつむった。


「分かってる……分かってる……分かってる……ッ!」


駄々をこねるように、懊悩するままに言葉を呟く。

シーツを握る手に力がこもる。

胎児のように膝を折って背中を丸めて、頭まで布団を被る。

真っ暗闇になる。

何も見えない。

それでも言葉はあらゆる方向から響いてくる。


「そんなの、なずなにだって分かってるだろ?」

「分かってる……分かってる……分か……ッ」


噎せて詰まり、言葉を濁しながら、なずなは、


「分かんないよぉ……」


誰にも見えない場所で、誰にも聞こえない場所で、静かに弱音を吐いた。


小さく嗚咽を噛み締めながら。強く閉じたその瞳から、一筋の涙を零して。


誰かの前では決して見せない顔で、彼女はしばらくの間、ひっそりと泣いた。



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