第一章 第五防衛都市アシハラ
第5話 多分で済むかあああああっ!
「ああああああッ!」
叫び声に驚き、桐吾は跳ねるように身を起こした。布団がめくれあがり、寒気を覚える。目頭から頭にかけては熱を持っているのに、身体はやけに冷たかった。服は汗でじっとりと湿って、肌に張り付いていた。
前後の記憶がはっきりしない。眠っていたようだ。それも、冷や汗と落ち着かない動悸を鑑みるに、悪夢を見ていたらしい。
荒い呼吸を整えながら、桐吾は周囲の様子を窺った。
清潔だが、シンプルで狭い部屋だ。ベッドがやっと一つ置けるだけのスペースで、申し訳程度に小さな文机と丸椅子が備えられている。柄のない白のカーテンが引かれており、それがこの空間をより小さくしている。そして鼻腔をよぎる、消毒薬の匂い。
とても静かな場所だった。少なくとも、誰かが叫びを上げるような状況ではなかった。
「そうか、僕か……」
文字通り夢中の叫びが、盛大な寝言になったらしい。思い至ると同時に頬が赤くなってくるが、周囲には幸い誰もいなかった。――誰もいない?
不意に怖くなる。頭痛が襲い、記憶がじわりと蘇る。
街の崩壊、龍からの逃走、唐突に現れた鋼鉄機械。
戦闘と、交わされた会話。
そして、もう一体の行方。
「あ……ッ!」
焦る視線の先、窓外からの明かりは眩しい。つまり、あれから随分時間が経っている。
「あれから、何が――」
「良かった、起きてたわね」
シャッと小気味いい音と共に、その少女は唐突に現れた。腰に手を当て柔らかな笑みを向ける彼女に、桐吾は見覚えがあった。
腰まで伸びる朱の混じった長髪、真面目さを感じさせる切れ長な双眸。
「君は――」
「はいじゃあこれに着替えて。うちの制服だから。細身だしきっと似合うんじゃないかしら。ああ、あんまり時間ないから早くね? 終わったら呼んでちょうだい?」
シャッ。矢継ぎ早に指示を飛ばして、少女はカーテンを閉めてしまった。
「あ、あのっ」
「ん?」
僅かにカーテンが開かれ、少女が顔だけ覗きこませてきた。
無垢に首を傾げる姿さえ様になっている。やはり昨日遭遇した彼女に相違なかった。
「網城……さん?」
「あら、覚えててくれたのね」
「そりゃまあ、あんな事がありましたし……」
龍族からの追随を振り切れず、窮地に陥ったところを救ってくれたのが彼女――なずなだった。
感謝の念で見上げる先、しかし、彼女は顔を真っ赤にしていた。
「あ、あ、あんな事って、貴方ねえ……ッ」
怒りに肩を震わせるなずなが、握った拳を覗かせる。その拳で思い出した。全身を覆う外装から出現した、あられもない姿の、瑞々しい肌をさらけ出した、彼女の肢体を――
「あ、いやっ。僕が言ったのはそっちじゃなくてっ」
「そっち……ッ!?」
「あっちであってっ」
「あっち!?」
「あの、ええと、あの……っ!」
「忘れなさい!」
檄とともに勢いよくカーテンが閉められる。その力強さに呆気にとられていると、
「早く着替えなさい!」と向こうから怒声が飛んだ。
バツの悪さを感じながら、とりあえず服を広げる。青を基調とした真新しい制服だ。
「どうして網城さん――」
「え? な、何っ?」
「あ、いやその」
逡巡を察したかのような声が発され、桐吾は動揺する。思わず舌の回らない言葉を返してしまったが、どうやら様子がおかしい事に気付いた。
「ああそういうこと? でも駄目よ。大丈夫よすぐ出て来るって。だから少し待ちなさい」
耳を澄ますと、彼女は桐吾を置いて会話を続行している。カーテンの向こうにもう一人いるのか。だが声が小さ過ぎるのか、着替えを持ってきた少女の声しか聞き取れない。
「へ? まあ五分もかからないんじゃない? 男の子の着替えなんて」
外の声を聞きながら、桐吾はシャツを脱ぎ捨てる。
「だーかーらっ、おとなしく待ちなさい。って、まだ早いってばッ」
「まさか入ってきたり、しないよな……?」
「待って待って待って! 駄目だってば! そ、そんな無理矢理――ひゃぁあん!」
「――ッ!?」
息を呑む。反射的にカーテンを凝視する。一体向こうで何が展開しているというのか。
ズボンを脱ぐために前かがみになる。あくまでズボンを脱ぐために、だ。
「ち、ちょっとどこ触って……ッ! ひぁっ、それは反則――あ、こらッ!」
一際鋭い叫びの直後、乱暴にカーテンが開け放たれた。
それは同時に、桐吾がズボンを下げた瞬間でもある。
「……はい?」
開け放たれたカーテンの向こうに、少女の姿があった。当然、着替えを届けてきた彼女ではない。独特の雰囲気のある少女だ。息は荒いが無表情。じっと桐吾を見据えている。
「桐吾……!」
「
対応する間も余裕もなかった。抱きつかれる格好になり、そのまま押し倒される。
抱きつかれた瞬間に髪の匂いが鼻孔をくすぐり、いい匂いだ等と思っていたら後頭部を打った。
「あだっ! 痛ったぁー……」
「桐吾、桐吾、桐吾。生きてた。良かった」
表情の乏しい彼女だが、僅かに眉根が下がって口元が綻んでいる。
少女――歌誉は、無事を確かめる手段なのか――ぴたりと体を密着させて全身を摺り寄せまさぐってくる。安堵の息が桐吾の耳をくすぐり、ぞわりと全身が震えた。
「かかか、歌誉も無事だったんだね」
肩をくすぐる長さの頭髪は栗色で、側頭部あたりで三つ編みにしている。
顔立ちにはあどけなさが残るが、表情をあまり表に出さないためか、幼さは感じられなかった。頭髪と同じ栗色の瞳が、鏡のように無愛想に桐吾を映し出していた。
彼女こそ、死線を共に潜り抜けた少女である。
「うん。無事。桐吾も、無事……っ」
しばし互いの無事を喜ぶ。が、それも束の間だった。
「ち、ちょっと! 凄い音したけど大丈夫だっ………た…………?」
歌誉の白貌越しに、先程の少女が現われる。室内を見下ろす彼女の表情が、みるみるうちに変貌していった。焦慮から驚愕、狼狽、思考停止を経て怒りに顔を紅潮させる。
歌誉は桐吾を組み敷いている。桐吾はトランクス一枚である。
初めて気がついた事ではあるが、歌誉はスカートを着用している。
互いの腰は互いの下着越しに密着している。
成程、と桐吾は思う。
結論はスマートに導かれた。
「歌誉」
「ん?」
「多分まずい」
「多分で済むかああああッ!」
多分という単語で結論を避けたのだが、少しも誤魔化せていなかった。
「何してるのよ! ほらっ! いい加減離れなさい!」
少女は歌誉の脇に腕を通し、一気に立ち上がらせた。それほど筋力があるようには見えないが、恐らく身体の使い方が上手いのだろう。
「あんたは早く着替えるッ!」
「はい!」
「五秒!」
「はい!」
実際には三十秒以上かかった。
「着替え、終わりました……」
「遅い!」
「すみません……」
鋭い視線と共にぴしゃりと言い放つ彼女に気圧されながら、桐吾は腰を低く続ける。
「着ましたけど、どうして制服なんでしょうか?」
こんな上等な服装ではなく、清潔でありさえすれば薄手のシャツでも充分だった。
男女の差はあれど歌誉も共通の制服を着ているようだ。
「貴方と歌誉ちゃんには、学園に通ってもらう事になったのよ」
「学園……?」
「そ。第五防衛都市アシハラ学園。同い年みたいだから、同級生ね」
「そこで僕達は、勉強を?」
「それはまあ、当たり前でしょ? 勉強以外にも色々あるけど」
「凄いな……」
桐吾は思慮するように顎に手を当て、うめく。
「え?」
「人族の教育機関なんて……。そこまで自治権を獲得している都市があったのか……」
「何か貴方、田路彦みたいね」
「え?」
顔を上げると、どういうわけか半眼で睨まれていた。
渋面のなずなは髪をかきあげながら、そっぽを向いた。
「何でもないわ。友達に似てるってだけ」
「はあ‥…」
「クラスメイトになるから、気が合うんじゃないかしら?」
それを喜んでいるのか憂いているのか、微妙な表情だった。
「歌誉ちゃんはそうだったんだけど、貴方もアシハラについては何も知らないの?」
「……僕達は、ただここに逃げろって」
「……そう」
しばらくしてから、なずなは決断したように告げた。
「覇権奪還構想」
端然と放たれたその言葉に、馴染みはなかった。意味を伴わずに耳に届いたそれは、しかし何となく、不穏な響きを予感させた。桐吾は少し緊張したように疑問を返す。
「……何ですか、それ?」
「それがここ、第五防衛都市アシハラの悲願よ」
「まさか――」
桐吾の脳裏に、昨夜の戦闘が反芻する。眼前の彼女が見た事もない甲冑を駆って、上位種族である龍族を討ち取った、常識外れの光景。
「そう。龍魔による支配からの脱却。ここはそのための街なのよ」
悄然と言い放つ彼女の瞳は、少しも揶揄の気配を感じさせない。
だが桐吾の口は、自然と否定を呟いていた。
「出来るわけ、ないじゃないですか……」
自虐戦争後に支配体制が築かれて十五年。
龍魔の支配は厳しさを増すばかりで、緩和された記録はない。
人族は抵抗の意志を削がれ、恭順する事に慣れていった。
それだけ、異族の力は強大だ。それを覆そうなどと――
「まあ、そういう反応にもなるわよね」
と、なずなは短く頷くに留めた。
「正直そこのギャップは大きいだろうって見解は、私達の方でも予め一致してたの。だからこれから順を追って話してこうってわけ」
「順を……」
「そ。色々とね。何も一度に全部飲み込む必要はないわ。私達はこれから色んな事を話すし、訊いていく。だから貴方達も、分からない事は聞いてちょうだい。お互いに理解を深めていきましょ?」
「……分かりました」
桐吾の懐疑的な眼差しを振り払うように、なずなは身を翻した。
「さて、そろそろ行きましょうか」
「どこへ、ですか?」
「登校するのよ、アシハラ学園にね」
なずなは扉に向き直り、桐吾に背を向ける。その背は細く小さいが、不思議と頼もしさを感じさせた。彼女が肩越しに振り向くと、朱髪が揺れて差し込む陽光にきらめく。
「そこで質問の続きと――」
「あ、じゃあその前に早速」
「? 何よ?」
「あー……」
思わず呼びとめてしまった。なずなが怪訝な眼差しを向けてくる。
「ずっと気になってた事が……」
「だから、何?」
「網城さんも……その、生徒ですよね?」
「もちろん。貴方達のクラスメイトになるわ」
「でも、そしたらどうして――そんな格好、なんでしょうか?」
「……」
なずなの表情が凍りつく。実際、体温が下がったのかもしれない、顔が真っ青になっていた。ああこれ地雷踏んだなと桐吾が後悔する頃には、真っ赤になっていたが。
「――ひにゃああああああッ!」
叫びと共に放たれた右ストレートが桐吾の頬を深く抉った。
「ち、ちが、ちがっ、ちが!」
「血? 足りない?」
「吸わないわよ!」
見当はずれな歌誉に声を返しながら、なずなはその身を隠すように両手で抱く。
「違うの! 忘れてたけど、これには訳があるの!」
倒れて頬を押さえる桐吾に力説する。
彼女が着用しているのは、制服ではなかった。
随所にリボンやフリルのあしらわれた可愛らしい衣服で、総じて桃色である。かと言って、童話の姫君に焦がれる女児が羨望の眼差しを向けるかと言えば、そうでもない。
衣服と言うよりセパレートタイプの水着に近く、肩や胴周り、脚が露出している。それでいて胸元やスカートには装飾が多いのだから、およそ実用性の感じられない逸品だった。
「訳の一つもなければ殴られ損ですよ……」
「ご、ごめんなさい! いまのは私が悪い! 悪いんだけど――不可抗力なの!」
「いやまあ、それは構いませんけど」
桐吾は胡乱な視線をなずなに向けながら立ち上がる。
「それで、どうしてそんな格好を?」
「これには、その、深い訳があるんだけど……多分、話しても理解してもらえない」
「どういう――」
「もう! 後で説明するわよッ。あいつを直に見てもらえれば分かるわ!」
そう言い捨てて、なずなは桐吾と歌誉の手を引いた。目がらんらんと怪しく輝いている。
「行くわよ! 行かなきゃいけない理由が出来たッ!」
「その格好で!?」
「どうせ一日この格好じゃなきゃいけないのよ!」
「ここに来る間も着てた」
「あ、成程」
捨て鉢ななずなに引っ張られるようにして扉の向こうへ、部屋を出る。
「まずは職員室! 貴方達を先生に引き渡して教室!」
急き立てられながら進む。慌ただしい喧騒に彩られた朝に身を投じた。
その光景を一言で表すならば、先進的、という単語が適当だろうか。
碁盤の目状に区画整理された街並みは、艶やかに白いアスファルトで覆われ、陽光を柔らかく反射する。
桐吾のいた棟を始めとして、立ち並ぶ建造物はどれも十階層以上で、龍族の街では再現できない技術だった。棟の数は十を越え、その精緻なつくりから、どれも高度な技術の介在を窺わせる。かといって、人工物ばかりではない。要所には街路樹が植えられていて、無機質な印象はそれで薄れていた。
一際目を引くのは遥か天上――広がる青空に違和感を覚えた。
目を凝らすと、それが偽物の、映し出された空であると分かる。つまり、ドーム状の巨大なモニターに、すっぽりと覆われているのだ。
厳密に言えばここは外ではなく、巨大な半球状の施設という事だ。
「お、やーっと来たね。なーずちいー」
街の様相に心を奪われていた桐吾が、その言葉で我に返る。玄関先から続く下方階段の麓で、一人の女性がひらひらと手を振っていた。
「姫ちゃん!?」
「やはー」
「どうしたのよ、こんな所で?」
屈託なく笑顔を浮かべる彼女は恐らく二十代半ばだろうが、その陽気さからもっと幼い印象を受けた。
あまり飾り気はなく、ボーイッシュな短髪に差した髪留めが、唯一の装身具のようだ。サマーセーターにホットパンツという出で立ちに、真っ白な白衣を着用していた。
「水臭いにゃー。迎えに来たんじゃんよー」
「迎えって、これで?」
「そそ。かーっ飛ばすぜい?」
グッと親指を立てる少女が背もたれにしているのは、一台の四輪車だった。白地に大胆な炎の塗装が施されたそれは、控えめに見ても派手だった。
「これ、巳継先輩の? よく借りれたわねー」
「まあねー。駄目って言われてないから了承って事っしょ♪」
「つまり無許可なのね?」
「ふはは」
「姫ちゃん……」
頭を抱えるなずなの脇をすり抜け、女は桐吾と歌誉に興味を向けてきた。屈みながらの上目遣いは値踏みするようで、思わずたじろぐ。
「ふーん。君が桐吾君? で、こっちが歌誉ちゃんだ? もしかして逆?」
「……合ってます、けど。あの、僕達の事――」
「名前だけねー。ああそだ、君がラッキースケベって事も知ぃーってぇーるぞぉー?」
「ち、ちょっと姫ちゃん!」
「にょはははは。顔真っ赤じゃんカワイー」
「なってない!」
「ところでなずちぃ可愛い格好だね」
「それを言うなー!」
怒声を上げるなずなを軽くいなしながら、女はしなやかに姿勢を正す。敬礼のようにも見えたが、五指の間を広げたポーズは、もっと気楽さの感じられるものだった。
「あたし、アシハラ学園で保健医やってる
「は、はあ……」
女――衣緒の勢いについていけず、桐吾は生返事しか出来なかった。歌誉に至っては完全に無言である。衣緒は不満を隠そうともせず表情を曇らせた。
「なずちぃこいつらノリ悪い」
「姫ちゃんがハイテンションすぎるの……」
「まあいっか。そいじゃあ皆乗っちゃいな! 学園本棟まで送っちゃうぜい!」
四人が乗り込むと、衣緒は快哉を上げた。
「いざ鎌倉!」
「安全運転しなさいよ?」
「ほえ?」
なずなの忠告もどこ吹く風、衣緒はアクセルを踏み抜く。全体重をかけて。急激に力を得た四輪車は、強烈なエンジン音となずなの悲鳴を置き去りに急発進した。
凄まじい速度で流れて行く景色の中、衣緒はバックミラー越しに後部座席を見やる。
「二人とも、ここの事、簡単に説明したげよっか」
「そそ、それなら後で説明するわよッ?」
助手席で答えるなずなの声は、猛スピードの走行で緊張に震えていた。
「先に概論って事で。勉強だってその方が捗るっしょ?」
衣緒はまず、天上を指差した。
「街の名前くらいは知ってるん?」
「だいごぼうえーとしあしはら」
「正解。でも歌誉ちい、意味分かってないっしょ」
「だいごぼうえーとしあしはら?」
なぜか疑問形になった。
「第五防衛都市アシハラ――抗う者達の集い場だよ」
「抗う……?」
「そ。上に天板あるでしょ? あれが、ここを防衛都市たらしめてる最大の根拠なわけ。ドーム状に街をすっぽり覆う天板は厚さ六メートル、龍族や魔族の攻撃にもびくともしない耐久性があるんよ。そのおかげで、私達は人族としての自治権をこの街で維持出来てるって寸法よ」
「龍の攻撃にも、ですか?」
「疑うんだ?」
「あ、いや……」
「ホントだよん。凄いっしょ」
胸を張る衣緒の様子は、本当に誇らしげだった。でもね、と彼女は続ける。
「もともとは防壁なんて役割じゃなかったんよ。自虐戦争前の、防衛都市んなる前のアシハラは、技術研究開発都市って研究機関だった。ここの建物は全部その名残。この街自体も新技術のテストケースとして作られてね。へ、へーさ、へーさ、へーさくー……」
「閉鎖空間完結型人工生態系・バイオ・スフィア」
「そそ。それそれ」
舌を噛みそうな衣緒に、速度に慣れてきたのか、なずなが流暢な口調で助け船を出す。
「そのおかげで、ドームの中に引き込もってても生きられるわけ」
「確かバイオ・スフィアって、あれですよね、人為的に生物圏を構築する技術とか……」
「よく知ってるわね」
「昔から科学とか好きで。発明とか、研究とか」
「感心だにゃー。あれだね、田路彦君と趣味合うんじゃないかにゃー」
「あ、姫ちゃんもそう思う? ――って何よそ見してんのよおお!?」
いつの間にか、衣緒は身体ごと後部座席を振り返っていた。背もたれを抱くような格好である。その態勢で器用に両足を伸ばしてフットペダルを操作していた。
「そんなわけでアシハラにはね、生活圏を循環させるだけの施設が揃ってるわけ。居住区画と、学園のある研究区画。物質循環処理区画、電力系統管理区画、植物制御区画、生産工場区画」
指折り数えながら列挙する衣緒は、満足そうになずなに笑みを向けた。
「やったよなずちぃ全部言えたー♪」
「馬鹿馬鹿馬鹿あ! ハンドルハンドルハンドルーッ!」
絶叫しながら、なずなは助手席からハンドルに手を伸ばした。
ノーブレーキで植樹に追突しそうになったが、なずなの操作で何とか回避する。
「んにゃ、任した。ペダルはあたし踏むからさ。いやんっ、共同作業だね恥ずかちぃ☆」
「ブレーキ! ブレーキいいいいッ!」
「嫌だななずちぃ、あと百メートルは直進で行けるじゃんさー」
「こんの馬鹿姫ええええええッ!」
恐怖の送迎は、終始、衣緒のペースで進行した。
どうにか無事故で学園本棟に辿りつけたのが、なずなの苦労と機転か、あるいは衣緒の超然的な計算に依るものだったかは判然としない。
「人族最後の、砦……」
口内での呟きはなずなの叫びと衣緒の笑声にかき消され、誰の耳にも届く事はなかった。
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