第2話 でも彼を救えるとしたらそれだわ
◆
恐怖に震える両足を叱咤し、桐吾は大地を蹴った。
脳を焦がす真っ黒な恐怖が、彼の思考を塗りつぶしていく。
桐吾は靴底を地に滑らせるように、独特の走法で駆けていた。その軌跡には火花が散る――靴底に埋め込まれたベアリングが、金属質な音を夜陰に響かせた。
桐吾が自身で開発したそれは、人間の走行速度の限界を、容易に超越する代物だった。
だがそれを駆使して尚、龍族の追随を振り切る事は出来ずにいる。
「はぁあっはーッ!」
甲高い叫びが急接近する。足を止める事なく背後を見やると、龍族が上段から鋭い爪を振り下ろしてきていた。桐吾は前傾姿勢を取りながら一際強く地を蹴り、間一髪、攻撃を回避。空を切った爪はそのまま大地を抉り、軽々とコンクリートを破砕した。直撃していれば、容易に頭蓋を砕いていただろう。
今度はもう一体による横殴りの一撃が襲う。
姿勢を低くしてその剛腕をやり過ごし、這う這うの体で離脱する。
「はあ……ッ、はあ……ッ」
呼吸が荒い。汗が視界を遮る。しかしそれを拭う余裕もない。
どこまで逃げればやり過ごせるのか。そもそもそんな芸当が可能なのか。自問するまでもない。不可能だ。無意味だ。最上位種族である龍族に目をつけられた時点で結末は決まっている。
にもかかわらず、脚は前へと進む。至極単純な生存本能に導かれるがままに。
「――ひっ」
背筋を悪寒が駆け抜ける。桐吾は咄嗟にベアリングを強く踏み、跳躍する。靴内部のスプリングが彼の身体を跳ね上げ、その高さは龍族の頭さえ眼下に置いた。
直後、耳朶を衝突音が叩く。龍族の一蹴が、大木を枯れ木の如く薙ぎ倒した。
「しゃあッ!」
身をひねって着地したところを、もう一体の龍族が飛びかかってくる。息つく暇もない攻防。息が苦しい。酸素が欲しい。思考が霞む。が、一瞬でも気を抜けば殺される。致命打が牙か爪か腕か足か、違いはそれくらいだ。
敵は、その眷族特有の態勢での攻撃を放ってきた。両足で前方目がけて跳び、大口を開けて牙を放つ。その前傾跳躍はほとんど地面と平行に近く、飛行を思わせる。
その奇襲に対し、桐吾は重心をずらし、仰向けに姿勢を崩した。地面と龍の間に身を滑らせる。そして目標を見失った龍の顎が頭上を通過する瞬間――
「はあッ!」
短く叫びながら、そこ目がけて掌打を放った。
「ふぐッ!?」
体重の乗らない軽い一撃だったが、顎への衝撃は脳を揺らす。立ち上がりながら見れば、桐吾の狙い通り、龍族は上手く着地出来ずにたたらを踏んでいた。
「おいおい何してやがんだ、人族相手に情けねえ」
「………ちッ、クソッ」
ほとんど見た目が同じ両者だが、並立すると差異が見受けられた。桐吾の一撃をくらった方は一本角で、やや背が高い。もう一方は鉤状の二本角を、側頭部に生やしていた。
「しっかし成程なァ。ドン・ゼクセンの犬は龍への対処を良く知ってらァ。そうでなきゃ、あの牙は避けられねェ」
「対龍格闘術って、ドンは言ってましたよ」
「はっは! そいつァ大層だな。んで、勝てそうかよ?」
「無理でしょうね」
結局それは、勝つための技術ではない。攪乱して逃げるためのものだ。
「じゃあテメエよォ、龍を良く知るテメエならよォ――」
前進と後退を続ける彼我の距離は五メートルといったところか。つかず離れずの距離を保ったまま、一本角との距離は開いていく。
鉤角は口角を剥き出しにし、ずらりと揃った牙を覗かせて大笑した。
「俺らの鼻が利くって事も、当然知ってんだよなァ!」
桐吾は驚愕とともに目を見開く。鉤角の肩越しに、一本角が突然背を向けた。そのまま走り去っていく姿は、桐吾の存在など忘れたかのようだった。だが、去ったのではない――目標を変更したのだ。優れた嗅覚が捉えた、もう一方の獲物へと。
「くそ……ッ!」
理解し、思考に熱が回る。半ば無意識のうちに両足を踏み込んでいた。その隙を眼前の悪意が見逃そうはずもない。鉤角の剛腕が桐吾の顔面を強襲する。
◆
「なかなかやるのだ、あの少年」
「何感心してるの! そんな暇ないじゃない!」
明滅する赤色灯の下、不吉な赤に彩られた少女の顔には、焦燥の色が濃い。彼女はコンピュータでの索敵を終え、監視室の扉に手をかけていた。
「何をするつもりなのだ?」
「何って――」
「我々の務めは索敵。我々はそれを済ませたのだ。あとはサイレンから五分以内に石渡教師が訪れ、索敵結果の報告の後、陣頭指揮を執る事になっているのだ」
朗々と告げる声に、しかし少女はひるむ様子を見せなかった。真っ直ぐに、田路彦の正論と向き合う。田路彦は、その瞳が苦手だった。
「何分経った?」
「……四分と、二十秒を過ぎたのだ」
「田路彦。多分、石渡先生は遅れて来る。一度も起きた事のなかった有事に、マニュアル通りの対応は出来ないのよ。私たちの索敵が遅れたようにね」
「だとしてもほんの数分に違いないのだ」
「その数分にも彼は追い詰められていくわ」
事実、会話の間に規定の五分は過ぎた。
「だとして、どうするのだ?」
「アビス・タンクで出るわ」
「――ッ!」
迷いのない返答に、田路彦は言葉を詰まらせる。
「正気とは思えんぞ会計殿。あれは訓練ばかりで、一度も実戦投入されていない……ッ」
「でも彼を救えるとしたらそれだわ」
「しかし――」
「なら待つ? 一週間? 一か月? どれだけ準備しても初陣には違いないじゃない!」
少女の決意は揺るがない。
渋面を崩さない田路彦に、彼女は余裕を示すように、半眼で小さく笑みを浮かべた。
「私の成績を忘れたとは言わせないわよ、技術顧問殿?」
「………。学年総合三位、特殊戦闘訓練はダントツなのだ」
「ほら、ね?」
正答を得て笑みを濃くするが、緊張は隠せていない。口元は引きつっている。四肢は強張っている。それでも、行くという決意は本物なのだろう。
半ば投げやりになって、田路彦は大きく嘆息した。
「さっさと行け。起動準備にかかるのだ」
「――ありがと」
短く礼を残し、少女は踵を返した。
田路彦は監視室に一人きりとなる。カンカンカン、と鉄を踏む硬質な音は、彼女が階下へと向かうものだ。やがて足音は遠ざかっていき、聞こえなくなる。
「お前は幸せ者なのだ、高天原桐吾」
モニターに一瞥をくれてから、田路彦はコンピュータに向き合った。
各種操作を処理し、画面を切り替えていく。表示するのは階下の様子だ。数十個併記されたコードは、それぞれの個体番号である。それらのコンディションを確認する。特に田路彦は、バッテリーチャージの項目に注目する。
舌打ち一つ。田路彦は階下とを繋ぐ伝声管に手を伸ばした。
「聞こえるか、会計殿?」
「オフコース」
「充電率はどれも芳しくない。全て五パーセント以下なのだ」
「五分動ければ充分よ」
「やれやれ……。強気はいいが、短気を起こすなよ?」
毒づきながらモニターに視線を走らせる。少しでも状態のいい個体を選別する。
「では、七番を装着するのだ」
「了解」
彼女が準備するのと並行して、田路彦は七番の起動手順をこなしていく。
遠隔操作で電源を入れ、モーター類を駆動させる。全ての項目が『アクティブ』を表示した頃、階下から声があがった。
「うー…寒い寒い。田路彦! いつでも行けるわよ」
「寒い? まさか会計殿――」
「行・け・る・わ・よッ!」
「ああもう知らないのだぞッ!」
急かされ、田路彦は勢いに任せるまま起動キーを叩いた。階下ではケージが開き、射出レールに彼女が移動しているはずだ。
一仕事を終え、背もたれに体重を預ける。
と、鳴り響くアラームに、もう一つ警告音が加わった。
「今度は何なのだ……」
表示された警告内容に、思わず監視モニターへと視線を走らせた。
見れば、一方の龍族が少年とは異なる方向へと走り出している。向かう先を別のモニターで追うと、その意図はすぐに知れた。
「ゲート通過者は、四名いた……」
小さく隠れていて視認しづらいが、確かにいる。龍族の速度なら、間も無く接敵する。
戦局は不利。体力に限界が来たのか、少年の方も龍族の一撃を喰らってしまった。
もう後戻りは出来ない。
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