指折り数えて

 はっきり言って暇すぎる。いつクビになってもおかしくはない。

 相談薬局に勤める私は売上集計を見つめて、思わずため息を漏らした。昨日の客数は百にも満たない。給料は出るんだろうかと不安になるほどだ。

 がらんとした売り場を見渡して、ふと、隣の調剤フロアに目を向けた。忙しそうに動き回る薬剤師や、次々とやって来る患者たちへの応対に追われる医療事務の姿に、またため息が誘われた。調剤も一般用医薬品の部門も同じ会社なのに、どうしてこうも違うのだろう。

 誰もいないフロアに視線を戻すと、投薬を待つ患者が一人うろついていた。洗濯用洗剤を手にとり、そのまま棚に戻すのが見えた。

 こりゃ、駄目だ。

 案の定、薬剤師に呼ばれると、その患者はフロアを足早に出て調剤へ戻っていった。

 うちの会社は調剤部門と一般用医薬品部門がある。調剤は景気がいいのに、一般用医薬品の売上は右肩下がりだ。

 ここにあるのは医薬品だけじゃない。生活雑貨や介護用品、化粧品だってある。けれど「今日は忙しかった」なんて思う日は一日もない。

 客数が少ないのは、この辺りにドラッグストアが乱立しているせいかもしれない。仕入れも少ないから納入価格も抑えられず、単価が高いせいかもしれない。けれど、ちょっとした心のやりとりや、相談をいつでも出来る安心と親近感といった、誇れるものもあるのだ。

 だけど一番の原因は、店員のモチベーション不足なんじゃないかなと、最近では思う。


「いやぁ、昨日ねぇ、孫がねぇ」


 さっきからお喋りばかりしている先輩方はみんな五十代で、孫がいる世代だ。三十半ばの私など、まるで娘も同然の年齢だった。

 長年の勤続で『もっとよくしていこう』という意欲を、彼らはすっかりなくしている。とにかく『どうせ頑張っても』と諦めてばかりで、おまけに変化というものをとにかく嫌う。

 人間、長いことぬるま湯につかると自分たちがどんな仕事っぷりなのか見えなくなるらしい。その気持ちもわかるのだが、このままの売り上げでは、定年までまだまだある私にはお先真っ暗なのだ。

 盛大にまた一つため息をついて、伝票整理にとりかかった。


「室井さんは若いから」


 定年まであと二年の先輩がよく口にする言葉だ。それを言われるたびに、苦笑いしてしまう。

 この部門にいる五人のうち一番年下だとはいえ、私はもう世間的には若くはない。

 ごぷりと、私の腹の底に黒いものが湧きあがる気がした。ねっとりした黒い水が心の底に堪っていく感覚だ。

 不慣れなパソコン作業を私に押しつけながら、老眼に苦しむ先輩が言う。


「若い人はパソコンできていいよね」


 若い人だって、やらなきゃできません。私も指一本から始めて必死に覚えたんですよ。そんな言葉を呑み込む。

 ごぷりと層を成して腹にたまっていく黒い水は、玉虫色にいやらしく照り、そして熱い。


「どうせ、今日も客なんて来ないよ」


 出来ること、あるよ。探そうよ。まずは自分たちが動こうよ。


 ごぷり。


「若い人は覚えも早くていいね」


 ごぷり。


「こんなのを仕入れても、絶対売れないよ」


 ごぷり。

 私の下っ腹は、汚れた油のような黒い水で膨れていくばかりだ。

 こういうときの自分は、ひどく醜い顔をしているんだろうと思う。鏡なんて見なくても、自分の顔が歪んで荒んでいるのがよくわかる。我ながら嫌になるが、この黒い水をどうしていいかわからないのだ。


 その日、タイムカードを切った私は、さっさと家に向かって歩き出した。一刻も早く職場を出ないと呼吸も出来ない気がして、つい早歩きになった。

 みんな、悪い人ではない。だけど、自分に出来ないことを加齢のリスクのせいにするなら、人一倍努力しなきゃいけないはずなんだ。私だって十代や二十代には負ける。でもゆっくりでもいいから、這い上がればいいのに。

 スタートラインなんて何歳だっていいじゃない。その分、走れよ。いつも、そう言いたくてたまらなくなる。けれど、そう思う私の態度は彼らのプライドを傷つけてしまうらしく、自分が「生意気だ」と陰口を叩かれているのも知っている。

 どんなに努力したことも「若いから」という一言で片付けられる。歳のせいにして何かを諦めている彼らがひどくやるせないのだ。そう思うことすら、傲慢なんだろうか。そう思うから、年上を敬えない人だと言われるんだろうか。

 私は、何かを成している人には年上だろうと年下だろうと黙って頭を垂れる。仕事に年齢は関係ないはずなのに。

 今日、何度目かわからないくらいのため息をついて、遠くの空を見上げると、随分と雲が遠い。空の高さに、秋を感じた。

 ひんやりとした風が、自分の中に堪った黒い水の熱を冷ましてくれるみたいで、少しほっとした。


 歩きながら、自分の眉間を指でなぞった。皺でも出来ていないか、怖くなる。

 家に戻って醜い顔のまま夫に会いたくなかった。彼も営業をしながら、嫌な人に頭を下げることもあるだろう。皮肉だって言われているかもしれない。

 だけど、彼はそういうことは何も言わない。家に決して仕事の愚痴を持ち込まないのだ。だから尊敬しているんだけど。

 彼みたいになりたい。自分も辛いことがあるだろうに、いつも私を励ましてくれる彼のように笑ってみたい。

 私は「よし」と、あることを思いついて、顔を上げた。

 靴を鳴らして、アスファルトにリズムを刻み出す。

 いいことを数えよう。この両手の指の数だけ探してみよう。そう心に決めると、ぶすっと突き出していた唇を伸ばし、口角を上げて、肩の力を抜く。

 さぁ、いくよ。どんな些細なことでもいいんだよ。自分で自分に声をかけて、両手を開いた。


 見慣れた街並を見回し、この心に堪る黒い水を流してくれるものを探した。

 街路樹の銀杏を見上げると、紅葉が始まって。緑と黄色がまだらになっていた。こうやって衣替えしていくのか。

 まずは一つ。銀杏がどうやって黄色く染まるか知った。……ほらね、こんなことでいいの。

 頬を撫でる秋風が涼しい。あんなに蒸し暑かったのが嘘みたいに過ごしやすくなった。これで二つ。

 ふと、ある民家の庭に青くて綺麗な花が咲いているのを見かけ、足をとめた。なんだか家人に無断で写真を撮るのは花泥棒みたいで気が引けたけど、携帯電話で急いで写真を撮って逃げるように歩き出した。明日、園芸が趣味の先輩に花の名前を尋ねてみよう。好きな花が一つ増えそうだ。これで三つ。

 前を見ると、女の人がコーギーを連れて夕方の散歩をしていた。犬の短い足が素早く動くたびに丸いお尻が高速で揺れている。その可愛らしさに悶絶しながら、心の中で『短足万歳』と唱える。これで四つ。

 犬が角を曲がって見えなくなると、今度はこの辺りを縄張りにしている野良猫がいた。金色の目で、真っ黒い子だ。いつもあるアパートの階段の下にいる。


「よっ! ノラちゃん」


 勝手につけた名前で挨拶すると、野良猫がそっと瞬きした。


「さっさと帰れよ」


 とでも言っているのかもしれない。ノラちゃんが挨拶を返してくれたから、これで五つ。


 そんな調子で指折り数えたところで、不意に背後から名前を呼ばれた。


「室井さん、今帰り?」


 振り返ると、自転車のブレーキが甲高い音を鳴らし、一人の男性が私に追いついてきた。黒い自転車に乗って爽やかな笑みを浮かべているのは、薬局の近くにある整骨院の先生だった。彼は三十になったばかりで、腕もいいし、顔立ちも涼やかなため、ご町内の御婦人方に絶大な人気がある。


「ずっとお礼を言わなきゃと思ってたんですよ。先週、室井さんにすすめてもらった酔い止めがすごく効いたんですよ。ありがとう」


 白い歯を見せて笑う先生は、釣りが趣味だ。先週、船に酔うからと言って液体の乗り物酔いの薬を買って行ったのだ。

 お礼を言われることではない。だって、薬局にある酔い止めはほとんどが錠剤で、先生が希望した液体は一種類しかなかった。それに、効果があったなら私よりも製薬会社にお礼を言ったほうがいい。それでも、なんだか嬉しくて、素直に微笑んだ。


「いいえ、お役に立てて何よりです」


 なんだか、ちょっとは誰かのためになれた気がする。よし、これで六つだ。


「いやぁ、うちの患者さんってお宅の薬局の常連さんが多いんですよね」


 それはそうだろう。狭い町内だし、うちの常連さんたちはご高齢の方が多い。整骨院に通っていても、なんら不思議ではない。


「みんな、待合室で噂話に花を咲かせるのが好きなんですけどね、お宅の薬局って評判いいんですよ」


「えっ、そうなんですか?」


「昨日もね、小川さんが『あそこの人たちは話しやすくて年寄りに優しいから嬉しいね』なんて言ってましたよ」


 小川さんと言われても、顔が思い出せない。きっと、先輩たちならすぐにわかるんだろうけど。

 彼らは長年勤務しているだけあって、流石にご高齢の客を喜ばせるのが上手だ。

 今日はもどかしく思えた先輩たちだって、凄いところはある。私には簡単な機械処理が彼らには難しい。彼らがすんなり打ち解けてしまう客を笑顔にするのは私には難しい。得手不得手があるだけで、同じことなんだ。

 そう思うと、なんだか先輩たちが急に頼もしく思えてきた。よし、これで七つ。


「じゃあ、気をつけて帰ってくださいね」


 整骨院の先生はのらりくらりと自転車をこいで遠ざかる。それを見送り、また家に向かって歩き出した。

 もう、アパートはすぐそこ。七つのいいことを胸に歩いていく。指の数ほどには見つけられなかったけど、上出来だ。

 家までの短い距離を歩くうちに、もう七つも見つかるんだから捨てたもんじゃない。

 職場を出たときのモヤモヤしたいらつきが薄らいで、自然と口元に笑みが漏れた。ごぷりと溢れていた黒いものがどこかに消えた気がして嬉しかった。

 アパートの駐車場に夫の車がとまっているのが見えた。今日は仕事が終わるのが早かったんだ。よし、八つに認定しよう。

 足取り軽く、アパートの階段を上がる。


「ただいま」


「おかえり、藍子」


 夫がにこやかに迎えてくれた。帰ったばかりらしく、ほどきかけたネクタイがそのまま首にぶら下がっている。


「今日はいい一日だった?」


 その笑顔を見ると、嫌なことがあったって「うん」と答えてしまう。とびきりの九つ目だ。

 着替えて夕食の準備をしていると、携帯電話が鳴った。着信は、遅番で残っている先輩からだった。


「なにかトラブルかな?」


 思わず顔をしかめて、「はい」と出る。電話の向こうから早口の先輩の声が甲高く響いてきた。


「あ、もしもし、室井さん? もう帰った?」


「はい、今さっき。何かありました?」


「お弁当箱、忘れてるわよ!」


「あ!」


 しまった。帰りにタイムカードを押すときにテーブルの上にいったん置いたのをそのままにしてきちゃった。


「すみません。取りに戻ります」


「あぁ、明日もお弁当だしね」


「いや、実は今日、お弁当箱を洗ってないんです」


 休憩中に「室井さん、問屋さんが来てるよ」と、呼び出されて慌てて出たから、そのまま包んでしまったんだ。


「なんだ、そうだったの。じゃあ、こっちで洗っておくから。明日は違うお弁当箱でおいでよ」


「いいんですか?」


「せっかく帰ったのに、面倒でしょ」


 笑いながら、先輩が言う。


「もう、室井さんって私の息子と同い年だけど、本当に自分の子どもみたいだわ。うちの子もよくお弁当箱を学校に忘れてきてね」


 早口でまくしたてられて、思わず「はぁ」と気の抜けた返事をする。ふと、先輩がこう切り出した。


「そうそう、あとね、お願いがあるの」


「なんでしょう?」


「今度ね、みんなでパソコンを勉強しようって話してるんだけど、室井さんが先生になってくれない?」


 意外な言葉に「えっ?」と思わず聞き返してしまった。いつもなら自分でやろうとする前に「お願い」なんて丸投げしてくるのに。


「急にどうしたんですか?」


「さっきねぇ、岩本さんが来てね」


 あぁ、岩本さんならわかる。薬局の近所に住む七十過ぎのお爺さんだ。


「あの人がパソコンを趣味にしてるんだって店で自慢しててね。あのお爺さんに負けてられないよねってことになって」


 そこまで言うと、先輩が申し訳なさそうに続ける。


「私たち、いつも室井さんに頼ってばかりでしょ? 前に『私だって指一本から始めたんですから頑張って覚えましょう』って励ましてくれたのに、甘えてばかりで申し訳ないよねって話したの」


 なんだ、私の気持ちなんてとうに届いてたんだ。そう思うと、肩の力が抜けていった。

 なぁんだ。私一人でムキになってただけかもしれない。

 ふっと笑みがこぼれて、「もちろん、いいですよ」と自然に言えた。


「あら、よかった! じゃあね、今日はゆっくりしてね」


「あっ、先輩」


 電話を切ろうとする先輩を慌てて呼び止める。


「小川さんって知ってます? 整骨院に通ってると思うんですけど」


「あぁ、小川雪子さんのことかな」


「今度、お店に来たらどの人か教えてください」


「うん、わかった。じゃあ、また明日ね」


 『また明日』という言葉に、私は思わずにんまりした。

 うん、また明日もみんなで頑張ろう。ちょっとずつ歩み寄って、変わっていこう。最後のいいことを見つけた私は、晴々とした気持ちで電話を切った。

 対面キッチンには作りかけの野菜炒めがある。その向こうで新聞を読んで寛いでいた旦那が顔を上げた。


「なんだ、藍子。いい話だったのか? にこにこしちゃって」


 幸せはすぐ傍にある。どんなにささやかなことでも、こうして目を向ければ心を明るくしてくれる力を持っている。

 いつか幸せをみつけるのがもっと上手になったら、きっと私は指折り数えなくても彼のように笑えるはずだ。

 そして私は、野菜炒めの具をひとつ増やしたのだった。

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