あたたかい香り
事務所のデスクで一人お弁当を広げていると、そばに置いてあった携帯電話がバイブで揺れた。画面に出た表示を見ると、母親だ。
またか。そう、うんざりしながらバイブが消えるのを放置していると、不意に後ろから声をかけられた。
「上村さん」
「は、はい!」
部長の声に、慌てて口の中に残っていたカツを飲み込む。さっき提出した書類に不備でもあったかと慌てて振り返った。
その途端、繕った私の笑みがぴたりと硬直する。彼は今まで見たことがないほど戸惑った顔つきをして、小さなダンボールを抱えているのだ。
「部長? どうしたんですか?」
「どうしよう、これ」
蚊の鳴くような困り果てた声で、彼はダンボールを差し出した。
中をのぞくと、思わず「わぁ」と、声が漏れた。中にいたのは小さく縮んだ毛玉のような子猫だった。手のひらに乗りそうな大きさで、おそらく三ヶ月くらい。ほとんど白い毛で覆われているが、頭と尻尾は虎柄だ。背中にも丸い点のような模様がある。いわゆる『トビキジ』と呼ばれる毛色だ。
「どうしたんですか、この子」
「さっき、敷地の入り口に置き去りにされてた」
ここは工業団地の入り口に程近い、小さな建設会社だ。きっと昼休憩の時間に誰かが捨てていったのだろう。
「ひどいことをしますね」
ダンボールの隅でぶるぶる震えて小さくなっている子猫を見ると、怒りがわいてきた。冷たい秋風に吹かれたせいもあるだろうが、なにより怖いのだろう。
「上村さん、ペット可のアパートだったよね? どう?」
「どうって……えぇ?」
戸惑う私に、部長が懇願の眼差しを向けた。
「だって、このままじゃ保健所行きだし、うちの子どもは猫アレルギーだから駄目なんだよ」
「ちょっと、部長!」
「なんなら午後に仕事ぬけて必要なもの買出しにいっていいから! お願い!」
まさか、部長に『お願い』される日がくるとは思わなかった私は、とうとう押し切られる形で頷いた。この部長は仕事には厳しいが、実は誰より優しく大の猫好きなのだ。
部長の職権乱用で仕事中にホームセンターに買出しに行く許可を得た私は、猫砂と餌を買い込んだ。
なんだかとんでもないことになった。子猫を家まで運ぶのに使う洗濯ネットを買い物カゴに入れながら、思わずため息が漏れた。
こうして突然、私には小さな家族が増えたのである。
トビキジの猫は家に着くとおどおどしながら床に顔をなすりつけるように身を低くしていた。警戒しながら辺りの匂いを嗅いだり、そうでなければまるで忍者のように冷蔵庫や本棚の隙間に隠れていた。
「名前、何にしようね」
猫用のケージに古くなったバスタオルを敷きながら、ぽつりと呟く。口にしたところで一人暮らしなんだから返事はないのだが。
ふぅと小さくため息を漏らし、ケージをぽんと軽く叩いた。
「またこれが役に立つとはね」
もう二度と猫は飼わないと思っていたのに。ちょっと切ない思いに駆られ、壁ぞいに床の匂いを嗅ぎながら移動する子猫を見つめた。
実は私は二年前に愛猫を亡くしている。実家にいた頃に拾った猫で、もう年齢は十をとうに越えていた。白と黒の毛並みで、ちょっと歪んでいるがハート型に近い模様が背中にあったため『ラブ』という名前だった。今度の猫にはハート型の模様はないけれど、なんとなくおでこの鉢割れがラブを思い出させる。
「よし、お前の名前は『愛』にしよう」
そんなことをぶつぶつ言っても、誰もいないんだから賛同も反対も聞こえてこない。だが、ラブを亡くしてすぐ男と同棲をしていたせいか、ついこうしてなんでも口にする癖がついてしまった。
その男は先月、他に女を作って出て行ってしまったわけだが、二年の間についた癖はなかなか抜けない。
いつも口にしてから、「あぁ、誰もいないんだった」と気づき、どんよりした気分になる。けれど、このときは子猫が顔を上げて、私をじっと見つめてくれた。まるで無言で「その名前でいいんじゃない?」と賛成してくれたように感じて、思わず笑ってしまう。
この部屋で声を上げて笑うなんて、いつぶりだろう。そんなことを考え、自分がどれだけ乾いていたか、あらためて気づかされたような気がした。
やがて、ふと明日も平日だと気づき途方に暮れた。捨て猫ならノミとマダニの検査で動物病院に連れて行ったほうがいいし、こんな小さな子をアパートに残しておくのも心配だけれど、私には仕事がある。まさかいくら部長に押し付けられたからといって、毎日職場に連れて行くわけに行かない。
そのとき、ちらりと目を走らせたのは携帯電話だった。少し考え、そして思い切って手を伸ばした。
「もしもし」
三回ほど鳴ったコールのあとに出た声は、ここのところ避けていた母だった。
翌朝、私の出勤前にアパートにやって来た母親は、子猫を見るなり目を細めていつもより高い声であやしはじめた。
「まぁまぁ、可愛い子だ」
動物病院に連れて行ってくれないかと頼むと、彼女は張り切って子猫用の猫缶まで持参してきたのだ。
「名前は決めたの?」
「……愛」
「あら、いい名前ね!」
まるで孫をあやすように子猫に向かって「愛ちゃん、いい子ねぇ、いい子」などと囁いている。その様子を眺めながら食後のコーヒーを口にふくんでいると、母はこう言った。
「そういえば例の話、やっぱりその気はないの?」
やっぱり、その話が出た。うんざりして、はき捨てるように答えた。
「ないわ。断っておいてって言ったでしょ」
「そう? 郵便局員と市役所職員なんだけど、もったいないわね」
このところ母を避けていた理由はお見合いだ。
どうも、彼女の友人におせっかいな人がいるらしく、彼氏と別れてからひっきりなしに話がくる。
そりゃあ、三十をとうに過ぎているわけで、出産のことなんかを考えるとすぐさま縁談をって考える気持ちはわかる。けれど、あの彼が駄目だったならすぐに次にいこうと気持ちを切り替えられるほど、安易な恋をしてきたわけじゃないんだ。
母はすすめられるままに話を持ってくる顔をして、実は早く孫の顔が見たいと思っているのも知っている。なにせ、私は一人っ子だもの。周囲の孫の話を聞いて寂しい気持ちになることもあるんだろう。
けれど、不器用な私は、とにかくつっけんどんにしか拒めない。ちょっと恥ずかしいじゃない? 別れた彼を本気で好きだったから時間がいるなんて言うのは。
この日の母は食い下がるかと思いきや、そこで話をスパッと断ち切った。
「それじゃあ、午後四時まではアパートでこの子を見てるからね。なるべく早く帰ってきてちょうだい」
母は用事があるので四時までしかいられないという。仕事が終わるのは残業がなくても、五時過ぎになる。一時間ちょっとなら子猫だけでも大丈夫だろうという話になった。
こうして、私は母に合鍵を渡す。それは、出て行った彼氏が持っていた鍵だった。別れたときは合鍵を作ったことすら馬鹿馬鹿しく思えたけれど、こうして今になって役に立つんだから奇妙なものだ。
その日はなにやら仕事が手に付かず、そわそわしっぱなしだった。お昼休憩を告げるチャイムが鳴ると、真っ先に携帯電話を見る。そこには母からのメールがあり、ノミとマダニ検査は大丈夫だったと短い文面があった。
ほっと胸を撫で下ろし、少しは落ち着いた気分になって弁当を広げる。いつも自分で作る弁当は質素な上に、おかずのバリエーションも少なく、大体同じ中身だ。
久しぶりに母と会ったせいか、ふと、学生時代に作ってもらっていたお弁当を思い出した。彼女は私と違って料理が得意で、煮物や揚げ物など好物を必ず入れるようにしてくれた。
次いで、今朝の子猫をあやす母の横顔が脳裏に浮かんだ。こめかみの辺りに白いものが混じり、猫を抱く手の甲もいつの間にか皺とシミが目立ち、すっかり骨ばっていたのを思い出すと、御飯が喉を通らなくなってしまった。
ラブが老いて死んだ一方で愛が成長していくように、時間は無情に流れていく。母も老いていつかはいなくなり、自分もやがてはあんな手になるだろう。
自分が母と同じ年頃になったとき、そこに子どもの成長や孫の笑顔がない生活はやはりどこか寂しいのだということも、本当は気づいている。
でも、前の彼氏が他に女を作ったとき、もう二度と男なんて信じないと誓った。時間か金かチャンスがあれば、大抵の男は浮気する。
それからたった一ヶ月しかたっていないというのに、また誰かを信じて裏切られる怖さを振り切ることなどできないのだ。
盲目的に信じて愛してバカをみたら? あの惨めさはもう二度とごめんなんだ。
目頭がじんと熱くなって、慌てて深呼吸した。涙をひっこめようとちょっと上を向きつつ、辺りを見回す。外食組はとっくに外に出て行き、事務所の中に残っているのは愛妻弁当をつついている男性陣ばかり。
彼らに訊いてみたいよ。わき目もふらず奥さんを愛し続ける男と、そうでない男の見分け方を教えてくださいってね。
急いでアパートに帰ると、真っ先に子猫の姿を探した。ケージの隅で毛布に埋もれて寝ているのを確認して、ほっと胸を撫で下ろす。家具や電化製品の隙間から出てきただけ、だいぶ進歩したらしい。
リビングのテーブルを見ると、一枚の紙切れが乗っていた。そこには母の達筆な字でこう書いてある。
「検査は異常なし。だいぶアパートに慣れたようなので、もう大丈夫だと思います」
つまり、もう明日は来ないということだ。ちょっと不安なような、それでいて安堵するような奇妙な気持ちになる。やっぱり母がいてくれると心強い。けれどまた見合い話を持ってこられるかと思うと辟易もするのだ。
鬱屈した気分を吹き飛ばしたくて、ビールでも飲もうと冷蔵庫を開けた。
「あっ」
思わず短く声が漏れる。中には入れた覚えのないラップをかけられた皿がいくつか並んでいた。取り出してみると、私の好きな唐揚げとだし巻き卵と大根サラダだ。サラダの器の下に小さなメモが挟んである。
「たまにはお母さんの御飯を食べに帰ってきなさい。それと、お見合いは全部断りますから、あなたのペースで頑張って」
母は自分の不安や心配、そして心もとなさをぐっと飲み込み、私を信じてただ待つと言っているのだ。
私がその立場なら、同じことをできるだろうか? いつの日か、そんな強さを持てるだろうか?
ラップをはがして、唐揚げを一つつまむ。懐かしい味に、頬が濡れた。
その夜のことだ。いつものようにベッドに横たわっていると、ふと掛け布団の端になにやら奇妙な感触が走った。慌てて照明をつけると、思わず笑ってしまった。あの子猫の愛が、必死に掛け布団をよじ登ろうとしていたのだ。
「お前、一緒に寝たいの?」
思わず抱き上げ、そっと布団の中に入れてやる。すると、愛はくるりと回ってから私の二の腕に顔を押し付けて喉を鳴らし始めた。
「いい子ねぇ、いい子」
そうあやし、その声の調子が母にそっくりだと気づいて思わず笑う。
暗がりの中、私は小さな毛むくじゃらの命を感じていた。秋のひんやりした夜気のせいか、最初は少し冷たく感じた体毛だったが、布団の中でどんどん温もっていく。その高い体温は生命力の高さを象徴しているようであり、喉を鳴らして寄り添う姿が次第に愛おしくなった。
なにより、闇の中で伝わるのはあたたかい匂いだった。
香水や柔軟剤のように決してかぐわしいとはいえない。少し埃っぽいような、脂くささの入り混じった動物独特の匂いだ。けれど、それは熱を持って立ち昇り、愛が生きていることをなにより伝えてくれる。
すんと鼻を鳴らし、私は優しく子猫を抱き寄せた。このベッドで生きている匂いを嗅ぐのは久しぶりだ。
あの彼氏もそういえばあたたかい匂いがした。少し脂っぽいような、それでいて熱っぽくて、胸を撫で下ろしたくなるような、そんな男性独特の匂いだった。
やっぱり、私はぬくもりが欲しいのだ。
無機質な布団の中で、誰かが生きていて、寄り添う匂いを目一杯吸い込みながら、安らかな眠りにつきたいのだ。
そんな私は弱いのだろう。けれど、弱いから強くなれるんじゃないかという気がしてきた。だって、私はあの母の娘だから。
このあたたかい匂いを愛せるなら、いつかは信じて待つことも出来るんじゃないだろうか。
裏切られたらと思うと怖いのは相変わらず。だけど、少しだけ、強くなれる手がかりがみつかった気がした。そう、愛がそれを運んできてくれたような気がしたよ。
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