真っ赤な宝石

 お客さん、元気ないですね。

 おや、旦那さんと喧嘩して家に帰りづらいんですね? まぁ、夫婦でも恋人でも、いろいろあるものですよね。

 えっ、私ですか? 私は妻に先立たれてもう数年経ちます。でもねぇ、あとから思い出して悔いることは何より切ないものですよ。

 ……もう一杯ですね。かしこまりました。

 ……私にも悔いることがあったかって? そりゃあ、髪が白くなるまで生きていれば一つや二つはありますとも。

 おや、聞きたいんですか? そうですねぇ、じゃあ、この一杯を飲み干すまでに話し終わるくらいのやつをお聞かせしましょうか。そうしたら、きっと家に帰らなきゃって気持ちになりますよ。


 私がこのバーを始めたのは三十を過ぎた頃でした。まぁ、若かったですよ。勢いで始めたようなものです。

 その頃はその日暮らしで知識も経験もなく、とてもじゃないけれどバーテンダーらしいバーテンダーじゃありませんでした。ちょうど不景気でなかなか客足も増えなくてね。安定することがない水ものの商売とはわかっていても不安でイライラしました。

 そんな私を当時付き合っていた女性が支えてくれていたんです。彼女は二つ年上で、童顔でしたけれど、中身はしっかり者でした。

 彼女はお酒が大好きでした。たいして飲めもしないのに、強い酒が好きでね。私たちは妙に気があって、すぐに同棲したんですよ。

 私の少ない稼ぎじゃやっていけないから、会社勤めの彼女が随分生活を助けてくれました。

 でもね、当時の私は甘えていたんですね。彼女ができるだけ節約して、お金をやりくりしていたのを知っていながら、自分は気ままに「付き合いだ」なんて言って雀荘に入り浸って、ひどい男でしたよ。

 そんな私でもね、胸を打たれたことがあったんです。それはね、秋になると彼女が必ず作ってくれる『いくら丼』でした。


 お客さんは『秋鮭生筋子』ってご存知ですよね? ほら、秋になるとスーパーに味付けがされていない筋子が並ぶでしょう。

 彼女はね、秋になるとあれを買って来て、いくらの醤油漬けを仕込んでくれたんです。

 はは、そう。私の大好物はいくら丼なんですよ。今思うとね、たまの贅沢ってやつですよ。そりゃあ、出来合いのいくらの醤油漬けを買うよりはずっと安く作れるけれど、生筋子だって安いもんじゃない。それをね、白い炊きたてのご飯にごっそり盛ってくれるんです。海苔を散らしてね。

 それが本当に美味かった。ご飯の上でキラキラ光るいくらが、真っ赤な宝石みたいに見えてね、私は子どものように無邪気に頬張っていました。

 でもね、そのときはわからなかったんです。そのいくらの醤油漬けにどんな意味がこめられていたか。


 結局、彼女とは三年後に別れました。彼女が転勤になったんです。私との明日が見えない生活よりも、自分の仕事を取るって言い、それっきり会っていません。

 私は別の女性と付き合ったり別れたりを繰り返し、結局、同業者と結婚しました。それが先立たれた妻なんですがね、彼女はいくらの醤油漬けの作り方を知らない女でした。

 で、何度か、いくら丼が好きな私のために挑戦してくれたことがあったんです。だけど、何かが違うんです。

 あの思い出のいくらより、つまらない味になるというか……心が躍らなくてね。

 それで、妻もいつしか妻もいくら丼を作らなくなり、私も家で食べたいと思うことはなくなりました。


 ところが、あれは五年前の秋でした。バーに、ふらりと一人の男性が入って来たんです。

 見知らぬ顔でしたが、その方はまっすぐ私の顔を見ると、ほんの少し微笑んで「スプモーニを」と注文なさいました。そしてそのあと、こう言ったんです。


「マルティーニ・ビターをほんの少し入れてください」


 この言葉で、私は心臓が鷲掴みにされたようになりました。

 何故って? スプモーニにマルティーニ・ビターを入れるのは、あの彼女しかしなかった注文だったからです。

 もしかして彼は、あの彼女の息子じゃないかと、そわそわしました。よく見ると、顔立ちもどことなく似ていました。

 でも、彼は名乗りませんでしたし、私も名前を尋ねることもなく「かしこまりました」と頷いて、カクテルを作りました。

 男はマルティーニ・ビター入りのスプモーニを飲んで、一人物思いに耽っています。


「いかがですか?」


 居ても立ってもいられなくなって声をかけると、彼はふと目を細めました。あぁ、その仕草があの彼女にまたそっくりなんです!


「美味しいです。俺、赤が好きなんですよ」


 スプモーニの赤に視線を落とし、彼がぽつりぽつりと話し始めました。


「実は、この街には転勤してきたばかりで」


 彼の言葉は、確かに訛りのあるイントネーションでした。


「ちょっと心細かったんですが、この街で生まれ育ったお袋が、是非この店のスプモーニを飲めと言っていたのを思い出しまして」


 やはり、そうだ。

 私は胸のざわつきをこらえ、「そうですか」と小さく答えました。


「なんだか、赤を見ると、お袋のいくら丼を思い出して、ちょっとばかりホームシックです」


「いくら丼ですか?」


 カクテルといくら丼? 驚きながらも、瞬時にあの真っ赤な宝石みたいな醤油漬けが脳裏をよぎります。


「実はね、俺がいたところは海がないんですけれど、転勤が決まったときにお袋が生筋子を取り寄せて、たんまりといくらの醤油漬けを作ってくれたんです。そのとき、お袋が言ってたんです。昔、好きな人にコレを毎年作っていたって」


 彼の目は私をじっと見据えたままでした。きっと、私が母親とどういう繋がりだったか知っているのでしょう。

 私は思わず、カウンターの下で拳を握りました。彼女はいくら丼を頬張る私を満面の笑みで見つめていたものです。あの微笑みを思い出し、胸がぐっと狭くなりました


「お袋の作るいくらの醤油漬けはね、ちょっと魚の匂いが残ってるんです。なんでも、普通はぬるま湯で洗ってほぐしてから漬けるんですよね?」


 私が頷くと、彼はスプモーニを一口飲んでから話し続けました。


「ところが、お袋は房のまま漬けてから、タレの中でほぐすんですよ。生臭さを消すために生姜を入れて。お袋いわく、生臭さの消えたいくらは綺麗だけれど皮が固くなるんだそうで。それじゃ本当の旨味はわからないし、多少、魚の匂いがしたほうが弾力があって本来の旨味がわかる。潰れてしまったいくらもタレの旨味になるから無駄にはならんってね」


 なるほど、それでか。私は無言のまま、一人納得していました。

 妻はいくらをほぐしてから漬けていました。その手順の違いが、味の違いだったのでしょう。


「その好きな人が本当に美味しそうに食べてくれるのが、なにより幸せで、これ食べて元気だしてまた頑張ろうって思ってくれたらいいなと作ったんだそうです」


 彼はカクテルで舌を湿らせて、また話し出しました。


「それで、俺にも景気づけに作ってくれたらしいんです。下手に綺麗になって皮が固くなるより、ちょっとぐらい生臭くても弾ける皮を持つほうがいいんだから、理想に追われて頭を固くするなって」


 あぁ、そうか。私は小さなため息を漏らしました。

 あの頃、私はよく『あんなバーにしたい』『こんなバーにするんだ』と息巻いていたものです。でも、彼女から見たら、何かを見落としていた自分がいたのかもしれません。実際、私は彼女の心を手放してしまったんですから。

 その男性は、小さく「頑張らなきゃな。ゴールが見えなくてもね」と呟き、空になったグラスを置きました。

 会計を済ませて店のドアに向かう彼に、私はそっと問いました。


「お母様はお元気ですか?」


 それだけはどうしても訊かずにはいられませんでした。

 すると、彼はにっこり微笑みました。


「えぇ」


 たったその一言だけで、私はすうっと何かが救われたような気がしました。

 誰もいなくなった店内で、私はカウンターに手をつき俯きました。何故だか涙がはらはらとこぼれ落ちて。カウンターにいくらのような涙の粒ができるのが、ぼんやりと見えました。


 翌日、私は店のお通しを作る材料を買いにスーパーへ行きました。

 そのとき、ふと鮮魚売り場で例の物を見つけたんです。そう、秋鮭生筋子ですよ。

 まだ出始めだからでしょうか、決して安いとは言えません。けれど、迷いなくそれを買い物かごに入れていました。

 その日のお通しを仕込む傍ら、だし汁に醤油、酒、みりん、生姜を入れて一煮立ちさせ、そのまま冷まします。そして房のままの生筋子を冷めたタレに漬け込み、冷蔵庫へしまいました。

 その日は仕事の合間に、なんだかいくらが気になって気になって仕方ありませんでした。まるで明日の遠足を楽しみに待つ子どものようでしたよ。


 翌日、私は腕まくりをすると、タレの中でいくらをほぐし始めました。最初は怖々でね、うまくほぐれなかったんです。けれど、ちょっと思い切るとはらはらと音もなくタレの中にいくらが沈んでいくんですよ。

 そうして集めたいくらを別のタッパーに入れ終えたとき、私は思わずうっとりしました。

 午後の光を浴びて煌めくそれは、まさに真っ赤な宝石でした。炊いておいたご飯を丼によそい、これでもかってくらい、いくらを乗せます。あとは、お通夜の香典返しでもらった海苔を適当にちぎって振りかけました。

 「懐かしいな」って思わず一人で呟いてしまいましたよ。

 たちのぼる米の匂い。光るいくら。湯気で湿っていく海苔。丼の中をしげしげと見つめ、そして思いっきり匂いを吸い込みました。そして、それを恐る恐る口に入れたんです。

 味付けは彼女のものより薄かった。けれど、口の中で弾ける勢いも、ほんの少し残る魚臭さも、あのときの味だったんです。本当に彼女に再会したようで、嬉しくて嬉しくてたまらなかった。いくらを一粒一粒、歯で噛み潰すたびに、彼女の声や仕草やいろんな思い出が弾けて広がるようでした。

 ふと、目の前にあの笑顔がないのが不思議な気がしました。そして、こう感じたんです。この真っ赤な粒が……いえ、いくらだけじゃなく、一つ一つの何気ないすべてが、宝石なんかより貴いものだったんだと。

 顔を上げた私は、食器棚の硝子に映る自分に目がいって、つい苦笑しました。そこに映るのは白い髭をたくわえた老いぼれの私です。あの頃の野心と自由にまみれていた私じゃない。

 でも皮肉なもんです。私は彼女を失ったというのに、彼女の心にやっと近づけた気がしました。同じベッドで寝ていたあの頃より、ずっとずっと近くにね。


 ……ねぇ、お客さん。旦那さんとどうして喧嘩したかなんて野暮なことは訊きませんがね、夫婦でも別の人間なんです。『わかって欲しい』と甘えたいことはあるけれど、所詮はちゃんと伝えなきゃ伝わらない。

 こうして願いをこめても一生わからないこともあるし、私のように遅すぎるけれどわかることもある。こうしてすべて終わってしまってから伝わるほうが、かえって切ない。

 だからね、ほんのちょっとだけ、素直になってごらんなさい。たとえ喧嘩が続いても、ソファなんかで寝ちゃ駄目ですよ。絶対に無理矢理にでも同じベッドに寝るといい。手を伸ばせば届くところにある体温を感じて、本当にそれを失っていいのか自問自答してご覧なさい。

 同じベッドに寝ているのに心が離れていると感じたら、彼のせいだけにせず、自分もきちんと見つめて、どうしてそうなったか見つめ直してご覧なさい。

 きっとね、人と人なんて『縁』だの『運命』だのという言葉に甘えたらさっさと離れてしまうんですよ。繋ぎ止めたいなら、そういう意識をすることです。

 ……おっと、老いぼれは説教くさくていけませんね。


 ありがとうございます。千円のお釣りですよ。またいらしてくださいね。えぇ、もちろん旦那さんと一緒にね。

 そのときはマルティーニ・ビター入りのスプモーニを仲直りのお祝いに御馳走しますから。

 ちょっとほろ苦くて、いくらみたいに赤いカクテルをね。

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