第3話「霞の向こうの記憶」4—2

「シ、シエル、起きてシエル」

「う、うぅ……。痛いわねぇ、一体誰よ」

「起きたわね」

 ホコリを払いながら立ち上がるやいなや、ティンの持つハリセンを見て、ずいっと迫ってまくしたてた。

「あなたね!? 痛いじゃない! いきなり何するのよっ!」

「何を言うか! カレンに何しようとしてたわけ!?」

「べべっ、別に、あなたには関係ないわっ」

「関係なかったら止めはしないわよっ。あんた何? 意外とイヤラシイこと考えてんのね」

 嫌みな表情を見せながら、これまたティンの嫌みな質問に、シエルはまるでオーバーヒートした蒸気機関の如く、一気に顔を赤らめた。始終を見られたことを察知したらしい。よほど恥ずかしいようだ。

「そそそ、そんなこと……っ!」

「あんた、これ以上カレンに変なことしたら」

 ティンも負けじとシエルに詰め寄る。じっとシエルの目を睨みつけた。同じくシエルもギラギラと燃える視線を投げかける。

「承知しな――」

 しかし、ティンの言葉はいきなり途中で切れてしまう。突然訪れた沈黙の中、一体何があったのかと、カレンは不思議に思って、ティンに声をかけようと二人に近寄る――しかし、そこには(カレンにとって)信じられない光景が広がっていた。カレンは見てはいけないと思い、視線を避けようとしたが、なぜか体が動かなかった。

 ティンの両肩に、シエルの手が乗せられている。険しい表情は一転して、やさしい表情を見せるシエルが、ティンの唇に自分の唇を重ね合わせているじゃないか。一方ティンは驚いた表情を見せ、どうすることもできずに、シエルの行為を受け入れていた。

 ……はわわわわぁぁ~! み、見ちゃったよぉ~っ!

 カレンは自分のことでもないのに、再び赤面しては顔で手を覆っていた。

「お姉ちゃ~ん、うちのパン持って来た……」

 そんな事態の最中、元気なリーナの声が調合部屋に響いた。差し入れを持ってきたらしいが、声は空しくその場の雰囲気に掻き消され、リーナの言葉も中途半端に途切れてしまった。そして、パサリと手に持っていたホワイトバレーの紙袋を床に落としてしまう。リーナは硬直したまま目が点になっていた。

 その時、それらの沈黙を破るように、シエルがティンからそっと顔を離す。慌てるように両手を肩から引くと、恥ずかしそうに視線を外した。ティンは困惑した表情を見せ、柄にもなく顔を真っ赤に染めている。そして、少し俯き加減になって、肩を震わせていた。すると、次第にティンの目尻に、じわりと涙が浮かんでいく。

「な……っ」

 絞り出す様に声を出した途端、目尻の滴が一筋の跡を残して頬を伝っていく。

「何てことするのよ、バカぁぁっ!」

 声を震わせながら一言をシエルにぶつけると、膝を折ってペタンと床に座り込み、泣き始めてしまった。そのいきなりのことに、カレンとリーナはただただ立ち尽くしてしまった。

 ティンはガックリと肩を落とし、溢れ出る涙を拭う。でも次から次へと流れてくる。色んな意味でショックだったようだ。

「ティ、ティンちゃん……?」

 リーナが恐る恐るティンに声をかける。しかし、ティンからの返事はなく、泣き続けるばかり。少し不安になって、肩を叩きながらもう一度声をかけると、今度は勢いよく立ち上がり、シエルに向き直った。そして、大きく息を吸い込むと、一気に怒声を吐き出していく。

「このバカっ! 目を覚ましなさいよ!」

 それとともに肩を叩くと、シエルはビクっと身震えさせ、目を見開いた。しかし、そのまま硬直して、動かなくなってしまった。

「シ、シエル、大丈夫?」

「はっ! ……わ、私、何してたのかしら」

 カレンの声で我に返ると、慌てて辺りを見回す。そして、ティンのことを見つけると、ぼーんっと聞こえそうなほどに顔を真っ赤にさせていた。

「……あ、あの、その、ご、ごめんなさいっ!」

 さっきのティンの声に負けないくらいの声で言うと、頭を深々と下げる。でも、ティンは未だ涙目になって、まだ怒っているのか、腕を組んでそっぽを向いてしまっている。いつもと違って腰の低いシエルを見ると、シエル自身も大分反省していることが分かる。それでも、ティンは一言も口を聞いてはくれない。

「ほ、本当にゴメンなさい。……わ、私、おかしくなってたわ」

「ねぇ、ティン、許してあげて。シエルだってイタズラにそんなことしたんじゃないよ」

「……。まぁ、いいわ。アルトーノの効能として、今回は許してあげるわよ」

 シエルに向き直り、ティンはしょうがないわねと言って、許してくれたようだ。でもその傍ら、こんなにもあっさり許してしまう彼女に、シエル達は裏がありそうな気がしてならなかった。

「でも、また私やカレン、ルミやリーナにこんなことしてみなさいよ。あんた、タダじゃ済まないわよっ!」

 やっぱりそういうことだ。今後同じようなことがあったら……シエルがどんなことになるかは、誰も分からない。そんなこんなで一件落着となり、リーナの持ってきた差し入れのパンを食べることにした。

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