第3話「霞の向こうの記憶」2
「ふあぁ~。……何か、頭がズキズキするわねぇ」
その翌日、二日酔いになってしまったらしいティンは、どんよりとしたお目覚めとなった。深いため息を吐きながら、しばし寝たままに頭を押さえる。とにかく気分が悪い。
水が欲しい。とりあえず重い体を起き上がらせた。
「ん……っ!?」
しかし、体を起こしたところで、見慣れない光景が目に飛び込んできた。
いつもより高い位置から、隣で眠るカレンの寝顔を見下ろしている。いつもなら立ち上がっても、膝辺りに彼女の顔があるのに、座った状態から見下ろせる。とりあえずベッドから降りてみる。そして何気に、クローゼットの脇にある立て鏡の前に立ってみた。
「え……っ!? な、何よこれっ!?」
床に立っても、立て鏡いっぱいに映る自分の姿。顔は自分なのに、カレンとほぼ変わらない背格好。冷や汗がにじみ、血の気が引いていく音を耳にするやいなや、全身に震えを感じてしまった。もう二日酔いどころじゃない。
「カ、カレン! カレン、起きてっ!」
半ば混乱しながらカレンを叩き起こす。もう何が何だか分からない。
「うーん。何? そんなに大声で起こさなくても……」
寝ぼけながらもとりあえず起き上がるが、すぐ脇に居る人物にカレンは思わず絶句した。見たことがない、同じ年頃の女の子が、真剣な顔を見せて立っている。
「ふえぇ!? だだ、誰っ!?」
今度はカレンが混乱しながら飛び起きた。思わずベッドの隅に後ずさりして、驚きと疑念の眼差しで見やってくる。もしかしたら、カレンからそんな恐れられるような視線を向けられるのは、初めてかもしれない。我が身に起きたことも衝撃だが、それ以上にショックでならなかった。
「わ、私よ、私! ティンよ! ティン・フィーベリーよっ!」
「え、えぇっ!? ティ、ティンなの!? で、でも……えっ? じゃ、じゃぁ、どうして、そんな姿になってるの……?」
「わ、私にも分からないのよ! 私だって混乱してるんだからっ」
とにかくこの事態を把握しなくてはならない。ティンはもう一度、鏡の前に立ち、自分の姿を見回した。
普通の人間と変わらない姿をしている。本当に自分なのだろうかと、見れば見るほど疑問が脳裏に絶えない。体が大きくなった分、目の位置が高くなって、手の届く範囲も広くなり、歩幅も大きくなった。でも、体が重く感じるし、それに違和感が全身を
「……ねぇ、カレン、本当にどうなってるの?」
「う、う~ん……」
カレンは腕を組んで、当てはまりそうな事象を脳裏に巡らせる――が、考えただけじゃ分からないかもしれない。こういうときはルフィーに相談を持ちかけるのが最適だろう。ひとまずティンはカレンの服を着ることに。
何はともあれ、とりあえず朝食を取ることにした。当然、カレンはいつもの調子で、ティンの分を普通の人の半人前(ティンは普通の人の半分は食べている)を用意してしまっていた。大きくなった分、それなりに食べる量が増えるらしく、一人前じゃ足りなかったという。同席したシェリーにも、その人間のような姿に驚かれたが――どこか彼女から、優しげな眼差しが向けられていたのをティンは気づかなかった。
して、いかがしたものか。カレンは店を開く前に、ティンを連れてアトリエリストへと向かった。今日は週末の休日だから、学園も休みでルフィーもアトリエにいるはずだ。
いつもは隣でふわふわ浮いているのに、地面を踏みしめて歩いている。身長差は殆どなく、ルミが隣に居るかの様だ(口調はシエルだけど)。
周りが気になるのか、猫背になって、顔を隠す様に俯き気味になっている。普段とは違って、珍しく控えめになっていて、まるで借りてきた猫のようだ。
「ね、ねぇ……私、変じゃない?」
「変だよ。そうやっておどおどしてるから」
「ど、どういう意味よ」
「体が大きくなっても、ティンはティンだよ。……でも、そういうのも、たまにはいいんじゃないかな」
「何よ、
「あはは、そんなことないよ」
何はともあれ、イースタンストリート沿いにあるアトリエリストへ来ると、入り口のドアをノックする。木造のドアが軽い音を立てるが、中からの返答はなし。この時間なら、調合室に誰かしらは居るはずだが、どうしたものか。ひとまず中を覗き込んでみる。
「おはようございまーす。カレンですけど」
明かりさえ
「ふえぇっ! シエル!?」
「カ、カレン、どうしたのよ?」
そのただならない様子に、ティンも側に駆け寄り、リビングを覗き込んだ。シエルがネグリジェ姿で、長い髪を乱しながら床に倒れ込んでいるじゃないか。一体何があったものか。ひとまず声をかけなくては。
「シエル、大丈夫!?」
「一体何があったのよ!」
「う、うぅ……。カ、カレン、ダメよ、こんなところで、そんな、はぁ……ん」
どうやら気を失って倒れているのではなく、寝ているだけらしい。ただ、こんなところで一体どんな夢を見ているものだか。熱い吐息に悩ましげな表情を見せ、そんな寝言を口ずさんでいる。ティンは思わず、声を荒げて叩き起こした。
「朝から何をわけの分からない夢見てんのよ!」
そして、シエルの脳天に、どこからともなく取り出したハリセンが、切れの良い音を立ててクリーンヒット。シエルは何事かと言わんばかりに飛び起きた。
「えっ? あ、カ、カレン。……どうしてここに?」
「あ、あはは、おはよ、シエル。それより、どうしてこんなところで寝てたの?」
話によれば昨晩、就寝前に、店から持ってきたオレンジだけ絞ったジュースを飲んだらしい。でも実は、オレンジ酒を間違って持ってきたらしく、酔ってしまってリビングで眠り込んでしまったという。
「それはあんたがバカだからじゃないの?」
「そ、そんなわけないでしょ!? 私はちゃんと確認して……って、あなた誰!?」
何だかどんどん路線がずれていくその場をまとめるように、カレンはシエルを落ち着かせ、事の顛末を説明する。やっぱり、シエルもどうしてティンがこうなったのか分からないらしい。
「……ってことで先生に会いに来たんだけど、先生は?」
「まだ起きてないのかしら……? お母様も飲んでいたし、キッチンに居ないようなら、多分部屋に居るわ」
「分かった、ありがとね」
「えぇ。……でも、たまにはいいんじゃないかしら?」
「あんたも他人事だと思って面白がってるんじゃないの?」
「あら、そんなことないわよ」
カレンと同じ答えを返されて、思わずティンも項垂れるのだった。
とりあえずシエルに言われたとおり、一度キッチンを覗いたが、朝食の準備する人影すらもない。まだ部屋に居るのかと、そちらへと向かった。ドアを何度か叩き、彼女を呼ぶと、向こうから重苦しそうな声が返ってきた。
「先生?」
ドアが開いたかと思えば、髪の毛も
「あ、あぁ、カレンちゃん、おはよう。ゴメンなさいね、ちょっと気分が悪くて……」
「あ、無理しちゃダメですよ……」
「えぇ、少し水を飲んでくるわ」
のそのそと重い足取りでキッチンへと向かうが、大丈夫だろうか。朝食なんて作れる状態ではないだろう――そこでカレンは
とりあえずルフィーを追ってキッチンへ行く。傍らで水を飲む彼女に断り、調理道具一式を揃えた。普通の朝食じゃ、ルフィーが食べられそうにないので、そういったことを考慮して調理を開始する。
匂いに釣られてきたのか、シエルが眠そうにキッチンへ姿を現し、ダイニングのテーブルに席を取る。彼女は別段二日酔いというわけではないらしい。お酒には強いのかもしれない。
と、盛りつけた料理をテーブルに並べ、朝食ができ上がった。
「ゴメンなさいね、作らせてしまって。シエルも少しは見習って欲しいところね」
「う……」
「シエルが料理できないなんて、今に始まったことじゃないわ。ルミにだってできるのにね」
「うぐ……」
「シエル、料理なら私が教えるよ」
「べ、別にいいわよ、料理できなくても。女性だからって料理できるって限らないわ」
そう言い訳しながら、用意されたカレンのお手製朝食を頬張る。
口に頬張ったその瞬間から、食材や香辛料の旨さが口一杯に広がる。その絶妙なバランスに、シエルはある衝撃を覚えた。
「どう? 美味しいと思わない?」
ティンが自分の手料理でもないのに、ドヤ顔を見せつけて聞いてくる。
「美味しい……」
「当然でしょ。カレンが作ったのよ? 美味しいに決まってるじゃない」
その反応はいちいちは腹立たしいが……美味しいし、ティンの言うことも分かる。でも、段々と悔しさが込み上がってくる。そしていつしか、カレンにできて自分にできないはずがないと思い始めた。ついさっきまで否定的だったのは、何だったものか。
「そういえばカレンちゃん、この子は? ルミちゃんじゃないわよね。でも、何処かで見たことがある様な……」
「実はティンなんです。それで、先生に相談に来たんですが……」
カレンは現在の状況を説明した。一体何があったものか、ルフィーは人の姿になったティンを、まじまじと見つめる。徐に微笑みながら、彼女はこう応えた。
「……まぁ、たまにはいいんじゃないかしら」
「ルフィーまでそんなこと言うわけ? あんたら面白がってるんじゃないわよ!」
「ご、ごめんなさいね。ちょっと調べてみないと分からないかもしれないわ」
ルフィーは頻りに首を傾げ、二日酔いが来てるのか、しばしば頭を押さえて、あれやこれやと考え始めた。確かに、何らかの魔法にかかっていたとしたならば、体が大きくなることもあるかもしれない。しかし、そんな魔法聞いたことがない。ルフィーなら分かると思ったが、難航しそうな雰囲気だ。
朝食を終えると、ルフィーは部屋へと戻り、体を休めに行った。カレン達は開店時間が近いと知るやいなや、店へと向かっていく。
――まさかこの後、様々な異変が起き始めるなんて、誰も予想できなかっただろう。
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