その13「にどぶろ」
「えへへ。よーし。それじゃあ早速、このお風呂場で二度風呂なのですよ!」
再び木箱のお風呂場近くへと移動したメモリが、嬉しそうに両手を上げている。
「え。また入るの?」
「はい! せっかくですし、使い心地を試してみたいのです!」
「もしかして、お風呂好き?」
「好きですよー! 一日中入っていたい位、大好きです!」
いやいや。そんなお風呂に長時間入ってたら、ふやけて溶けちゃうよ。
まあ、メモリの行動を止める理由も無い。
私はそのまま、少女の行動を見守ることにする。
メモリはお風呂場に到達すると、例のミニチュアバスタブの隣に降り立つ。
左右の縁に両手をつけると、彼女はバスタブを持ち上げ、飛び上がった。
「お、重くない?」
「だ、大丈夫……です……!」
言葉に反し、その顔はとても苦しげであった。
見た目からして、無理があるものね。
逆に、よく持ち上げられたものだ。
「お、おおやさん、水道からお湯を頂きますね……!」
「う、うん。良いよ」
メモリはそのままフラフラと、キッチンへ向かっていった。
バスタブの重さから、たまに高度が下がっているが、なんとか持ち直している。
何となくそんな少女の動きに不安を覚え、私もメモリの後に付いていく。
メモリはシンクにバスタブを降ろし、額に浮かんだ汗を片手で拭い取っていた。
少女は水栓に近づくと、身体の動きを最大限利用し、レバーを上げる。
水道から、水が細く流れだす。
やがて徐々に湯気が上がりだし、水が湯へと変化していった。
流れるお湯に、メモリが手で触れる。
どうやら丁度良い温度だった様だ。うんうんと、少女は頷いていた。
彼女はそのまま水道の向きを変え、バスタブにお湯を溜めていく。
小さなバスタブに、湯が満ちていく。
レバーの近くにスタンバっていたメモリは、湯の量を目測で確認する。
丁度良い量が溜まった所で、両足で勢い良く踏みつける様にレバーを押し下げた。
ここまではメモリも手慣れたモノで、見ていて特に不安を覚える事も無い。
いつもこうやって、バスタブにお湯を貯めていたのかな。
あれ? そもそもどうやって、フタが閉まっていたパソコンの中から、バスタブを出し入れしていたんだろう。
と言うか、メモリ自身も、どうやってパソコンの中から出入りしていたのかな。
うん。興味があるし、後で聞いてみよう。
メモリがバスタブを持ち上げようとしている。
お湯が溜まった事で、先ほどより重量が増している為か、なかなか持ち上がらない様だ。
少女はその小さな細腕を、プルプルと震わせていた。
「だ、大丈夫? 私が持ってあげようか?」
「へ、平気なのです……! いつもやっている事ですので……!」
力いっぱいに「ふんぬー!」と声を上げるメモリ。
その掛け声に呼応するかの様に、バスタブが徐々に持ち上げられていく。
顔を、トマトのように真っ赤にしたメモリさん。
先ほどよりも更にフラフラした動きで、彼女はゆっくりと浮かび上がる。
そのまま少女は、お風呂場を目指して飛んでいった。
何というか、いつ墜落してもおかしくない様な動きである。
本当に、大丈夫なのかな……。
少女の身に何が起こっても対応できるように、後ろから背中を見守る私。
――と、その時であった。
「あっ。あれ、あれれれれ」
メモリの飛行が、突然不安定になった。
只でさえフラフラしていたのが、ユラユラグラグラと更にバランスを崩し始める。
マズい。このままだと、床に落下してしまうかもしれない。
重いバスタブを持っているし、一緒に落下したら、怪我の危険もある。
私は慌てて、メモリの身体を支えようと手を伸ばす。
「あ、危ない! メモリ!」
だが――私の手は、ギリギリで少女の身体には届かず、空を掴んだ。
メモリの高度が、どんどん下がっていく。
だけど幸いにも、落下の勢いはそんなに早くない。
そのペースで落下し、上手く着陸できれば、怪我の心配は無さそうだが……。
「に、にゃあああああああ!」
「お、落ち着いて! ゆっくり降りれば大丈夫だから!」
落下で揺れるバスタブから、湯が少し漏れ出していた。
メモリの身体がどんどんと前方へ落下していく。
その落下先に、私は、ある物の姿を目にした。
目にして、しまった。
我が家のパソコンさんの、姿を。
メモリの身体が、パソコンの側へと近づいて行く。
バスタブが、傾いていた。
中に溜められたお湯が、バスタブの中から溢れだす。
空中に放り出される、湯の塊。
その先にあるのは。
我が家の、パソコンさん。
この一連の流れが、やけに長い時間に感じられた。
まるで、スローモーション映像でも見ているかの様であった。
パシャッと音を上げ、バスタブから放り出されたお湯。
それが、パソコンの『電源スイッチ』に、無慈悲に浴びせかけられた。
「あ、危なかったのです……」
メモリはバスタブの中が軽くなった事で、何とかバランスを持ち直していた。
そのまま不安定な動きで、少女は何とか床へと降り立つ。
ダラダラと涙を流す、パソコンの電源スイッチ。
は、はははは。
で、でも大丈夫。
メモリさんがかけてくれた万能パウダーがある限り、私のパソコンは無敵……。
その時だった。
唐突に私の脳内で、メモリが先ほど言い放った『ある一言』が、響き渡ったのである。
『このおうちの中にも、満遍なくパウダーをまいていますよ!』
『このおうちの中にも』
『『『中にも』』』
――…………。
「メモリさん」
私はメモリの名を呼ぶ。
自分でもビックリする程に、優しく、静かな声色であった。
「はい、なのです」
床に降り立ったメモリが、私の声に反応し、こちらへと振り向く。
少女はきょとんとした表情で、遥か高みに存在する私の顔を見上げていた。
たぶん、不自然な笑顔で固まっているであろう、私の顔を。
「万能パウダー、おうちの外にもかけましたか?」
「かけて、ないのです」
「そうですか。妖精じるしの万能パウダー、すごいですね」
「それほどでも、ないのです」
その瞬間――私の意識は途切れる。
イドに眠る、私の中の『何か』が、表舞台に現れたのだ。
カチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチ。
濡れた事で壊れてしまったらしい、パソコンの電源ボタン。
それを連打するだけの、妖怪『でんげんつかない』と化した私。
そして哀れにも、すっかりトラウマとなっていた『カチカチ』を、一晩中聞く羽目になった妖精、メモリ。
私達のへんてこな物語は、パソコンがきっかけとなって始まる。
そして、パソコンの尊い犠牲をもって、更なる深みへと進んでいく。
「うわああああん! ご、ごめんなさいなのですううううううう!」
小さな少女の懸命な謝罪は『カチカチ』に飲み込まれ、虚空の彼方へと消滅した。
しばらくご近所では、どこからともなく不気味な『カチカチ』音が聞こえてくると言う、謎の怪奇現象が話題になったと言う。
第2話へつづく
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