第2話

「涼しいー……」


 へにゃあ、と垂れるようにカウンターに臥している彼女を見ながら、僕とノアさんは苦笑した。貧民街に似つかわしくなく瀟洒なカフェ――とは言え見た目にはただのボロビルなのだけれど――、ここには勿論空調装置が付いている。と言うか、空調装置が動いている。外では体温と同じ程度の気温なのだけれど、壁に掛けられた水銀の温度計が僕に示すことにはここの温度は二十六度。外気温との差は約十度で少し肌寒いほどなのだけれど、彼女には寒いくらいがちょうど良いらしい。剥き出しの二の腕や臍、短いスカートから伸びた脚と随分薄着なのだけれど、風邪は大丈夫かな。少し心配になって、僕は拭いていたガラスコップを置き、目の前で伸びている彼女の肩を突付く。

 ぴくん、と身体を反応させ、だけどひどく緩慢に顔を上げた彼女は、首を傾げて僕を見上げた。


「何よぉタイムー……あんたも涼みなさい、ここ丁度良いわよー? すっごく涼しい。冷房の直撃は避けなさいね、お腹壊しちゃうんだから」


 邪魔にならないようかつ暑苦しくないよう、リボンでぐるぐる巻きにして纏められた金髪を揺らし、彼女が告げる。僕は苦笑して、カウンター越しに自分の上着を彼女に渡した。きょとん、と金色の目を丸めて見せる彼女――ラベルちゃんの眼差しに、僕は苦笑を深くする。


「ラベルちゃんこそ、お腹壊すよ。肩が冷えちゃうから、僕の上着つかって?」

「それじゃーあんたが風邪引くでしょ。ただでさえ寒いの苦手のくせに」

「それは職業病って言うか、いつも廃熱の直撃受けてるから暑いのに慣れてるだけで……」

「二人とも、もっと根本的な解決があるじゃありませんか」


 きゅきゅ、と、カウンターでグラスを拭き続けていたノアさんが僕達に声を掛ける。澄んだ涼しいボーイソプラノの声と裏腹に、彼の身体は少し小柄ながらも成人男性の体格。清潔そうな白いシャツに、脚のラインをぴったりと表す黒いパンツ。少しカールの掛かった黒髪、前髪。彼は表面的な性格通りに柔和な微笑で、僕達を見ている。


「もう少し冷房の温度を上げれば良いんですよ。ここは少し地球環境に悪いほど冷房が効いています。私だって肌寒い。資本主義は多数決ですから、構いませんよね?」


 にっこり笑って空調装置のリモコンを取る彼に、ラベルちゃんは少し口唇を尖らせながらも、結局肩を竦め両手を上げて降参のポーズ。了承した、ということだろう。ピッという電子音がして、空調の音が少し静まった。彼女は物足りなそうにするけれど、僕にはまだあまり気温の変化は感じ取れない。まあ、あまり敏感な方じゃないしね。


「人様のお宅で冷房のお零れに預かってるんだから、このぐらいは遠慮するわよぉー……うー」

「お零れどころか今日は定休日ですよ? 二人の為に点けているんです」

「……えと、ごめんなさい、ノアさん」

「タイム君は良いんですよ、こうやってグラスを拭く手伝いもして下さいますしね」

「あたしにやれっての? 割るわよ」

「あなたの不器用さは痛いほどに判っていますから……」

「ふーんだ。大体自分のとこの従業員に手伝わせなさいよ、玄は書庫として黒やヴァルはどこに行ったの? 『定休日』なんでしょ?」

「少々野暮用に――」


 と。

 ノアさんが言いかけたところで、僕のズボンのポケットに入っていた端末がピピピピピッと耳障りな電子音を立てた。


 一瞬で二人の眼光が鋭くなる。僕はポケットのボタンを外し、飛び出さないようにしていた黒いポケコンを取り出した。ペン先を液晶に当てると、隣のビル――僕とラベルちゃんのビルの玄関が映し出される。僕はさらにカメラポイントをいくつか変え、周囲を確認した。が、何も引っ掛かるものは映らない。ただ一人、黒いスーツに黒い帽子というこの夏には明らかに似つかわしくないあからさまな変装をし、杖で軽く床を叩いている中肉中背の中年男性以外には。

 僕はラベルちゃんに笑い掛ける。


「お客さんだよ、『社長』」

「ちぇ、まぁたあの蒸し暑いビルに戻らなきゃなのー?」

「三ヶ月も電気代未納しているからでしょう……空調装置ぐらい自家発電で動かせそうですが」

「自家発電はいざと言うときだけって決めてるもん。まあ、依頼人だったら取り敢えず前金貰って電気通さなきゃね」


 スツールから飛び降りて立ち上がるラベルちゃんに置いていかれないよう、僕もカウンターに手を付いてそこを飛び越える。ノアさんを振り向くと、ひらひら手を振って僕達を送り出す姿勢だった。すたすたと歩いて行ってしまうラベルちゃんの肩には、僕が渡した上着が引っ掛かっている。ぺこり、ノアさんに頭を下げてから、僕はラベルちゃんの後を追ってカフェを後にした。

「行ってらっしゃい、マスター」


「外にいたとは……こちらのビルは囮、なのかな?」

「いえ、この通り空調が壊れていて暑いものですから避難していただけです。侵入者用のセキュリティが動いたものですからこちらに戻りまして――お茶も何も出ませんが、どうぞ掛けて下さいな、依頼人」

「いや、結構」

 真っ黒なサングラスでその顔の半分を隠した彼は、杖を持っているのとは逆の手で自分の口ひげをしきりに撫でていた。随分神経質な人なのかな? 僕は応接室の戸棚の隣、壁に背を付けて二人のやり取りを聞いている。僕はあまり学が無いし口達者でもないから、依頼人との交渉は、すべてラベルちゃん任せだ。まあ、彼女がこの会社――タイムトラベルカンパニーの社長であるのだから、それは当たり前のことなのかもしれないけれど。


 タイムトラベルカンパニー。時間旅行公社。

 一般には公社とは学の無い者の付けた名ばかりのものでしかないと思われているけれど。

 このカンパニーは確かに国によって運営されているし、僕達は公務員だ。

 ただし。

 ラベルちゃんの王国、なのだけれどね。


「タイムトラベルカンパニー……貧民街の廃ビルに構えられた名ばかりの公社。名前の通り時間旅行を斡旋する。そのシステムは完全なる企業秘密、その情報のすべてはシークレット。誰によって管理されているのか、誰によって運営されているのか、誰によって設立されたものか、すべてが謎ながらも、この数年は随分と裏界隈で荒稼ぎをしているとのこと。こちらの情報に間違いはあるかな」

 低い声は少しだけ威圧的な響きを持っていた。多分子供なら思わず後退りぐらいしまうだろうな、と思う。だけど僕は壁に背中を付いているし、ラベルちゃんは一人ソファーに座っている。ぬるい麦茶に口をつけて、不味そうな顔を見せる。そしてほんの少しだけ視線を上げて彼を見る。


 中年男性とティーンの女の子の見詰め合い。なんだか変な空間だなあ。しかも緊張しているのは大人のほうで、ポーカーフェイスから滲み出るぐらいの余裕の表情を浮かべているのが子供なんだから、またちぐはぐでジグザグな感じだ。なんとなく圧迫感のある空気に、僕は自分の手首に巻いた端末をいじる。充電がそろそろ持たないのか、バッテリーランプがレッドゾーンだった。まあ、いくらなんでも三ヶ月放置だとそろそろ切れちゃうだろうね。


「間違ってるも何もそこまでは意図的に流している情報ですから、そこで間違われてるとお引取り願うしかないんですよね。で、言いたいことは単刀直入にどうぞ? 時間は無限じゃありませんよ、私達にとっても。まずはお名前からですね? 依頼人、自分の名を名乗ることは大切ですよ」


 ラベルちゃんの無機質な声に、彼はぐっと押し黙る。


「ちなみに礼儀として先に名乗っておきますと、私はラベル。このカンパニーの創始者で社長で管理者で責任者で、まあ簡単に言うと一番偉い人間です。満足ですか? あなたの依頼を聞くのは、私のような子供では不満ですか?」


 社長モードのラベルちゃんは基本的に冷静沈着、相手の神経を逆撫でることに自分の舌棒のすべてを捧げる。

 まあそれと言うのも。


「違うのでしたらあなたもその下手な変装を解いていただけますか、依頼人」


 彼女の言葉に彼は一瞬身体をこわばらせた。

 それから手に持っていた白い杖で、コツコツと床を叩く。苛立っているときの癖なのだろう、コツコツコツコツ、その音が数十回繰り返されたところで、彼はようやく踏ん切りが付いたように――しきりに弄っていた口ひげを、ベリッと剥ぎ取った。

 帽子を脱ぎ、黒い上着を脱ぎ、黒いサングラスを外し、彼はどっかりとラベルちゃんの向かいのソファーに腰を下ろす。大きな溜息を吐いて苦笑して見せた顔は、中々柔和な様子だった。一見して良い人そうな、壮年の男性。頭髪はまばらなグレイが混じっている。暑かったのだろう、白いシャツは汗の染みで所々が透けてしまっていた。まあ、上着一枚脱いだって、この部屋の暑さは変わらないだろうけれど。


「慣れないことはするものではないようですな。お嬢さんに見抜かれてしまうような下手な変装、でしたか」

「いえ、単に私が場慣れしているだけだと思いますよ。それと自己紹介はもう結構です――ミスター・スート」

「それは、重畳です」


 苦笑した彼は、だけどサングラスをしているときには見えなかった陰鬱そうな表情がその基本にあるようだった。ラベルちゃんは相変わらずのポーカーフェイス。僕は残り少ないバッテリーで、ラベルちゃんの言葉――『スート氏』についてのデータを、リストコンピューターで検索する。幸いにもそれは検索で一番上にヒットした。つまり、スートさんの中で一番著名な人物だった。そしてこの町で一番に、著名な人物でもあった。

 ハウエル・スート、四十八歳。二十代で青年実業家としての成功を収める。貨物輸送会社を四つ経営、町に主要都市へ続く路線を集中させたことによる地域の活性化や、産業の振興への貢献度は高い。ただし線路用地の買収により多数の住人を貧民街に送ってもいるので、その人気は高くも無く低くも無く。屋敷は町の中心部の高級住宅街でも一番奥、規模は約百二十二坪。家族構成は妻と娘と息子。息子は工場の一つを任せられ、その資質を磨いている真っ最中。娘は三年前より行方不明――そこまで読み、もう一度その写真を見たところで、会話の続きが始まった。


「お嬢さん、いや社長。私がここに来るのに変装してきた理由はもうお判りのようですね、私はこの貧民街にはあまり表立って立ち入ることは出来ない。ここの住人たちは、私が追い込んだようなものですからね」

「事実ではないと?」

「……いえ、事実です。私が彼らを追い込みました。今にして思えば情けない、若造だった私の最大の過ち――です」

「まあそんなことはどうでも良いですが。それで、変装してまでこの貧民街を訪ねたその理由を、あなたの依頼をお聞かせ頂けますか? ミスター・クライアント」


 突っ込みそしてすぐに離れる、彼女の間合いの取り方の奇妙さにスート氏は随分困惑させられているようだった。まあ、ラベルちゃんのやり方だしね。そうやってぐらぐらと平常心を揺るがす。今回は相手が一人だから、丸め込みやすいだろうな。

 取り出したハンカチで額を拭き、脚の間に挟んだ杖を弄りながら、氏は言い辛そうに、決心が着かないようにそわそわとしている。もしかしてお手洗いなのかな。水洗も流れないからそれは困るのだけれど。


「過去を見せて欲しい、のです」

「まあそれが仕事ですけれど。もっと具体的にお願いします」

「娘の過去を」


 挙動不審にさまよわせていた視線を、彼は上げた。

 ラベルちゃんをまっすぐに見た。


「ラウディア、私の娘が行方知れずになったのは三年前の四月九日です。場所は私の屋敷、駅で見掛けたという話も聞いていますが、この町は殆どの路線が集まっているためにどこに向かったのかは判りません。娘の過去を見ることが出来れば、どこに居るのかが判るかもしれない。私は――この三年間手を尽くして娘を探していました、娘を、どうか娘を探し出して欲しいのです、そのために娘の過去を、あの日を見せていただきたい。金に糸目は着けません、どうか、社長――」


 きらん。

 最後の言葉に、ラベルちゃんの目が光った。

 それは娘を案じる父親に向けるべき視線では、絶対になかった。

 僕は深く深くため息をつく。

 ――自分から罠に嵌まるとは、中々に珍しいクライアントだ。


 バサッ、とラベルちゃんが机の上に書類を広げる。

「こちらが契約書、保険のはこっちです。それと誓約書、取り敢えずこの三枚には確実にサインをお願い致しますね。それからこっちの小切手にもサインお願いします、口座番号もお願いしますね」

「え? あ、あの、受けて頂けるので? こちらは審査が厳しいと伺っていたのですが」

「何を仰います依頼人、娘を思うその気持ち、私だって人の子なのですから判らないはずがございますまい。取り敢えず書類にサインをして頂ければ契約は完了、一週間以内にシステムを整備し、あなたを三年前に連れていって差し上げましょうではありませんか!」

「ああ――社長、有難い! まったく、本当に有難い……!」

「ええ、取り敢えず前金で口座に三千万の振込みをお願いします」

「判りました、この三枚と小切手ですね、ペンは――ああ、ありがとうございます。……こちらで、よろしいですか?」

「ええ、……契約完了ですわ、ミスター・クライアント」


 にやり。

 ラベルちゃんが笑う。

 これが理由。

 ラベルちゃんが依頼人の平常心を掻き乱すのは。

 こうやって前金を吹っ掛けるため、なんだ。


「……なんか、波瀾の予感がする……かも」


 後でノアさんに色々頼んでおこう。

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