第3話

「うー、いちちちちィっ……」

「バカみたいにからかうからですよ、タロット? そういうモノを自業自得と言うんです、かの聖書の中でも――」

「わーった、解ったってば! ビズはどうして毎回毎回聖句を説きたがるんだぁ? お前、元はと言えばそれの所為で死んだようなもんじゃねーか」

「それは……違いますよ。情報に疎かった私の、それこそ自業自得だったんです。それに聖句は聖水を作るのにも使いますからね。神と子の言葉は大切なものです」

 けっ、清廉潔白なご精神ですこと。

 ……って言ってますね、タロットの目は。それでも一時期よりは大分私に対する態度は軟化してくれたんですよねぇ、最初はなんと言いますか、『モロ』に『人間如きが』っていう態度でしか接してくれませんでしたから。ヴァニラとは付き合いもすでに長かったようで、用心棒気取りだったのかもしれませんねえ。あれから七十年ぐらい経ちますが、今となってはすっかり仲間と言うか友人をしているのだから、人間と妖怪なんてのは興味深い組み合わせです。

 ひょい、と、教壇の上にある聖書を取り上げる。この聖書ももう百年ぐらいつかってますからね、すっかりボロボロになってしまっているようですが……どうにも、捨てる気になれないのは何故なんでしょう。それを書架に仕舞い、火掻き棒によって頭に小さなヤケドをつくったタロットの手当てをするため引き出しの中にある救急セットを取り出す。

 タロットとヴァニラは生粋のモンスターさんらしいのですが、私だけは人間から中途半端に進化――なんでしょーかねぇ……むしろ変化――してしまったモノですから。だからこういう場所に無理矢理閉じ込められて、誰もやりたがらない仕事を押しつけられて――おっと、こんな暗いことを考えていてはいけませんね。長い人生楽天主義が一番です。仕事も慣れたし、二人にも慣れた。それでもこの七十年、人間のお客さんが来たのなんて初めてですが。

 神はたまに訪れる事もあるが、ヴァニラばかりが小さな子供のように懐く。頼むよ、と私はタロットには言われていますが、一体何を頼まれているのか疑問に思ったことはなくもない。獏の仕事の事か。ヴァニラの世話か。一体どっちを、頼まれているのか。ヒステリーを起こして城を壊さないようにして欲しいのか。暇は劇薬である。不変の日々は余計に。私がやってきた時だって、退屈そうにしていたものなのに、どう対処したらいいと言うものなのか。

「だってよ、ビズ? 見ただろ、ヴァニラの顔」

「……そうですね」

 不変の日常に、代わり映えのしない仕事に、生きることにさえ退屈を覚えてしまっていた獏尉。この城の主ではあっても、けして自由を手にする事は出来ないある種の補囚者。どこにも行けない。どこにも行かない。ここにしかいられない。ここにしか居場所がない。

 他の生き方を知らない。だからこそ、タロットはヴァニラを心配する。いつか壊れてしまう日が来るかもしれないから。その為には道化て感情に波を立ててやっている。たとえそれがハゲを作る原因になったとしても、彼は彼女を離さない。隣にいることを止めたりしない。どんな目に遭っても。

 私は聖水の瓶を撫でる。

 なるほど、女性の前ではすっかり道化た軟派ぶりを見せているようでも……案外硬派なんですねぇ、タロットは。

「なに笑ってんだよビズ? 俺は野郎の笑顔に興味はナイぜ……って、あいだだだだだだっ! しょ、消毒が染みるってばっ!」

「この分なら明日には治ってるでしょうね……いいですねぇ、丈夫な身体。軟弱な私には羨ましい限りです。ところで、小さなレディとヴァニラはどうしたんです?」

「あ? ああ、クリスに城の中見せて来るって。ドアしかねーのにそんなん見せてどうすんのかね。下手なドア開けたら悪夢が溢れ出して来ちまうったのに。まあ、次に神さんが来た時に相談するしかないだろ? あの子自身に心当たりがないって言うんだから」

「……それを鵜呑みにして……いいものでしょうかねぇ」

「なんだよ? 引っ掛かるじゃねーか」

 タロットの言葉に私はふむと考えを纏める仕種をする。引っ掛かる。たしかにそうだろう。悪夢に対して並々ならぬ関心を抱いていたように見える彼女。自分と同じ金髪巻き毛が妹のようで可愛いのだろうヴァニラは、きっと多分気付かなかった。妹。獏にはもう、そんなものはいない。

 とは言え私にも確信の持てる事ではないのが本当の所だ。私は人間『だった』者。この城での長寿以外に特別な力を持ってはいない。タロットのような器用さやヴァニラのような獏の力は持っていないのだ。それでも直感的に、『引っ掛かる』。便利な能力の代わりのようなそれに、私はあまり落ち着いていられない。

 とは言え本当にそんな事を考えているとは考えられない――証拠がない。直感だけで動くことは出来ないのだ。それはタブーである。この城で一番地位が低いとも高いともいえる私のすることは、三人のバランスを崩すことになってしまう。それは良くない。ヴァニラが本気になったら、『獏尉』としての力を使ったら、止められるのは私達だけだ。達。私一人では、太刀打ちできない。だけどこの直感は、放っておけない。

「彼女には少々疑問が残りますよ。悪夢の話を聞いている時の彼女の目には……何か企んでいるような光がありましたからね。私の人を見る目は確かなつもりですよ、初恋の人の名に賭けてもいいです」

「賭けるな」

 小さなパンスネを中指で上げて、タロットは考えこむような態度をを示す。……一見ただのナンパ男の様ではありますが、それでいて中々頭がいいようですね。まぁ、バカだったらこんな所に配属されないのでしょうが。いえ、ある意味馬鹿だったからこそ、秀でた一芸で街を騒がせていたからこそ、ここに、ヴァニラには丁度良いと判断されたのでしょうが。確かに彼の技はヴァニラにうってつけだ。そして神父である自分の能力も、ヴァニラにはうってつけである。

 能力と言うほどでもないが――私には、聖水が作れるのだ。『もしも』の事があったら、それは随分便利な武器になる。もちろんタロットのハサミだって、その為に腰のシザーケースに収められているのだが。

「ちょいとばかり……気をつけてみるか」

「そうですね、どうやらヴァニラは彼女の事が気に入ってしまっている様ですから」

「べ、別にあいつに気を遣うとか傷つかないようにしてやろうとか思ってるわけじゃない! 悩める未来のレディが心配なだけだ、余計な気を回すんじゃねーぞビズ!」

「あはは、そういう事ですか」

「だからっ!」

「語るに落ちていますよタロット、はい治療は終りです。ハゲが残ったらご自分の能力で片付ける事をオススメしますよ」

「ハゲハゲ言うなっつーの! お前もハゲにするぞビズ……俺様はその昔、大江戸城下の人々を恐怖に陥れた髪切り妖怪だからな。お前のその黒くて長い髪は実に俺の好みだ。あの頃を思い出す」

「思い出さないで下さい。そうですねぇ、あの時代の日本では髪を切られた女性は恥ずかしくて外を歩けないものだったと聞きますし、お侍さんも髷を結ぶ事が出来なくて大変だったでしょう。あなたはある意味、もっとも庶民的に恐れられたんでしょうね」

 くすくす笑うと褒められたのかと思ったのか、おうよとばかりにぱんっとシザーケースを叩くタロット。本当まったく、私にとってこの城は面白い場所だ。暇を持て余すこともない。暇なら祈れば良い。何事もありませんようにと、日々の静謐を願う。もっともそんな事、叶ったことはない。ヴァニラはいつも暇つぶしを探しているし、それを密かに買って出るのがタロットだ。

「まぁな。あの時代ではこの俺のハイセンスなヘアーカットに付いていけなかったのだよ……フッ、才能とは罪なものだぜ」

「あはは、罪ですかぁ」

「……バカにしてんなビズ」

「まさか今更そんなこと」

「おい、まだまだ引っ掛かるぞ今の言い方。っと……そろそろ時間か、俺はちょっと行ってくるぜ」

「行ってらっしゃい、お気をつけて」

「おーう」

 ヒラヒラと手を振り、タロットは礼拝堂を出ていく。雷鳴にステンドグラスが色とりどりの影を落とすのを見て、私は溜息をつく。

 なんというか、ですね……嵐の夜は苦手ですね、こんな日にはイヤな事を思い出してしまいますから。自分が死んだ夜を思い出してしまいますから……。





 軍靴の音に、周りのあらゆるものは連れて行かれてしまった。

 心も身体もほんの僅かな自由でさえも、黒く続く足音が連れて行ってしまった。

 狂気としか言えないようなそれは、さながら害獣を狩る狩人の狂宴のように繰り広げられる。人が人を狩ると言う、おぞましい行動の応酬が繰り広げられたあの夜。

 死んでいった多くの同胞達よ。私はここにいます。

 旗を掲げては演説を繰り広げていた彼らの夢はなんだったのでしょうね。絶えず誰かを傷つけ、一日も休む事無く残虐に人を殺していた彼らは、一体どんな夢の中にどんな安らぎを持っていたのでしょう?

 巡礼の旅から帰って来た私が見たのは、戦火と軍隊。逃げ惑う人々。かつての同志達はみな、暗く狭い箱の中へと詰め込まれる。

 呆然と町を見る私の背中に、一発の銃弾――……。

 ……迷い込んだお嬢さん。良い夢も悪い夢もあるモノです。

 ここには悪い夢を閉じ込めています。たくさん、たくさん閉じ込めています。

 悪夢に毒される前にお帰りなさい。生きているからには良い夢を見なさい。

 ここに留まるのは、良い夢を見終ってからにしておきなさい……。




 私達はもう夢を見ることも出来ないのですから。




「で、ここが礼拝堂よ。基本的に誰でもどんな宗門でも受け入れちゃう寛大な神父様の管理・運営の下で、城内でも不動の位置を築いてるってワケ。でしょー、ビズ?」

 タロットと入れ違いに入って来たのは、ヴァニラと小さなレディだった。きょろきょろ物珍し気に辺りを見回すクリスは、ヴァニラと手を繋いで雷鳴に閃くステンドグラスを見ている。ほわ、と少し慄いたようだが、聖母子像のそれは怖くも無いだろう。他には四大天使が場を囲むように配されている。

 肩を竦めて私はヴァニラのニコニコした顔に言葉を返した。幾分素直ではない言葉を。まあ、靴を踏まれるのには、慣れませんが。ぽてぽて祭壇にいる私は、その下に常に貯めている聖水を隠すように立つ。

「はいはい、そうですね。それというのも私が来た時に、お優しい城主様がわざわざ立派な礼拝堂を建てて下さったお陰ですよ。『ここに籠ってろ人間風情が』と言う意味を込めて」

「ヴァニラちゃんが意地悪で建てたの?」

 何時の間にか『ヴァニラさん』から『ヴァニラちゃん』になってますね。意外にもヴァニラは子供に懐かれるタイプなんでしょうか……? 精神年齢が近いとか。それはあるのかもしれないか。何と言っても、ちょっとした冗談で人の頭に火掻き棒を当てるような堪え性の無さですから。

 家族をろくに知らないからこそ憧れる。私やタロットはせいぜい同居人だ。友人とは呼べるかもしれないが、家族とは一線を画している。だから妹のような少女といるのが楽しい。実年齢であれば老婆と幼児以上の差があるだろうが、はたから見ると二人は確かに姉妹めいていた。ヴァニラの赤い目以外は。金髪、巻き毛、長い髪。手を繋いでいる姿は可愛らしい。

「そ、神父がくるってゆーからわざわざ建ててあげたのっ。あたしは基本的に優しい城主様だからねーっ…全然意地悪なんかしてないわよ。今ではタロットとビズとあたしで三人ここで過ごす時間が一番多いぐらいなんだから。ビズの要れる紅茶ってば美味しいのよ。あり? そーいや、タロット見ないね?」

「お仕事ですよ」

「ああ、もうそんな時間か」

「お仕事? 夢を選ぶお仕事のこと?」

「うん、そうよ」

「お仕事は夢を見る夜だけで良いんじゃないの?」

「そうよ。つまり、一日中ね」

「……どうして? 一日中夜なんて……朝もお昼もちゃんとあるのに」

「地球は丸いからね。一日のどこを取っても、どこかで夜を迎えてはいるのよ……だからあたし達には、朝も昼も夜も厳密にはないの。あるのはティータイムにしかならない休憩ぐらいっか、あはは。それでも随分ヒマしちゃってるけどさ」

「、? よく……わかんない」

「あとでビズが説明してくれるって」

「あはははは、決定ですかヴァニラ」

「あはははは、その通りよビズ」

 青い夜が回る。時間は過ぎ行く。

 眠りも目覚めもない世界で、私達は何を思っているのでしょうかね。

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