第43話 己の作品を見直す目を育てたい
プライベートな事情でしばしカクヨムを離れましたが、偶然の重なりでなんとか「読む読む修行」だけは継続することが叶い、これも天の思し召しとばかりに、『吾輩は猫である』を昨夜完読しました。修行を始めてちょうど1か月と2日目でした。
「読む修行」の成果は今すぐに表出するものではなく、この先の楽しみにとっておくつもりですが、音読を続けたことで一つ明確になったのは、「読者が読むリズム」を意識できるようになったことです。
これまで私にとって「書く」ことは、脳裏に流れ続ける言葉を天の星を掴むとるかのように、ひょいひょいと素手で取っては打ち込み取っては打ち込み、そしてひとまとめになったら読み返して修正する、という程度の作業でしかなかったと思い至りました。
構想を練る、プロットを考える、という一連の小説を書く流れを無視してきた訳ではありませんし、簡単な人物相関図くらいはメモりますが、どちらかと言えば私は勝手に脳内でドラマが展開されてしまうタイプなので、それを記憶が新しいうちに必死で記録に落として、後は微調整というやり方が主でした。
しかし、少し冷静になってみれば、そんなんで良いものが書けるはずがないですよね。お恥ずかしい。
だからこその修行なのですが、師匠と仰ぐ久保田弥代氏がなぜ「もっと読め、古典的な良作を出来る限り読め」と仰ったのか、1か月を経て徐々に分かってきました。
頭だけでいろいろ考えて書くことに慣れ切っていましたが、身体全体で言葉や小説というものを感じ取れるような、より感覚的なものを育てる期間というのが不可欠であり、いまの私はサナギの時なのだと思えるようになりました。
現在、今春に連載していた小説を非公開にして書き直おそうとしていますが、ずっと頓挫していました。それは、どう直せば良いのか分からない、途方に暮れて時間ばかりが過ぎる、というのが正直なところでした。直しても直しても良くなったと思えないのです。
それでも、取りあえずの修正は掛けて自分なりの「最善」には仕上げてあったのですが、昨夜、2週間ぶりにその校正原稿を読み返してみて、驚きました。不味いところだらけで目を覆いたくなったのです。
辛い現実ですが、しかしそれはつまり、私自身の「作品を見る目」が、「読む読む修行」の御蔭で育ったのだと、受け止めようと思います。
自作を冷静な目で見返すことができるのは、プロの条件の一つだと思います。
(ここで言うプロとは以前にもお伝えしたように、「伝えたい内容を的確に読者に届け、受け取ってもらえるものを書ける筆力」を、私の中では意味します)
通訳時代、自分の音声を必ず聞き返して修行しろと口を酸っぱくして言われ、それを怠る人間は自然淘汰される現実も目の当たりにしてきました。
執筆においてもそれは全く同じことだと思います。
私はまだ、己の作品のマズさしか気付けません。どう直せば良いのか、テクニックも何も身に付いて居ないレベルで、まだまだこれからです。
けれども、プロに近付いたら、こんな風に冷静に、書き手として「読み手の目も意識しながら」分析して前に進めるようになるのか、という素晴らしいエッセイを先ほど見つけたので記しておきます。
『カクヨムでヨミカキ。』作者 久保田弥代 氏
【NEW】 ( iii-3 )ひとり反省会:みひらき物語
https://kakuyomu.jp/works/1177354054880619061/episodes/1177354054881909721
私が自作をここまでの目で見られるようになる日は、早くても「読む読む修行」200冊突破の頃だろうと思いますが、こうして目指す先に光を見せて下さる方に出会えた幸運に感謝して、今日も笑顔で修行に励みたいと思います。
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