7.幸せな結末
稲葉神社の境内を歩き回った木崎は荒い呼吸を繰り返し、拝殿横にある桜の木の下に腰を下ろす。さくらを呼び続けた喉はからからに乾いており、咳き込めば小さな痛みが走った。
「――さくら」
万感の思いでさくらを呼んだ刹那、視界の隅を光と見紛う白い物体が横切った。
拝殿の奥にある本殿から飛び出して来たそれは木崎の足先で止まり、二本の後ろ足で立ち上がる。
月明かりのなか浮かび上がる小さなハツカネズミは赤い目を瞬き、鼻をひくひくと動かしている。その仕草や愛郷のある顔立ちはさくらに通じる。
「さくら!」
名を呼べば、返事をするかのように「キィッ」と一声鳴いた。手をのばそうとした木崎はしかし、自分の手を見て
中途半端にのばした木崎の手の先に、さくらのピンク色の前足が重なる。何か伝えようとさくらはしきりに鳴くが、その言葉を木崎は理解することが出来ない。それがひどくもどかしい。
「……やっと、思い出したよ」
木崎はそっとさくらの小さな頭を撫で、境内の
「三年前、怪我の手当てをしたハツカネズミがさくらだったんだね」
「キィ!」
「人間の姿になって恩返しに来てくれるなんて、夢にも思わなかった」
「キーィ……」
どことなく嬉しそうにさくらが肩を竦める。さくらには木崎の言葉が伝わっているのだろう。
「店を手伝ってくれてありがとう。さくらが来てくれて助かったし、すごく楽しかったよ」
心なし身を寄せてくるさくらに目尻を和ませつつ、木崎は一つ深呼吸する。
「でも君がいなくなって、隙間風が吹くように寂しくなった。……今さら、自分勝手な願いだと思うけれど。一緒に暮らさないか?」
真っ直ぐ木崎を見上げていたさくらの赤い目が、不意に揺らぐ。その変化に気付きながらも木崎は言葉を重ねる。
「どんな姿でもさくらはさくらだ。側にいて欲しい」
「……キー」と弱弱しく鳴いたさくらは木崎の手から離れ、足元へ視線を落とす。
しばらく逡巡していたさくらはやがて、ふるふると小さな頭を横に振り一歩後退った。
「さくら……」
言い募ろうとする木崎を遮るよう、弱弱しい鳴き声が夜気を伝う。
「キィ、キィー……キーィ……」
しきりに鳴いているさくらが何かを訴えていることは木崎にも理解出来る。だがその何かまでは察せない。察したくはない。顔を歪めた木崎が同行を乞うて手をのばすも、さくらはひょいと避けてしまう。しまいには追いすがる指先を齧られた。
「――一緒に来ては、くれないんだね」
やっとのことで搾り出した問いかけに、小さな頷きが返って来る。それは木崎が欲していた答えとは真逆の結果だった。
ゆっくり息を吐いた木崎は強く目を瞑る。そして再び月明かりに照らされた世界を見た時、本殿の下に大小様々な白い塊を知覚した。丸い柱の影からこちらを窺っているのは数匹のハツカネズミだ。おそらくあのなかに三年前木崎が手当てをしたさくらの祖母もいるのだろう。
「キィィ……」
申し訳なさそうに身を丸めているさくらの様子に、痛みを堪え苦笑した木崎は「いいんだ」とさくらに顔を寄せる。
本当は良い訳なんてない、諦めなどつく訳がない。いっそ強引に連れ帰りたいと思えども、幾らそう思ったところでさくらを想えば実行には移せない。
「……待っているよ。さくらがまた私たちの所へ来てくれるのを。……だからどうか、元気で」
人差し指の先でさくらの頭を撫でる木崎の笑みは、ひどく
名残を惜しみつつ手を引いた木崎はおもむろに立ち上がり、懐中電灯の明かりも点けず一人夜道を戻っていく。
月影に浮かび上がる木崎の背中が鳥居を潜り、見えなくなってなお。さくらはずっとその場に立ち続けていた。
---+---+---+---
冬が過ぎ春が訪れ、季節はもう一回りした。
今年の桜は春を待ちわびたかのように早くつぼみが膨らんだため、稲葉神社の桜もあと数日で開花を迎えるだろう。草むしりの手を止め頭上の桜の枝を仰いでいた木崎は「先生も寂しいだろうねぇ」という源さんの声で我に返る。
「大学の休みが終わって透はアパートへ帰っちまったんだろ? 押しかけ女房も去年の始め頃に来たきりで忙しいそうじゃねぇか。どうだ、見合いでもするか?」
源さんは「良い娘がいんだよ」と白い歯を見せて笑う。隣町の教師の娘が云々と語りだす源さんの話を、木崎は苦笑いで聞き流していた。
「おじさん、白いネズミ見なかった?」
ふと聞こえてきた子供の声にはっとして振り返る。熊手を手にした斉藤さんの傍らでは、数人の子供たちが賽銭箱の裏や拝殿の下を覗きこんでいた。
「白いネズミ? ああ、葉子ちゃんが描いた"大黒様とハツカネズミ"の絵本か」
斉藤さんは佐野さんの所の景くんが掲げた絵本を見て「懐かしいな」と目元を和ませる。
大黒様を奉る稲葉神社の眷属は狛犬ではなく狛ネズミで、商店街のキャラクターも白いネズミだ。豊穣や商売繁盛をもたらすハツカネズミは昔からこの土地で親しまれており、逸話も多く残っている。
それを
「残念ながら俺は見てねぇなぁ」
お茶のペットボトルを開けようとした斉藤さんは切羽詰ったふうな顔で近付いてくる木崎に気付くと、訝しみつつ水を向けた。
「先生はどうだ? 見たことあるか?」
「……ええ。小さくて可愛らしいハツカネズミを、見たことがあります」
「ほんとう!?」
興奮した子供たちはいっせいに身を乗り出してくる。小さな手や袖口を土で汚しているその姿に、木崎はさくらを探し回った夜の自分自身を思い出す。
あの別れから一年と二ヶ月弱――木崎は常に往来のなかにさくらの姿を探し、狭い路地や生垣の下にハツカネズミの姿を探したりもした。今日も町内会の行事で神社掃除をする傍ら、何度となく拝殿や本殿の下へ目を向けてしまっていた。
「ねぇどこにいたの?」
「ずるい! ぼくも見てみたい!」
服を引っ張ってくる子供たちに、木崎は苦笑いを返す。さくら恋しさについ話してしまったが、一度は封じたはずの情動がじわじわと表出し始めてしまった。会いたい気持ちが募り行くなか、
「木崎さんっ!」
弾むような少女の声が境内に響いた。瞬間、木崎は時間が止まったような錯覚を覚える。けれど本殿の方から玉砂利の上を駆けてくる足音は漸次近付いてきている。
木崎は祈るような思いで振り返り「木崎さぁぁぁん!!」「ぐ、はぁ!?」腹に強烈なタックルを受け、石畳の参道の上に倒れこんだ。強かに打ちつけた背中の痛みで息が詰まる。
「あ、さくらちゃんだ!」
「さくらー!」
子供たちの声を聞いて、掃除をしていた人たちが集まってくる。そのさなか、木崎は自分の胸の上に乗っている温もり――輝かんばかりの白い髪とルビーのような赤い目をした少女へ目をやる。つい先ほど振り返った一瞬に見えたたなびく長い髪と翻るスカートは、幻覚ではないようだった。
「……お久しぶりです、木崎さん」
目を潤ませているさくらは、泣き笑いのような表情をゆるゆると微笑みに変えた。人懐っこい笑顔は木崎の記憶に焼きついたさくらと寸分違わない。込み上げる想いのままさくらを抱きしめようとして、
「久しぶりだな、さくら! ちっと見ないうちに押しかけ女房から押し倒し女房に進化したのか? ん?」
「あ、源さん! お久しぶりです」
にやにや顔の源さんに声をかけられたさくらは身体を起こし、木崎に馬乗りになったまま斉藤さんや久保さんたちと和気藹々と会話を始めてしまう。
すっかり椅子代わりになっている木崎は、複雑な思いで宙に浮いたままの両手を下ろす。
――戻ってきて、くれたのか……?
笑顔で話すさくらに、あの日のような憂いはないように思う。結婚の話はどうなったのか、あの夜何を伝えたかったのか。聞きたい事は山ほどあるが、またこうしてさくらと会えた嬉しさは言葉では表しきれない。
「そうだ、木崎さん。ちゃんと向こうのお家の方と話し合いをして結婚の話は白紙になったので、心置きなく木崎さんの所へ通えるようになりました!」
「なんださくら、お前婚約者いたのか!?」
「はい。母がすごく乗り気だったので説得するのに苦労しました」
「おいおい木崎センセイ、まさかの略奪愛か?」
「あらまあ。二人がそんな関係だったなんて、わたし知らなかったわ」
好き勝手盛り上がる商店街の人たちの姿に、木崎の口元は盛大に引き攣る。ふと目があった源さんが不恰好なウィンクと共に立てた親指をぐっと押し出してきたため、眩暈すら覚えた。
「――でも大黒様との約束で、お仕事を手伝わないとこの姿で木崎さんの所へ行けないんです」
そう言って遠慮がちに見下ろしてくるさくらの声は、微かに震えていた。
「なので今まで通り、週に一度――木曜日に、また木崎さんの所にお邪魔してもいいですか?」
もちろんだと即答しかけた木崎の勢いは、周囲に居並ぶ商店街の人々の視線によって削がれる。
しばらくはどこへ行っても揶揄されるだろうことに密かに息を吐いた木崎は、おもむろに身体を起こす。そして不安そうにしているさくらに微笑みかけ、細い腰に手を回した。
「もちろん。君が戻ってきてくれて嬉しいよ。……おかえり、さくらさん」
木崎の言葉でさくらの表情はみるみる歪んで行き、ぼろぼろと大粒の涙を流し始める。
「っ、……ただいま、木崎さん!」
感極まったふうなさくらは木崎に抱きつき胸元へ顔を埋めた。小さく肩を跳ねさせるさくらをあやすよう、木崎は優しく背中を擦る。
さくらの吐息や体温は心地よく、自分の中でさくらがどれほどの比重を占めているか改めて思い知らされた――直後、「あ」と何かを感知したふうなさくらの声と同時に、木崎の上から重みが消えた。
「は? お、おい、さくらはどこ行った? 急に消えたぞ!?」
「私の目がおかしくなければ、さくらちゃんがハツカネズミになったように見えたのだけど」
戸惑う源さんや久保さんら大人とは反対に、子供たちは「さくらちゃんはネミーだったんだ!」と絵本に出てくるハツカネズミの名前をあげて大はしゃぎしている。
木崎もまた呆気に取られていたが、ふと頭の中に『ごめんなさい、大黒様に貰った力が尽きました』というさくらの声が響いた。腹の上でぺしゃりと四肢を広げているハツカネズミの姿に安堵の息を吐いたところで、はたと混沌の渦中で注目を浴びている事に気付く。
「木崎センセイ、こりゃあ一体どういう事だ?」
源さんの声はいつになく厳しい。しかしさくらを見る眼差しには可愛いものを見つけた女学生めいた熱を孕んでいる。その不気味さに堪えかねたのか、びくりと身体を揺らしたさくらは木崎のポロシャツの中へ入り込む。長い尻尾だけを外に出して。
「――少し長くなりますけど、聞いていただけますか」
久保さんや景くんら老若男女からも説明を乞う声を受け、木崎はさくらとの出会いや三年前の事、さくらをどう思っているのかなどを素直に、真摯に打ち明けた。
それから幾ばくかの時を経て――木曜日の木崎薬局には賑やかな日常が戻って来ていた。
終わり
押しかけ女房は恩返しちゅー 碧希レイン @Iolite
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