6.それぞれの決意

 さくらがいなくなって十日――一月も終わりを迎えた日。

 年末年始の忙しさがすっかり落ち着いた稲葉町商店街には、手を繋いだ親子連れや散歩中のご老人たちが行き来していた。


「透君は来月大学の入試受けるんだったわね。先生も何かと大変なんじゃありません?」

「夜遅くまで勉強しているみたいですけど、私は夜食を作るくらいしか出来ないので」

「獣医になりたいっつってたっけか? 透は昔っから動物好きだったからなぁ」


 しみじみ語る雑貨屋の斉藤さんにお茶を出しつつ、木崎は「ええ」と相槌を打つ。

 センター試験を終えた透は志望大学の試験に向け、自室で勉強を続けていた。薬局を継いでもらいたい気持ちが全くなかった訳ではないが、息子が選んだ夢を応援したい――そんな話をしながら久保さんの前にも湯飲みを置き、お土産にもらったシベリアをローテーブルに並べる。


「これ、さくらちゃん好きだったけど……」


 羊羹をカステラで挟んだお菓子を一つ手に取った久保さんは、寂しげに眉を下げる。


「まだ顔を見せてくれないままかしら?」

「そういや正月の時もさくらはいなかったな。元気にしてるか?」


 お茶を啜る斉藤さんからも問われ、木崎は言い淀む。遠縁の子と説明した以上行方を知らないとは言えないが、かといって真実を語る訳にもいかない。さくらもそれを望まないだろう。


「家の手伝いや宿題で忙しいみたいですよ。彼女は真面目だし、働き者ですから」


 曖昧な笑みを久保さんや斉藤さんは寂しさ故だと思ったらしく、同意するように深く頷いた。


「よく気が利く子だものね。さくらちゃんが来たら連絡下さる? またお話したいわ」

「俺もさくらが好きそうな菓子を模した雑貨が入ったから、見せてやろうと思ってんだ。よろしくな、先生」


 同じ事を既に、佐野さんたちにも言われていた。「わかりました」と頷いた木崎は空のお盆を手にカウンター内へ戻る。

 処方箋を眺めながらもついガラスの向こうへ目が向き、商店街を行き交う人々のなかに稲葉高校の制服を――さくらを探してしまう。

 さくらはいつも白く長い髪を揺らしながら小走りでやって来て、ガラス越しに木崎と目が合うとはにかんで手を振るう。そして「こんにちは、木崎さん!」と満面の笑みを見せてくれた。

 またひょっこり現れるのではないかとこの数日思い続けたが、ついぞ叶わぬまま。いたずらに時間だけが過ぎていく。



「――さくら、今頃どうしてんだろうな」


 親子二人こたつで向き合って遅い夕飯を摂っている際に、透がぽつりと呟いた。

 何とはなしにテレビのニュースを見ていた木崎は「そうだね……」と複雑な心持ちで相槌を打つ。

 この十日、透は何も聞いてこなかった。試験勉強が大詰めを迎えていると言っても、妹のようにさくらを可愛がっていたのだ、気にならない訳はなかっただろう。


――透にも、気をつかわせてしまったか……。


 木崎は苦い思いで自嘲を漏らし、ぽつぽつと話しを始める。


「たぶんもう、ここへは来ないと思う」


 ようやく腹を括ったものの、声は思うほど出なかった。

 驚いたような目を向けてくる透へ、木崎はさくらが結婚を控えていること、外出を快く思わない母親が迎えに来たことなど、差しさわりのない部分を掻い摘んで語った。

 じっと父親の話に耳を傾けていた透はしばしの黙考ののち、言い放つ。


「親父はそれでいいのかよ」


 もそもそと少量の白米を咀嚼していた木崎の胸に、その言葉はずくりとした重苦しい痛みを与えた。

 会話が途切れ静まり返った居間に響くアナウンサーたちの談笑は、どこか虚しい。


「……さくらさんたち家族の問題に、私が首を突っ込むべきじゃないよ」


 薬局周辺以外でさくらの目撃情報がないことからして、ハツカネズミの姿で通って来て人目のない所で人間の姿になっていたのだろう。商店街には犬や猫も多くいるうえ、身体の小さなハツカネズミには聳え立つ巨大な家々も人間も、恐怖の対象だったはずだ。

 三年前のトラウマが癒えていないさくらがどれほどの想いと覚悟で通って来てくれていたのかを思うと、気付かなかった自分への憤りと共に、胸の奥底が焼けるほどの激情に囚われる。

 しかし一方で、人間に関わらずハツカネズミとして生きた方がさくらにとっては幸せではないかという想いが過ぎる。薬局を訪れる人と楽しそうに話をし、店の前を通る子供たちともすぐに仲良くなったさくらならば、きっと良い妻、良い母になれるだろう。


「親父は難しく考えすぎるんだよ」


 苦笑混じりに言って、透は箸を置いた。


「さくらが来なくなってさ、味気なくなったんじゃねぇか? 木曜日だけじゃなく、毎日がさ。もっと単純に、寂しいって思わねぇの?」


 思う――心ではそう即答出来ても言葉には出せない。理性と本心の齟齬そごに、木崎は思い悩む。


「俺は、さくらが人間じゃなくても気にしないぜ」

「……なぜそれを!」


 驚愕に目を見開いた木崎の向かいで、透は悪戯っ子のようににやりと口角を上げる。


「見たことがあるんだ。さくらが二匹のハツカネズミと一緒にいるとこ」


 一月の第二木曜日――図書館に行っていた透は表通りではなく、裏の生活道路から帰宅した。その際隣家との境越しに、二匹のハツカネズミと会話するふうに喋るさくらを見たらしい。


「話のなかでさくらが“兄さん”って言っていたのを聞いて、思い出したんだ。三年前、傷だらけの二匹のハツカネズミを手当てした、って親父言っいてただろ?」

「ああ……。ちゃんと病院で診てもらおうと思った矢先に、姿を消してしまって」


 銀さんに食べられたのかと危惧したが、銀さんは家のなかにまでは入らない。しばらく行方が気になっていたものの、日々忙しく過ごすうちに記憶は薄れ、最近ではすっかり忘れていた。


荒唐無稽こうとうむけいな話で信じられねぇけど、もしさくらがその時のハツカネズミだったら――恩返しの動機も、異常なほど猫を怖がる理由も説明がつく」

「そうか……」


 透の話を聞いた木崎は軽くはない息を吐き、くしゃりと髪を掻く。よもや透が自分より先にさくらの正体に気付いているとは思わなかった。そんなそぶりも見られなかった。


「で、十日前に店から出て行ったハツカネズミがさくらと、さくらのお袋なんだろ?」


 得意げに問う透へ、木崎は観念の意も込めて深く頷いて見せた。


「私もにわかには信じられなかったけれど、さくらさんはハツカネズミだ。そうだとしても彼等には彼等の都合がある事は変わらないし、遅かれ早かれ、一緒にはいられなかったんだ」

「――昔からさ、親父は嘘つくの下手だよな」


 苦みのある笑みを浮かべた透は一つ息を吐き、湯飲みを引き寄せる。


「薬局継がなくていい、好きな道を進めって言ってもらえて嬉しかったけど、でも本当は継いで欲しかったんだろ? お袋との思い出がある店だし。ガキの頃俺が“母親が欲しい”っつった時も、辛そうな顔してたくせに自分から源さんに見合いしたいなんて言ってさ……。結局話はまとまらなかったけど、あん時は親父に無理させて悪いことしたな、って、今でもちょっと後悔してんだ」

「透……」


 息子の本心に触れ、木崎は忸怩じくじたる思いに駆られる。

 妻――葉子が亡くなって以来薬局の仕事や家事、育児にてんてこまいで、透に寂しい思いをさせた自覚はある。動物を飼うこともさせてやれなかった。透に言われた以外にも何度か再婚を考えたが、どうしても踏み切れなかった。

 葉子と死別後もずっとつけている左手薬指の指輪に触れると、最近弄りすぎたせいか緩くなっており、するりと指先の方へと移ろう。


「親父が考えるように、さくらにも事情はあるんだろうけどさ」


 透はどこか気恥ずかしそうに湯飲みを揺らし、母親に似た顔で笑う。


「お客さんや親父と話している時のさくらは、すごく幸せそうだったよ」


 その言葉を契機に木崎の胸中に、温かな風が巻き起こるようにさくらと過ごした日々が蘇る。

 薬局で一人過ごしていた頃を思い出せなくなるほど、さくらといる空間は心地よいものだった。


「――少し出かけてくる。片付けは私が後でやるから」


 深呼吸した木崎は胸の内でわだかまっていた気持ちを解くよう、そっと薬指から指輪を外す。


「それくらい俺がやっとく。たまには親孝行しねぇとな」


 笑顔で送り出してくれる透に木崎も笑顔で応え、外套を羽織り外へ出た。空はすっかり漆黒に塗りつぶされており、点々と並ぶ街灯や民家から漏れる明かりが僅かに闇を払っている。

 冷たい風に身震いした木崎は懐中電灯を点け、抑え切れない心が逸るまま稲葉神社を目指した。


---+---+---+---


 大黒様のお社の一角――人の目に触れない場所にさくらことハツカネズミのネハルの家はあった。

 桜の枝で作ったベッドで丸くなったネハルは部屋の外から聞こえてくる声を聞くまいと、端切れを接いだ布団のなかでいっそう身を縮こませる。


「ネハルは嫁入り前なのよ!? 花嫁修業だって全然していないし、このままではあちらのご家族に笑われてしまうわ!」

「母さんはネハルに対して過保護すぎるよ。もう少し自由にさせてあげれば?」

「そうだよ。ネハルだってもう子供じゃないんだ、そんなに厳しくすると」

「あなたたちは黙っていなさい!」


 ヒステリックに叫ぶ母とそれを宥める兄二人。まだ小さい弟や妹は人間のことをよく知らないらしく「どんな姿してるの?」「なに食べるの?」と思いつくままに質問していた。


――木崎さんは、どう思ったかな……。


 母親がハツカネズミへ姿を変えた時、木崎はひどく驚いたふうだった。普通のネズミと違いネハルたちは大黒様の力で姿を変えてもらえるが、人間にしてみれば気味が悪いかもしれない。

 何度目かわからない溜息を吐いたネハルは三年前――木崎に助けられた時へと思いを馳せる。



 大黒様の使いとして人間に豊穣や繁栄をもたらす仕事をしている父や兄に憧れていたネハルは、祖母に無理を言って外に連れて行ってもらった。

 だがふてぶてしい風貌のトラ猫に遭遇し、ネハルを庇った祖母は大怪我を負った。ネハル自身も右耳を爪で裂かれ、何度となく肉球に弾き飛ばされ、硬い地面に強かに身体を打ちつけていた。


――はやく、助けをよばなきゃ……!


 ネハルは必死にアスファルトの上を走る。トラ猫が追いかけてくる気配はないが、祖母が身を潜めている排水孔の辺りからは粘つくような厭らしい鳴き声がしていた。


――誰か、助けて!


 怪我の痛みや祖母を喪うかもしれない恐怖で身体が上手く動かせないなか、山のようにそびえる人間へ必死に呼びかける。だが誰もネハルに気付いてくれず、よしんば視線を落としたとしても、砂と血で汚れたネハルを見て嫌そうに顔を歪める。蹴り飛ばそうとしてくる人間もいた。


『お父さんたちが人間のためにどんなに頑張ろうと、人間はわたくしたちを嫌っているのよ。捕まえて殺すことだってあるんですから!』


 ふと蘇る母親の言葉。現実は母の言う通り残酷だ。けれど立ち止まる訳にはいかない。たとえ四肢がもげたとしても。


「キイイィィィィィ!!」――おばあちゃんを助けて!


 喉が張り裂けんばかりに叫んだ時、ネハルの上に大きな影が落ち、人間の顔が近付いてきた。


「ハツカネズミ……かな? まだ小さいな……それに酷い怪我だ。親とはぐれてしまったのかい? それともどこかで飼われていたのかな」


 人間の男はネハルへと手をのばす。自分の身体より大きなものが迫るのはとても怖かったけれど、抵抗する気力のないネハルはなすがまま男の手に掬い上げられた。

 地面から遠く離れたそこは意外と暖かく、眼鏡のレンズ越しに注がれる眼差しはネハルを案じるふうに柔らかい。


「とにかく、手当てをしないと」

「キィー……」――手当て、してくれるの?

「ん?」

「キイィ、キーッ!!」――おばあちゃんの方がもっと酷い怪我しているの!


 お願いおばあちゃんを助けて! そう話しかけるも、人間は困ったふうに眉を下げるばかり。言葉が伝わっていないのだと悟ったネハルは人間の男の手から飛び降り、来た道を戻る。


「どうしたの?」


 立ち止まり男を振り返る。そしてまた少し進み、男を見る。ネハルの意図を理解してくれたのか人間は腰を上げ、後を着いて来てくれた。わかってくれたことが嬉しくて嬉しくて、ネハルは全身の痛みも忘れて懸命に人間を祖母のもとまで案内した。

 その後男は重傷を負った祖母とネハルを家に連れ帰り、手当てをしてくれた。言葉が通じないのを承知でしきりに声をかけ励ましてくれたことを、ネハルは今でも鮮明に覚えている。



 あの後迎えに来てくれた兄と知り合いの白いカラスと共に逃げるように去ったことが――きちんと感謝を伝えられなかったことが、この三年間ずっと心に引っかかっていた。

 しかし大黒様の思し召しでようやく望みを叶えられた今でも、ネハルの心は晴れない。むしろより重苦しく、きりきりと締め付けられるように痛む。


「木崎さん……」


 名前を呼んでも、もう彼にはネズミの鳴き声にしか聞こえない。緑茶の牛乳割りやココアを手渡してくれたときに触れた指先の温もりを思い出し、ネハルは独り涙で敷布を濡らす。


「――――! ――、――――!!」


 ふと、遠くで誰かが叫ぶ声が聞こえた。扉の外で言い合っている家族のものではない。


「――、――ら……ん、さくらさん!」

「っ!!」


 はっきりと言葉を知覚出来た瞬間、ネハルの身体は電流が流れたみたいに大きく震えた。今にも潰れそうなほど弱っていた心が弾み、温かな想いが四肢や尻尾の先にまで波及する。

 飛び起きて部屋の外に出ようとするも、どんぐりの取っ手が付いた扉の向こうで母親が叫ぶ。


「行ってはだめよネハル! 人間とわたくしたちは違うのよ!? それにあなたは嫁ぐ事が決まっているんですからね!」

「ネハル! お前の好きにしなよ!」

「兄ちゃんたちはお前の味方だからな!」

「何言っているの、あなたたちは!!」


 二本の後ろ足で立ち扉の前まで移動したネハルは、そっと扉に前足を添える。

 一目だけでも木崎さんに会いたい! ――そう心が求める反面、恐れもある。三年間一生懸命お社の掃除や人間の願いを叶える手伝いをして、大黒様に木曜日だけ人間の姿になれる力を貸してもらった。けれどその約束は今日の昼で終わり、もう人間の姿にはなれない。

 相反する想いに揺れ惑うネハルが扉に爪を立てたとき、


「ネハル」優しく落ち着いた祖母の声がした。


「わたしのせいでネハルに辛い思いをさせてしまって、ごめんなさいね」

「おばあちゃんのせいじゃないよ! わたしが外に連れてって、ってわがまま言ったから……」

「わたしはね、ネハル」


 扉を挟んでネハルと対面した祖母は、ずり落ちそうな丸い眼鏡の奥で柔らかく目を細める。


「ネハルが好きなところ、居たいと思うところに居るのが一番良いと思うわ」

「お義母さんまで何を仰るんですか!?」

「ごめんなさいね、ネミコさん。わたしはネハルが幸せになれる場所を、ネハル自身に選ばせてあげたいの」


 祖母の言葉を聞いて、ネハルは強く下唇を噛む。

 たとえ母親が決めた望まない結婚であっても、もう嫁入りの日取りは決まっている。今になってネハルが嫌だと言ったら相手に多大な迷惑がかかるし、父や母の評判だって下がる。

 それに木崎の元へ行ったなら、ずっと一緒だった家族とも離れ離れになる。


「さくらさん……! 居たら返事をしてくれ!」


 お社の外でネハルを探し回っている木崎の声色からは、必死な様子がひしひしと伝わってくる。

 ネハルは人間とは違う色と形の自分の手を見下ろし、そっと目を閉じる。瞼の裏には薬局へ押しかけたときに見た困惑した顔や、お茶を入れたときに向けてくれた笑顔、仕事をするときの真剣な横顔など、この三ヶ月見続けた木崎の表情や仕草、たくさんの思い出が次から次へ鮮やかに浮かびあがった。


「――ごめんなさい」


 小さく呟いて、ネハルは扉を開く。

 正面に立っていた祖母や、その後ろでネハルを案じてくれている二人の兄、状況がよくわかっていない幼い弟や妹、険しい顔で動線を塞ぐ母親と順に視線を巡らせ、最後に椅子に座ったまま無言を貫いている父親に行き着く。

 昔気質の父親は寡黙なひとで一緒に遊んでもらった記憶はない。ただ大黒様や稲葉町については色々と教えてくれた。その知識は木崎薬局を訪れたお年寄りと語らう時、大いに活躍した。

 様々な思いが脳裏を巡るなかぐっと両前足を握ったネハルは兄たちに目配せし、駆け出す。


「待ちなさいネハル!」

「母さん! ネハルの好きにさせてやってくれよ!」

「ネハルは母さんの人形じゃないんだ!」


 二人の兄が母親を押さえてくれている隙間を縫って、一目散に木崎のいるお社の外へ――。

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