5.秘密

「みかんごちそうさまでした! お帰り気をつけてくださいね」

「今度は戦時中の話を聞かせてやる」

「はい、楽しみにています!」


 始めは茶が温いだのそんなことも知らんのかだのと怒鳴られていたさくらも、今では商店街一気難しいと言われる岩谷いわたにさんと会話が出来ている。意外にもさくらは稲葉町の昔の様子や歴史に興味があるようで、そういった事を語りたがる岩谷さんとは存外相性が良いようだった。

 岩谷さんを見送り茶器を片付けにかかるさくらの表情が、不意に曇る。

 お客さんや透と話す時は笑ったり驚いたりと楽しそうにしているものの、木崎と二人になると何事か思い悩むように黙ってしまう事が度々あった。木崎を盗み見て辛そうに胸の辺りの服を握っていたのも一度や二度じゃない。


「さくらさん」

「……は、はいっ!」

「何か悩み事があるなら、相談に乗るよ? 私に出来ることは少ないだろうけど」

「いえ! そういうんじゃないんです、平気です!」


 ぶんぶんと左右に首を振ったさくらは「ご心配かけてすみません」と苦笑する。足早にカウンターの内側――木崎家の住居へと続く扉を開けて台所へ向かう華奢な背中を、木崎は複雑な心持ちで見送った。

 先々週、連絡先を聞こうとした後からさくらとの関係がぎくしゃくしだした。

 さくらは今日も稲葉高校の制服を着ているが、透曰く学校内でさくらを見かけたことはないらしい。彼女の家があるという神社の側に住んでいる人も、近隣でさくらの姿を見たことはないそうだ。

 加えて、さくらはお年寄りたちが懐かしげに語る昔話や伝承には詳しいのに、最近の流行や電化製品にはとことん疎い。洗濯機やレンジの使い方すら知らなかった。


 本当は幾つなのか、どういう幼少期を過ごしたのか、家族の話は? さくらに聞きたいことは山ほどあるが、木崎はその問いを全て飲み込んでいた。さりとて消化できるはずもなく、喉に詰まった違和感はふとした拍子にちくちくと痛み出す。

 さくらに対して抱く気持ちが家族や知人に対する感情と同じなのか、それとも別の想いなのか……はっきりと区別がつけられない事が、さらに木崎を悩ませていた。


「木崎さん、洗い物終わりました」

「あ、ああ。ごくろうさま」


 スリッパからローファーへ履き替えたさくらはレジの横にある黒猫のぬいぐるみをじっと見つめたあと、カウンターから出て木崎に向き合う。


「次は何をしましょう? お掃除はさっきしたし、佐野さんたちが薬を取りに来られるまでもう少し時間がありますし」

「それなら……」


 小首を傾げるさくらを見下ろしながら、木崎はおずおずと切り出す。


「少し、話をしないか? もっと、さくらさんの事が知りた」


 みなまで言い終わる前に薬局の自動扉が開き、外の冷たい空気が足元に滑り込んで来た。


「こんにち、は……!?」


 来客へ声をかけたさくらは急に黙り込んでしまう。

 落胆と安堵が綯い交ぜになった溜息を密かに吐いていた木崎は、さくらのその様子に違和を覚えた。


「ど、して……」


 木崎薬局を訪れたのは輝かんばかりの白髪を結い上げた和装の婦人で、端正な佇まいや整った目鼻立ちはややきつい印象を与える。

 木崎は初めて見える相手だったが、さくらにとっては顔見知りのようだ。


「さくらさん?」

「さくら?」


 木崎の言葉を聞いた婦人は柳眉を歪ませ、さくらを見据え溜息を吐く。


「こそこそ何をしているのかと思えばこんなところに入り浸って。あなたは自分の立場がわかっているの? 人間なんかに絆されて」

「違う! 木崎さんはそんな人じゃない、わたしとおばあちゃんの」

「恩人なんでしょう? 母さんが知らないとでも思った?」


 驚くさくらを尻目に、さくらの母親は状況を把握しきれず立ち尽くす木崎に視線を移した。


「あなたがうちの娘とお義母かあさんを助けてくれた事には大変感謝しております。けれど、ネハルをそそのかすような事はなさらないで頂けます?」


 凛とした声に温もりは伴わない。紅い牡丹をあしらった着物の袖で口元を隠す仕草などからも、少なからぬ嫌悪が見て取れた。輪郭や鼻などはさくらと似ていても、明朗で人懐っこいさくらに対し、母親の方は厳しく威圧的で……性格は似ても似つかないようだ。


「木崎さんは悪くないの! わたしがどうしても恩返ししたくて勝手に押しかけただけで!」


 なおも必死に言い募ろうとするさくらの隣へ移動した木崎は、さくらの母親に自らの名と薬剤師をしている事を告げ、頭を下げた。


「親御さんに許可を得ず娘さんを働かせたこと、誠に申し訳ありませんでした」

「木崎さん!?」


 木崎を振り仰いださくらは何か言おうとしたが、木崎に制されると沈痛な面持ちで口を噤む。


「さくらさんはよく気が利くうえいつも笑顔で仕事を手伝ってくれるので、とても助かっています。親御さんやさくらさんさえよろしければ、きちんと雇用契約を結んで、このまま働いて頂きたいと考えています」

「お断りします。この家にはあの忌々しい猫も出入りしているそうじゃありませんか。三年前のようにまた襲われないとも限りませんもの」

「すみませんが、私は三年前の事に心当たりがないもので……詳しくお聞かせ願えますか?」

「こちらに出入りしているでしょう、ふてぶてしいトラ猫が」

「銀さんのことですか?」

「名前などわたくしが知るはずもありませんわ!」


 婦人は吐き捨て、憐憫れんびんを含んだ眼差しで娘のさくらを見遣った。


「あの猫のせいでこの子も祖母も危うく死に掛けたんです。夫の仕事を悪く言いたくはありませんけれど、人間に関わるとろくなことがない」

「……めて」

「それに、娘は今嫁入り前の大事な時なんです。本来なら外出させたくはないんです。嫁ぐ前にどうしても町を見ておきたいというネハルのわがままを大黒様と夫が聞き入れたため、口を出さずにいましたけれど……もう限界です。そもそもわたくしたちと人間とは」

「やめてっ!」


 俯いたままさくらが叫ぶ。甲高い声は薬局内に響き渡り、悲痛な余韻を残す。

 白い髪に隠されさくらの顔は窺えないが、僅かに覗く唇は震えていて、強く握った拳も小刻みに揺れていた。

 辛そうなさくらを目にし、木崎の表情も険しくなる。恩返しや嫁入りなど理解が及ばない部分はある、娘を案じる母親がさくらを連れ戻したい気持ちもわからないでもない。けれど、


「私は、さくらさんにここに」


言いかけた言葉を、さくらの母親が声高に遮った。


「ネハルがあなたにどれだけのことを話しました? 素性について詳しく語らない時点で、あなたはうちの娘に信用されていないということではありませんか?」


 返す言葉がなく口ごもる木崎に、母親は畳み掛ける。


「そもそも、わたくしたちと人間とは住む世界が違うのですから」


 まるで自分たちは人間とは異なる存在だとでも言うようだ。どういうことかさくらに問おうとした木崎の耳に、シュン! と風を切るような音が届く。転じかけていた視線を戻すも、つい先ほどまで和装の婦人がいた場所には誰もいなかった。

 自動扉が開いた形跡はなく、カウンターへの出入り口は木崎が塞いでいる。身を隠せるような場所はない。

 一体どこへ消えたのか――木崎が首を捻った刹那、足元から「キィーッ!」と甲高い鳴き声があがった。


「……ハツカネズミ?」


 輝かんばかりの白い体躯にルビーのような赤い目、長い前歯と尻尾。まごうことなくハツカネズミではあるが、普通の個体とは違い、寺社へ参ったときの清廉で厳かな空気を想起させた。

 木崎を見上げているハツカネズミはもう一度鳴き、さくらにも何事か訴えた。木崎にはハツカネズミの言葉はわからないが、どことなくさくらを急かしているふうに見える。


「……さくらさん」


 じっと足元を見つめていたさくらは木崎の呼びかけに応えない。顔を覗き込もうとして一瞬だけ目が合ったとき、さくらの赤い目からは今にも涙が零れてしまいそうだった。


「ごめ、……なさいっ」


 消え入りそうな声で告げたのち、さくらの白く長い髪も稲葉高校の紺色の制服も見えなくなる。代わりに右耳に傷のある小さなハツカネズミが現れ、もう一匹のネズミに続き自動扉へ駆け出す。


「待ってくれ、さくらさん!」


 一拍遅れ木崎も薬局を飛び出すが、ハツカネズミたちは止まらない。路地裏へ入っていこうとする小さな背中に手をのばしたとき、


「どうしたんだ親父、そんなに慌てて」


学校から帰宅した透に声をかけられ、手と足を止める。


「あぁ、いや……」


 ハツカネズミに姿を変えたさくらを追いかけていると言った所で、どだい信じられるものではないだろう。そうこうしているうちに、細い路地からさくらたちの姿は消えていた。


「――なんでもないんだ」


 透へ「おかえり」と声をかけた木崎は一度だけ路地を見遣り、薬局へ戻った。

 仕事に取り掛かる木崎の後ろでマフラーを外していた透は「あれ?」と不思議そうに店内を見回す。


「さくら来てねぇのか? 今日木曜日だろ」

「……うん、そうだね……」

「親父?」


 煮え切らない言動を訝しく思ったのか、透は白衣をまとう父の背中を注視する。その視線を感じながら、木崎はなんとはなしに棚の整理を続けた。


「何か他に、用事があるんじゃないかな。さくらさんにも事情はあるだろうし……いつまでもここに来てくれる訳じゃない」


 自分で言っておきながら気落ちしていては世話がないと、密かに自嘲する。


「――なあ親父」


 傍にやって来た透は僅かに迷いを見せた。けれど母親に似た真っ直ぐな眼差しで木崎に正対し、静かに語る。


「さくらと喧嘩したなら相談に乗るぜ。俺もあいつのこと気に入っているし、仲裁くらいするからさ」

「……ああ。ありがとう」


 透は勘の良い子だ、木崎の異変にもすぐ気付いただろう。


――この先ずっと、さくらさんの事を隠してはおけないけど……。


 たとえ信じ難い事でも、さくらと親しくしていた透にはきちんと話さなければならない。さりとて木崎自身、さくらがハツカネズミだったという現実に理解が追いついていない。

 奥の住居へ上がっていく透を見送った木崎は一人、深い溜息を吐いた。


「ようやく、さくらさんの言う三年前の意味がわかったよ……」

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