4.家族

「最近ふらふら外を出歩いているけれど、一体何をしているの? 女の子があちこち歩き回るなんて褒められたことじゃないわよ」


 さくらを窘めつつ、母親は白菜の葉を千切る。母の小言はいつもの事とはいえ、今のさくらには堪えた。けれど「いい加減これくらい出来るようになりなさい」と押し付けられたじゃがいもの皮むきが終わっていない以上、逃げるに逃げられない。


「お姉ちゃんたちはそうじゃなかったのに、どうしてあなたはお父さんやお兄ちゃんについて回って、仕事の真似事をしたがるようになってしまったのかしら。お父さんの仕事は立派だけれど、母さんはあまり好きになれないわ。おばあちゃんの事も忘れたわけじゃないでしょう?」

「…………忘れてないよ。今でも覚えている」


 母親の視線を右耳に感じたさくらは耳を隠すように顔を背ける。一時母親の夕餉の支度をする手が止まったが、しばらくして葉を千切る音が再開した。

 透に助けられたとき、嗅ぎなれた匂いがして木崎のことが頭を過ぎった。木崎家の和室に飾られていた写真の女性――透の母の指にあった指輪が木崎の薬指にあるものと同じだということも、気にはなっていた。

 けれどさくらは、二人が夫婦だという事にまでは思い至らなかった。

 ちくちく痛み出した胸を抑えれば、息が詰まったふうにますます苦しくなる。木崎のことを想うたびに表れる症状は日に日にひどくなり、最近では喉や目の奥まで痛むことがあった。


「まだ剥けないの? そんなんじゃ向こうのお家の方に笑われてしまうわよ」


 母親の小言で、さくらの目の縁に溜まっていた涙が頬を滑り落ちていった。それがどういう涙なのかさくらにはわからない。「……うん」と煮え切らない返事をして、滲む視界のなか歪な形になりつつあるじゃがいもを手に取る。

 週に一度木崎の側にいて少しでも恩返しが出来ることが幸せだった。なのに今はひどく苦しくて……いつも木曜日に感じている暖かで幸せな気持ちは、ちっとも沸いてこなかった。


---+---+---+---


 年が明けて初めての木曜日、さくらは木崎薬局へ行かなかった。

 次の木曜日に遠目から薬局の様子を覗いていた所を源さんに見つかり木崎の前へ連れて行かれたが、久しぶりに会った木崎はいつも通り優しい笑顔でさくらを迎えてくれた。


「さくらさん、薬を届けに行ってくるけどお土産はなにが良い?」


 声をかけられ、薬局の前で掃き掃除をしていたさくらは喜色満面の笑みで木崎を振り返る。


「栗が入った羊羹が良いです! 前に久保さんが持って来てくれてすごく美味しかったので」

「わかった。じゃあちょっとの間留守番頼むね」

「はいっ! いってらっしゃいませ」


 薬局を出て行く木崎を見送り、羊羹の甘さを思い出してにやにやする。

 薬局を訪れるお客さんとお茶を飲みながら話をするのも楽しいが、皆が持ってきてくれる美味しいお菓子もまたさくらにとっては楽しみだった。

 鼻歌混じりに掃除に精を出していると、「ネハル、ネハル!」と小さな声が聞こえてきた。声の出所――薬局と隣家との境あたりを振り返ったさくらは、驚愕のあまり箒を取り落とした。


「に、兄さん!?」


 人一人通るのがやっとの細い隙間から顔を出している二人の兄は音に驚いたようで、赤い目を丸くしを僅かに逆立てている。

 周囲を窺い二人の傍へ移動したさくらは通りに背を向けてしゃがみ込み、小声で問う。


「どうしたの、こんなところで。大黒様のお使い?」

「お前のことが心配だったんだ。最近元気がないみたいだったからな」


 二対の心配そうな眼差しを向けられたさくらは、こそばゆさにはにかむ。たくさんいる兄弟のなかですぐ上の二人の兄は特にさくらを気にかけてくれて、薬局へ行くのがなんとなく気まずく家で思い悩んでいた時も、話を聞いて背中を押してくれた。


「ありがとう。わたしは大丈夫だよ」

「本当に大丈夫か?」

「お前とばあちゃんを助けてくれた人間に恩返ししたい、って気持ちはわかるし、ここの薬局の手伝いも頑張っているみたいだけどさ……」


 兄たちは顔を見合わせ、言い難そうに口ごもる。けれど意を決したふうに一歩前へ出た。


「最近母さんがますます訝しんでいる。ネハルは何をしているんだ、ってしつこく聞かれたよ」

「お前が大黒様に願ったこともバレたみたいだ」

「……そっか」


 膝を抱え俯いたさくらの表情は暗い。

 母親は昔から過保護で何かと口を出してきていたが、ここのところ富に神経質になっていた。


「それに、な――」


 逡巡するふうに目を反らしながら、兄はなおも語る。


「ネハルとばあちゃんに怪我させた奴、この薬局にも出入りしているらしい」

「……うそ」

「おれたちにお前とばあちゃんが襲われた事を知らせてくれたダチが、今でもちょくちょく見るらしいんだ。あのふてぶてしい顔したヤツが薬局の人間に世話になっているのを……」


 会話が途切れ、兄妹の間に気まずい静寂が流れ込む。

 誰かの足音や話し声を聞くともなしに聞いていたさくらは無意識に右耳に――三年前に負った裂傷に触れた。


「今まで黙っていてすまなかった」


 兄たちは片手ずつさくらに触れ、申し訳なさそうに声を絞る。我に返ったさくらは左右に首を振り「教えてくれてありがとう」と微笑むが、無理をしているのは明らかだった。


「おれたちに出来ることがあるなら何でも手伝うから、遠慮なく言うんだぞ?」

「危なくなったらすぐに狭い場所に隠れろ」


 口々にさくらを案じた二人はお勤めがあるからと、路地の奥へ消えていく。

 三年前傷を負わされた忌々しい存在と木崎に関わりがあることはショックだが、それで木崎に対する感謝が薄れるわけではない。ただあの時の恐怖は今でもさくらの心臓を凍らせ、身体を動かなくさせる。


『母さんの忠告を聞かずに外へ行くからこうなるのよ! 口が酸っぱくなるほど母さんの従兄弟が殺された話をしたでしょう!?』


 ふと母の言葉が蘇る。あの後母親はしきりに嫁に行けと言い出し、ついにはさくらに何の相談もなく結婚相手を決め、式の段取りまで進めてしまった。そのためさくらは、春になったら顔も知らない相手に嫁がなければならない。


――久保さんや、斉藤さん、源さんたち商店街の人、透さん、木崎さん。みんな大好きだから、もっと一緒にいたいのに。


 仕事一筋で寡黙な父と父親が仕えている大黒様とに必至に頼み込んで、週に一度木崎の元へ通えているが、兄たちの話を聞くにそろそろ限界なのかもしれない。やるせない思いに強く唇を噛み締めたとき、さくらの背後で慌しい足音が聞こえた。


「さくらさん!」


 息せき切らして走って来た木崎は肩を上下させ、切羽詰ったふうな眼差しでさくらを見遣る。


「具合悪いの? それとも、どこか痛い?」


 心配そうに顔をしかめている木崎の姿にさくらはゆるく首を振るい、ぎゅっとマフラーを握り締める。

 木崎の優しさで胸がいっぱいで何も言えなかったが、木崎はそれを体調不良ゆえだと思ったようで、真剣な顔で膝をつき、さくらの額に手を触れた。


「熱は高くないみたいだね。一応病院へ行って診て貰おう。……さくらさん、先週も顔を見せに来てくれなかったし」


 そう言って微かに笑う木崎は心なし寂しそうだった。たとえ欲目でそう見えただけだとしてもさくらは嬉しくて、ゆるゆると微笑を浮かべる。


「大丈夫です。心配してくれて、ありがとうございます」


 立ち上がろうとすると木崎は手を貸してくれた。その手に自分の手を重ねながら、さくらはぽつりと呟く。


「三年前のあの日も、木崎さんはわたしに声をかけて、手を差しのべてくれたんです。そうしてわたしとおばあちゃんを助けてくれました」


 優しい声と大きく暖かな手を一日たりとも忘れたことはない。木崎の柔和な笑顔もまたずっとさくらの胸に焼き付いていた。

 けれど木崎には心当たりがないようで、すまなそうにしている。さくらが木崎に助けられた話をするたび、彼はそういう表情をしていた。


――覚えていてくれなくても無理はないよね。あの時は違う姿をしていたし……。


 切なさに表情が歪みそうになったとき、さくらは木崎の腕に下げられた紙袋を見つけた。


「羊羹!」

「ああ、ご要望の栗蒸し羊羹だよ。けど、本当に大丈夫かい? さくらさんに何かあったら、親御さんに申し訳が立たないし」

「大丈夫ですよ、甘いもの食べればすぐに元気になりますから!」


 さくらの笑顔を見て、木崎もやっと笑んでくれた。


「そうか。何かあった時には、遠慮せずすぐに言ってくれ」

「了解しました」

「じゃあ、三時にはちょっと早いけどお茶にしようか」

「はいっ、わたしお茶入れますね!」


 箒を拾い上げ薬局へと向かうさくらの背に「――もし」と戸惑いがちな声がかかる。自動扉の前で振り返ったさくらは、視線を反らし口元を押さえている木崎の様子に小首を傾げた。


「もし、なんでしょうか?」

「その……さくらさんさえよければ、連絡先を教えてもらえるかな」

「連絡先……」


 言われた事を反芻しつつ、さくらは困惑する。表情にもそれが出てしまったようで、木崎との間に気まずい沈黙が落ちた。


「すみません、うち……電話ないんです」


 正直に打ち明けると、木崎は虚を突かれたふうに瞠目する。


「じゃ、じゃあ、携帯電話は……?」

「……すみません」


 深々と頭を下げるさくらを、木崎が「いや、いいんだ」と慌てて止める。

 どこかぎくしゃくとした空気のなかさくらはお茶を入れ、木崎と一緒に栗蒸し羊羹を食べたが……その日の羊羹はあまり甘さを感じられなかった。

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