2.恩人

「恩返しがしたいんです!」と白髪赤目の少女――さくらが木崎の前に現れてから、早一月。

 毎週欠かさず木曜日にやって来るさくらはすっかり木崎薬局に馴染んでいた。


「さくらさん、緑茶の牛乳割り出来たよ」

「はーい! 今行きます」


 店の外で掃き掃除をしていたさくらは満面の笑みで木崎を振り返る。コートやマフラーなどで防寒しているものの十二月の寒さには適わないようで、頬や鼻の先は赤く色を帯びていた。


「すまないね、女の子を寒いところで働かせてしまって」


 店内へ戻り防寒具を脱いださくらへ、木崎は湯気のたつ湯飲みを差し出す。雑貨屋の斉藤さんがくれた桜柄の湯飲みを両手で持ったさくらは「いえいえ」と照れたふうにはにかんだ。


「少しでも木崎さんのお役に立てるなら、嬉しいです」


 まっさらな白雪のような厚意に、木崎はただ苦笑を返すことしか出来ない。この一月さくらの言う恩について考えてみたが、やはり心当たりはなかった。

 さくらの容姿は目立つ。人懐っこさや、気難しいご老人に怒鳴られへこんでもすぐ立ち直る前向きな性格は、色濃く記憶に残りそうなものだが……。


「さくらさん。君が私に助けられたというのは、何年くらい前の話かな?」

「えっと……」


 宙を見上げたさくらは指折り数え始める。


「三年くらい前です」

「三年!?」


 驚きのあまり木崎のかけている眼鏡がずれた。そんな直近の出来事を忘れているなど、記憶力には自信がある方なだけに頭を抱えたくもなる。年齢的にもボケるにはまだ早い。


――本当に、さくらさんの恩人は私なのか?


 たびたび浮かぶ疑問はしかし、懸命に恩を返そうとしているさくらの気持ちを無下にするようで口には出来なかった。


「こんにちはー!」


 自動扉が開き、幼い声が店内に響く。次いで若い女の声が来訪を告げた。

 三歳のけいくんと母親である佐野さんは月に一度、おじいちゃんに代わって薬を取りに来るお客さんだ。


「こんにちは!」


 景くんの前にしゃがんださくらはにこにこしながら話しかけている。景くんもまた人見知りしないため、すぐに仲良くなれるだろう。


「アルバイトの子ですか?」

「ええ、まぁ……私の親戚の子で」


 微笑ましそうに息子とさくらとを見ている佐野さんへ、木崎は曖昧な答えを返す。よもや押しかけられたとは言えない。だが嘘をつく心苦しさから表情が硬くなってしまう。


「押しかけ女房です!」

「…………は?」「……え?」


 不意に立ち上がり宣言したさくらに、木崎も佐野さんも呆気に取られる。

 何がどうしてそうなった? 言葉を失っていた木崎は戸惑いがちな佐野さんの視線を受け、はっと我に帰る。


「あ、いや……さくらさん、君はどうしてそんな事を」

「この前いらした魚屋さんの大将さんが、わたしのことをそう言っていたので」

「あー……源さんか」


 脱力気味に苦笑いする木崎同様、佐野さんの方も「源さんね」と得心がいったように笑う。

 豪快で面倒見がいい商店街の名物オヤジの源さんは、厳つい顔に反して可愛らしいものや色恋話が大好きだ。商店街のマスコットキャラを一番気に入っていて、昔から若い者にお見合いを勧めたり仲を取り持ったりもしている。源さん夫婦を仲人に結婚式を挙げた夫婦は多い。

 声の大きい源さんによって押しかけ女房、もといさくらの噂は商店街の隅々まで行き渡るだろう。いや既に広まりつつあるのかもしれないと、この前惣菜屋の金子さんにしきりに赤飯を勧められたことを思い出しながら木崎は憂う。


「さくらさん、それはその、違うと思うんだ」


 こめかみ辺りを蝕むじくじくとした痛みに堪えつつさくらを諭す。木崎の目をじっと見つめていたさくらは眉尻を下げ、微かに笑った。


「わかっています。ちゃんと、源さんの冗談だって」

「……源さんも、冗談で言っているなら良いんだけどね……」


 もごもご喋る木崎を横目に、さくらは景くんと遊び始める。木崎は佐野のおじいちゃんの薬を用意しながら、商店街の人たちの誤解をどう解くか頭を悩ませていた。


---+---+---+---


 夕暮れ迫る帰り道、友人と別れたとおるは喧騒を避けるよう細い路地へ入る。この時刻商店街は買い物客で込み合ううえ、大学入試を控えた身にはクリスマス前の賑やかさは眩しい。

 漸次冷え込む風に身を竦ませ歩いていると、ふと猫の鳴き声が聞こえてきた。


「この声は銀さんか?」


 稲葉町商店街の店々に出入りしているオスのトラ猫は妙に貫禄があり、そのいぶし銀な様子から銀さんと呼ばれている。数年前までは喧嘩番町の異名をとっていたが、今では店先で餌をねだったり日がな一日ひなたぼっこしたり、ご隠居のような存在になっていた。

 ぶなぁ~、という鼻にかかった独特の鳴き声を辿っていけば、こぢんまりとした公園の側で銀さんと白い髪の少女とが沈みかけの夕日をバックに見詰め合っていた。

 互いに微動だにしないが制服姿の少女の方はひどく怯えているようで、ルビーのような紅い目に涙すら湛えている。スカートから覗くほっそりとした足も小刻みに震えていた。


「大丈夫か?」


 見かねた透が声をかけると、少女はびくりと全身を跳ねさせる。ぎこちなく振り返る間もトラ猫への警戒は怠っていないようで、視線は透と猫との間を忙しなく行き来していた。


「だっ! だだだだだい、じょぶ…………じゃないですぅぅぅ!!」


 限界だといわんばかりに滂沱の涙を流す少女は両腕をぶんぶん動かし助けを請う。思わず苦笑を漏らした透は鞄に常備している猫用のにぼしを取り出し、銀さんの前にしゃがみ込む。


「ほら、銀さん」

「ぶなぁ~う」


 トラ猫がガリボリとにぼしを齧る間、透の背後では少女が「ひっ!」と恐怖感たっぷりの悲鳴を上げ、極寒の吹雪のなかに身を置いているのかと思うほどがたがた震えていた。

 やがて銀さんが去りトラ模様の尻尾が見えなくなると、少女は力尽きたようにくずおれる。


「こ、こわっ……こわかったぁぁぁ」


 両手をついた地面にぽたぽたと涙が滴る。動物好きの透からすればそこまで怯えるほど猫が怖い生き物だとは思えないが、少女には何かトラウマがあるのかもしれない。ハンカチを取り出した透はそれを彼女に渡そうとして、ふと気付く。


「手、どこかにぶつけたのか?」

「え? あ、ちちち血が出てる……!!」


 自分の手を見た少女の白い顔はさらに蒼白になる。民家のブロック塀か生垣で擦ったのだろう。傷は僅かに血が滲む程度の軽傷だが、彼女は重傷並みに怯えた反応を見せた。


「手当てしてやるから、よかったら家へ来るか?」

「……へ?」


 きょとんとした顔で見上げてくる少女へ、透は努めて優しく語りかける。


「俺の家、この近くなんだ。ここにいても寒ぃし暖かい場所なら人心地つくだろ? っと、そういやまだ名乗ってなかったな。俺は透だ」

「わたしは、さくら……です」


 すんすんと鼻を啜りながらさくらが首を傾げた拍子に、長い髪に隠されていた右耳が覗く。そこには鋭いもので引っ掻いたような切り傷があった。


「――じゃあ、お言葉に甘えて、お邪魔しても良いですか?」

「ああ、もちろん」


 控えめな問いに快諾を返した透は座り込んでいるさくらへ手を貸し、共に家路を辿った。



 家に帰りさくらの手当てを終えた透は自分用のコーヒーと、さくら用のココアをいれ居間へ戻る。

 コタツに入って待っていたさくらは蛍光灯に照らされた和室を物珍しそうに眺めていた。


「何か気になるものでもあるか?」

「なんとなく、懐かしい気がして……。あ! この度は大変お世話になりました!」


 そう言って姿勢を正し深く頭を下げる。さくらに礼を言われるのはこれで五度目だ。


「気にすんな。それよりココアでよかったか? 夏に親戚のガキが置いていったやつなんだが」


 透はさくらの向かいに腰を下ろし、湯気の立っているマグカップをテーブルに置く。両手でマグカップを包んださくらは立ち昇るココアの甘い匂いにうっとりと目を細めた。


「ココアは初めてだけど、甘いものは大好きです! いただきます」


 息を吹きかけつつ一口ココアを飲んださくらは、ぱあっと歓喜に満ちた笑みを浮かべる。


「これ好きです! 緑茶の牛乳割りと同じくらいおいしい!」


 掛け値なしに喜ぶ姿は幼稚園や小学校低学年の子供を思わせる。けれどさくらが身につけている制服は透と同じ稲葉高校のものだ。学年までは知らないが、白い髪に紅い目という目立つ容姿をした生徒がいればたちまち学校中の噂になるだろう。


「さくらは転校生か何かか?」

「へ?」

「学校でお前の事見かけたことねぇから、近いうちに転校してくんのかと思って」


 首を傾げていたさくらは透が着ている制服と自分の服とを見比べ、「あ!」と慌てたふうな声を発する。


「これはその、神社の前を通る子たちが着ているのを見て、可愛いなぁと思っていたので……。あ、いえ、おっしゃる通り、転校生、だと思います」


 方々へ目線を飛ばしている様はあからさまに怪しい。さりとて透はさくらを詰問したい訳ではない。何か事情があるのだろうと違う話題を振ろうとした時、さくらが一点で視線を止めた。


「あの人の手の……」


 赤い目が見つめる先を辿れば、一枚の写真に辿り着く。そこには左手の薬指にはめた指輪をこちらに見せて微笑む、若い女が映っている。


「指輪が気になんのか?」

「はい。どこかで見たことがある気がして」


 透はさくらに先立ち半開きだったふすまを開け、隣の和室へ入る。

 普段父親が寝室として使っている八畳の部屋には、箪笥や本棚の他に絵の具で汚れた文机が置いてあり、女の写真は押入れ横に位置する小さな仏壇に、花と共に飾ってあった。


「この女性、透さんに目元がとても似ていますね」

「俺のお袋だ。俺が小せぇ頃に死んじまったから、ほとんど記憶はないけどな」


 透の母――葉子が亡くなったのは透が三歳くらいの時だ。だが葉子のことをよく知る町内会長や魚屋の大将などが懐かしそうに葉子のことを語ってくれるため、人となりや母との思い出は間接的に知っていた。


「……家族と二度と会えなくなるのは、きっととても辛いですよね」


 仏壇の前で手を合わせていたさくらが、写真を見つめたままぽつりと呟く。


「昔、祖母が大怪我を負った時でさえ、悲しくて悲しくて、どうしようもないほど身体中が痛くて……息も出来ないくらいの絶望に襲われましたから」

「ばあさんは、今は……?」

「親切な方が手を差しのべてくれたおかげで今も元気です。けど、もしあの時助けてもらわなかったらと考えると、今でもとても怖いです」


 当時のことを思い出したのかさくらは身を震わせる。けれど立ち上がり透を振り返った彼女の表情にはもう沈痛さはなく、春風のような柔らかさで微笑んだ。


「透さんのお母さんにも、お礼を言わせてもらいました」

「は?」

「透さんに助けていただきました、って。透さんは素敵な方ですから、きっとお母さんも素敵な方だったんでしょうね」


 恥ずかしい台詞を臆面もなく言ってのけるさくらに、透は面食らう。簡単な怪我の手当てをしてココアを振舞っただけで「素敵だ」と評されるのはいかがなものか。


「あ! いけない時間!」


 壁に掛けられた時計を目にしたさくらはたじろぐ透を余所に、慌てて居間へ戻る。そして深い一礼と謝意を残し廊下を走っていった。

 透は遠くで玄関扉の閉じる音を聞いてから居間へ戻り、コタツに足を突っ込んだ。その際友人用のマグカップが視界に入り、「変なやつ……」と苦笑が漏れた。

 特異な容姿のせいで浮世離れした印象が拭えないが、さくらのあの素直さは嫌いじゃない。もう少し突っ込んで聞いておけばよかったかと小さな好奇心を自覚しつつ、冷めたコーヒーを飲んだ。

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