第30話 片想いはスピード狂のごとく 7
「お寺ぶっ壊しちゃうなんて、上等! やっちゃうよー!」
千沙は不老院にけっこうな思い入れがあったらしい。千紗の趣味が、寺院巡りであるのはここでは秘密だが、だからこそ、不慣れな身体トレーニングに参加した理由もわかるだろう。千紗は声をあげると足を大きく広げ、両掌を顔の前にかざす。これは千紗が精神を集中させていくいつものポーズだ。ゼナリらに攻め立てられ、足止めされている死霊系だが、中々に千沙は心の臓を見つけることが出来ない。閃いたのはゼナリだ。彼女は千沙に助け船を出す。
「千沙! 心の臓は『胴体』にあるとは限らない! 見かたを変えて!」
千沙は一旦汗を拭い、深呼吸をする。ごく一般的な身体構造ばかりイメージして、忘れていたが、相手は天徒。心臓にあたる心の臓が胸元、胴体にあるとは限らない。死霊系は大腕を降りかざし、ゼナリに襲いくる。弥生の銃撃は効果的ではない。椎奈もMPの消費に限りがある。翔とゼナリだけでは死霊系を長く留めるのは難しい。ゼナリのアドバイスを受けて、頭を素早く巡らせる千紗は、はたと気がつく。
「何胴体にこだわってたんだか! 足に心の臓があったんだからあるいは!」
千沙は、賭けにも等しいアクトを起こす。掌に集中させた霊力の全てを、死霊系の顔面にぶつけたのだ。心の臓が死霊系の頭部になければ、あるいはこの戦いは不利になるかもしれない。だが千紗は勝負することを選んだ。すると、あった。見つかった。「結合」した死霊系の心の臓が、右目の奥に埋め込まれている。たしかに見届けた千沙は叫ぶ。
「右目眼球の奥! 心の臓を見つけたわ! 椎奈! 露波動を!」
「まっかせなさい! 我がしもべなる露波動! その美しき光にて、邪な心を照らせ!」
椎奈も、戦局が危ういのを察していた。千紗が霊力すべてを、死霊系の頭部に向けたことで、この戦いが綱渡りになっていたことも。椎奈は心の臓が特定できたことに喜び勇むと、両掌に充てんさせた波動を、死霊系目がけて放った。露波動は死霊系の右目に向かい、一直線に突き進み、貫くと心の臓を露わにする。
「よっしゃあ! 鬼さんめっけ!」
だがそれと前後して、霊力を相当使った千紗には、一瞬の隙が出来ていた。さすがの死霊系も、弱ったターゲットを見逃すほど間抜けではない。露わになった心の臓を右手でおおい隠しながらも、千紗へと襲いかかる。心の臓が見つかったのなら、勝負はすみやかに決するべきだ。意を決した翔とゼナリは、空高く舞い上がり、その鉤爪と愛刀で、死霊系の心の臓を引き裂きにかかる。のたうつように暴れ回る翔の鉤爪を、ゼナリの獅子若と蛇龍が援護する。
「猛ろ! 獅子若! 吠えよ! 蛇龍!」
「鉤爪! 邪心をうち砕け!」
ゼナリと翔の狙いは正確だ。寸分の狂いもない。鉤爪とゼナリの両刀は、死霊系の目の奥に潜む、心の臓目がけて一直線だ。切り裂かれる心の臓。最後、留めの一撃、ゼナリの両刀が死霊系の心の臓に突き刺さる。かくして死霊系は心の臓を討ちとられ、「ぎょおぉおおわぉおぁあぁあ!」と、声にならない絶命の声をあげる。消失していく死霊系だが、残った拳だけが千沙を握りつぶそうと、地を這いずっていく。だがすんでのところで、翔の鉤爪が拳でさえも仕留めると、死霊系は燃え上がり、跡形もなく消え去っていく。
「千沙!」
憔悴した千沙は、両腕を顔の前で交差させて、目を閉じたままだ。千紗は多分この戦いで、命を落とすのさえやむなしとさえ考えていたのだろう。霊力を使い果たした千紗は、膝からがっくりと崩れ落ちると、危うく地面に倒れそうになる。その千紗を何とか抱きかかえてフォローしたのは翔だ。
「千紗さん!」
翔に体を支えられて気まずいのは千紗だ。彼女はゼナリに遠慮して、翔の体をそっと自分から引き離し、何とか自分の足で立つ。ゼナリは千紗の心の動きが分かったのか、なぜか胸が痛むのを感じていた。一方、戦いが終わり、その趨勢を見守った傀儡師だが、彼は疲れ切っている翔たちへ、今一度攻勢に出るわけでもない。彼には彼のプランがあり、「余裕」があるようだ。傀儡師は不気味な捨てゼリフを残して消え去るのみだ。
「考えてみるといい。東機の嘘について。そしてパクスロマーナと殿上人がいかなるものかについて」
『待て!』
翔とゼナリがとっさに声をあげるも、傀儡師はすっと音もなく消えていく。残るのは、澄んだ山奥に響く鳥の鳴き声だけだ。両の足で何とか体を支える千紗だったが、その時になって、自分が足を痛めていることに今一度気づく。ゼナリも足をかばう千沙に駆け寄る。千沙にはゼナリの優しさが妙に切ない。この子は憎めない。千紗はそう思わずにはいられない。
「大丈夫!? 千沙」
「無理したらダメだよ。千沙さん」
翔とゼナリに呼びかけられて、翔への「恋心」とでも呼ぶべきものを、自身が押し殺していくのが、千沙は手に取るようにわかった。彼女はただ一言「あ、うん。大丈夫」とだけ二人に告げて、坊主の一人に近寄り、彼はジャッジメントをした坊主だったのだが、千沙用のお茶菓子を口にする。彼女の恋心は限りなくリアル・ラブに近いものだった。それは彼女だけが知っていた。
後日、千沙は花園から薔薇を五輪だけ摘み、翔のもとへ向かっていた。薔薇、三輪の花言葉「愛しています。告白」を伝えるか、五輪の花言葉「あなたに出逢えて良かった」を伝えるに押し留めるか、彼女なりに悩んでいた。どちらにするべきか迷いながらも千沙は教室のドアを横開きに開けると、中を覗き込む。
「おはよー、ございまぁす」
すると千紗の目に飛び込んで来たのは、いつもの光景。椎奈にエロティックにいじられて、困り果てる翔と、その椎奈にやきもきするゼナリの姿だった。三人はいつもの寸劇に夢中で、千紗が教室に入ってきたのでさえ気づかない。とりあえず千紗は薔薇を背中に仕舞い、隠す。
「翔もゼナリも本当に仲がいい。まるで結ばれると決まっていたみたい。それに、ね」
ふと千紗の頭にかすめる翔の言葉。「ゼナリに渡すとしたら(一目惚れの)一輪じゃないよ」。その意味が、今になってしっかりと分かった千沙は、薔薇を五輪、持ち直す。彼女の心は決まったようだ。千紗は一度顔をパンッと威勢よく叩き、いつもの明るく気だるい調子を取り戻す。
「やぁやぁ。みんなおはよう。この前の不老院での天徒戦、まことにご苦労であった」
「千沙さん! 足は大丈夫? 治った?」
翔の気遣いが今の千沙にはやけに胸に来る。千沙はなるべく平常心で、平気な顔を見せる。「うん。大丈夫よ。あんなもん」と一言だけ伝える。それがギリギリだと自分自身が知っていた。千紗は背伸びをして、大欠伸をすると、薔薇の花、五輪を翔にスッと差し出す。それが彼女に出来る、許された最低限のことだった。
「不老院ではいろいろ世話になったからさ」
千沙から差し出された薔薇の花を受け取った翔は、「あ、ありがとう」ととりあえずは戸惑うばかりだ。千紗はさもゼナリ、翔、椎奈三人のやり取りに興味がなさそうに、教室を去ろうとする。五輪の薔薇の花へ込められた意味に、翔が気づいたのは、千紗が背中を見せて、手を振り教室を出たあとだった。千紗の声がやけに翔の耳に残る。
「そいじゃあねー。午後のトレーニングもサボるなよー」
何とはなく本調子ではなさそうな千沙を、チラリチラリと見送りながら、不思議なのは椎奈だ。椎奈は千紗がこのタイミングで、彼女に似合わず、薔薇の花を翔に手渡したのが不思議で仕方ないらしい。ゼナリも椎奈と一緒に、翔の手にある薔薇の花を覗き込む。翔は大切に薔薇を握りしめている。椎奈は怪訝そうに右目を見開く。
「五輪だけだね。たしか薔薇。五輪の花言葉は、『あなたに出逢えて本当に良かった』だよね。意味深ねー。千紗となんかあった? 翔」
椎奈に訊かれて翔は、取り繕うでもなく、恥ずかしがるでもない。ただ嬉しそうに花を見つめるばかりだ。椎奈に「気持ちわるいわねっ。翔。なんか言いなさいよ」とせっつかれて、翔は笑顔で頷いて何とかこう返すだけだ。
「何もないよ? でも、これでいいんじゃないかな。これで」
その意味を、ゼナリだけは敏感に察していた。それと同時にゼナリは、翔への恋愛感情に似た気持ちが強まっているのも感じていた。椎奈は一人蚊帳の外。「気持ち悪いわねー。みんなして」と悪態をつくだけだ。
一方体育館の玄関先。ベンチに腰かけた千沙は大好きな缶コーヒーをまたしても口に含んでいた。彼女の隣には、先の「不老院」でのトレーニングには、同行しなかった櫻さんがいる。櫻さんは、今や千紗の愛猫となった茶猫を、胸に抱えながら、彼女へ尋ねる。
「それで、本当に良かったのですか? 千紗さん」
口から離した缶コーヒーを見つめる、千沙の顔には未練がましさはない。千紗は自分自身、翔へこうも肩入れするとは考えもしていなかったようだ。思いを振り切るのに少しの躊躇いも、迷いもなさそうだ。彼女の胸に宿るのは、さっぱりとした感慨だけだ。千紗は茶猫の喉をぐるぐると鳴らす。
「リアルラブも、片想いに終わることもあるんだね」
「左様ですか」
櫻さんの致しかたなし、という納得の相槌は、なぜか覚醒者全員に向けられているような、もの悲しさがあった。櫻さんがどれだけ、この戦いのあらましを知っているかは、分からない。だが蓮からある程度のことは聞いているようだ。櫻さん、千紗、二人の視線を背にして、グラウンドでは練習に励むサッカー部員の声が響き渡っていた。
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