第12話 シスターたちの色恋沙汰 3
蓮の鬼特訓を経て、巨大なアメーバ状の化け
トレーニングを無事終えた椎奈は、手さげ鞄片手に体育館をあとにする。彼女の頭にあるのは、間抜けたアメーバではなく、案外淡々とした蓮でもなく、やはり翔が口にした「恋」についてだ。椎奈は、独り言を零す
「『恋』かぁー。それは私だって、したいわよ」
そう視線を落とし、憂いげな椎奈。だけど「これじゃダメだ」と彼女は自らを奮い立たせて顔をあげる。そこには陽が落ちても、トレーニングに励む野球部キャプテンの近藤瑠伽の姿があった。近藤瑠伽。椎奈が学園に入ったばかりの頃、マネジャーへと誘ってきたのが当時二年生の瑠伽だった。野球に興味のない椎奈はあっさり断ったが、その時の彼のぼやき「あー、マネージャー見つけないとまた先輩に怒られるー」は、椎奈の心に涼やかな風を吹かせ、彼女の母性をも密かに刺激していた。
その瑠伽が今や野球部のキャプテン。加えて今年の野球部は甲子園も狙えるとの噂を椎奈は聞いていた。母性をくすぐる少年から、背中を押したくなる先輩へ。「歩く酒池肉林」と言っても、根は純情な椎奈が心動かされるのも仕方がない。
「恋。『実らない』って知ってるし」。いつもの椎奈はどこへ消えたのか。いじらしく彼女はそんなセリフをぽつりと口にしていた。
一方その頃、帰宅中のゼナリは、自分のあとをなぜかついてくる翔に小言をこぼしている。なぜか。ゼナリの家と翔の家が近いからだ。それにトレーニングをこなしたあとだから、下校時間も一緒。だから翔があとをついてくる図式になるのはよくあることだった。ゼナリは身をのけぞらせて、翔を手で払いのけるような仕草をみせる。疲れでぐったりとなった翔にもお構いなしだ。
「ちょっと。翔。ついてこないでよね。二人で仲良く下校だなんて思われたら、お互いイヤでしょっ」
「んなこと言っても家が同じ方向なんだから仕方ない」
「わかるけどっ! そうだけどっ! 距離はしっかりとってよね」
「はいはい。分かりました」
恥じらいなのか、本当に嫌がっているのか分からないが、ゼナリがそう言うのなら仕方ない。足早にスタスタと歩くゼナリから、翔は少し距離を取って歩く。だけど男性の歩幅のせいか、それとも顔を下に向けながら歩く翔のせいか、すぐに翔はゼナリに追いついてしまう。それに気づかず、翔は今日のトレーニングを振り返る。
「今日はハードだったねぇ。ゼナリもそう思わない? アメーバさんこそ大したことなかったけど、基礎トレーニングががが。天徒が来なくなって一か月は経つのに、蓮さん、容赦なしだもんねぇ」
「それは、仕方ない。学園を守るために日々精進」
「それはそうなんだろうけどさぁ」
話をしながら、結果並んで歩くことになった翔とゼナリの二人を見て、放っておかないのは一般生徒の女学生たちだ。彼女たちは、恋愛事情を勘ぐるのが趣味らしく、翔とゼナリを見て、ひそひそ声で色めき立つ。
「ねぇねぇ見て。ゼナリ先輩と翔君よ。やっぱり覚醒者同士、仲がいいのね」
「でもゼナリ先輩が一個上だし、将来は姉さん女房って感じかな?」
「いいわぁ。その響き! でも彼女たち、恋愛禁止なんでしょ? その辺どうなってるのかな?」
根も葉もない話をされるのは、もちろんゼナリは好きじゃない。事情を知らずに勝手な妄想をされては、たまったものではない。けれど翔と一緒に下校をしているのは事実だ。そうと分かれば話は早い。ゼナリは赤面症さながらに、顔が赤くなるのを何とかこらえて、今一度翔に促すだけだ。
「翔、距離、距離」
「ん? あ。はいはい」
ゼナリは距離を置く翔に一安心するが、だが彼をよくよく見るとネクタイがよれよれで、曲がっている。世話焼きのゼナリはついつい油断して、女学生の視線に晒されているのも忘れて、翔のネクタイを整える。
「翔。曲がってるぞ。ネクタイ」
「あ。あぁ。ありがとう。ゼナリ」
その光景にもちろん黙っていられないのが、例の女生徒たちだ。「きゃお!」と嬌声をあげて、痺れてみせる。ゼナリははたと気づくとすかさず翔から離れて、咳払いの一つでもするしかない。
「コ、コホン」
「キャー! ゼナリ先輩カワイイ!」との甲高い声を受けて、ゼナリは顔が赤くなるのを何とか堪えるのみだった。
話は戻って校内。椎奈はまだ帰宅せず、学校に残っている。椎奈はなぜか翔の言葉が離れない。そのせいか瑠伽の練習が終わるまで、ずっと階段に腰を降ろして、彼の姿を見守っていた。もうとっくに夜の八時を過ぎている。
「一人で一生懸命。頑張るなぁ」
椎奈は実は照れ屋だ。そのせいか、練習を終えた瑠伽と視線が合わないように、顔を背けて素知らぬフリもする。「歩く酒池肉林」もカムフラージュの一つでしかないのだ。
「向こう向け。向こう」
椎奈に視線をやる瑠伽へ、椎奈は胸の内でそう呟く。「私に関わるない。私なんて所詮恋愛禁止のモンスター。関わるな関わるな」と自嘲気味に口にする椎奈。だがそんな彼女も、つかつかと近づいてくる足音からは逃げられない。椎奈が顔をあげると、瑠伽が笑顔を見せて、彼女の目の前に立っている。
「どうしたの? まだ帰らないの? 遅いよ?」
「えっ! あっ、あっ、そうでしたね。瑠伽先輩」
椎奈は慌てふためき、声が上ずる。それはそれで良しとして、下の名前を呼ばれて、驚いたのは瑠伽の方だ。
「えっ。なんで僕の名前知ってるの?」
「あ。そ、それは」
「それは?」
「瑠伽先輩目立ちますから。か、か、カコいいし!」
勢い余って「カッコいい」と口走ってしまった椎奈は、口を両手で塞ぐ。瑠伽はそんな椎奈よりもぐっしょりと汗で濡れたユニフォームが気になったようだ。
「ヒドイ汗。拭かなきゃ」
俗にいう千載一遇のチャンスだ。椎奈はサバンナで獲物を狙うライオンのごとく、とまでは行かないが、離れようとする瑠伽を止める。椎奈はガタついた動きで、鞄を震える手であさくり、タオルを見つけ出す。
「タ、タタ、タオルなら! ここにあります!」
もちろんまだ使っていないタオルを差し出されて、当然のように遠慮する瑠伽だが、椎奈はタオルを瑠伽の胸元に押しつける。彼女に瑠伽の言い分を聞く余裕などない。
「あ! 洗って返してくだされば! それではおやすみなさい! いや違った! ご機嫌よう! これもなんか違う! そう! お疲れさまでした!」
完璧にパニックになって、足早に走り去る椎奈を、ポカンと見送る瑠伽。彼の掌にはポツリポツリと雨粒が落ちてきている。傘も指さずに、鞄で雨をさえぎる椎奈は、「うわぁあ! 何やってんだ私!」と叫ばずにいられない。けれどスタートしたからには早々と戻れない。そうしてシスターたちの恋煩いは、五月の通り雨とともに駆け抜けようとしていた。
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