伊津之尾羽張(いつのおはばり)

※イザナギさんと宮司のナギが子供時代、黄泉へいく話。

 キャラ崩壊注意。

 まんがの原作にしてた。


 ナギの祖父は宮司だった。

 人一倍霊感のあったナギの祖父、宗一郎は、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)の姿を見ることが出来た。

 さて、ナギと同じ年に、さぎりと大地が近所で生まれた。

 さぎりの名前は、ナギの祖父が女の子の名前を決めるのは苦手と、神であるイザナギに相談して決めた。

「天之狭霧尊(あめのさぎりのみこと)」

 という、山の神の名前である。

 その名のとおり、さぎりは肌の白い、美しい少女に成長した。

 大地少年は、やはり宮司だったナギの祖父が決めてくれた。

 自分の孫が海に関連しているので、大地のように丈夫であるように、と願ってのことだった。

「じいちゃん。僕のナギという名前、どういう意味なの」

 大地とさぎりの命名のため筆を走らせていた宮司である祖父に、ナギは尋ねた。

「ナギとは『凪』つまり風がやんで穏やかな海のことを言うんだよ」

 ナギの祖父はにこやかに教えてくれた。







 じつはナギの祖父は、このさぎりと大地のことも深く見守って欲しい、とイザナギに願っていた。

「何故かわかりませんが、この子供らをあなた様に託したく思います」 

「わかっている。あとのことは任された」

「ありがとうございます。あなたの加護がきっと、必要になる。そんな予感が拭えぬのです」

 ナギの祖父が息を引き取る数日前のことだった。







 ナギの祖父は幼かったナギ少年に、死ぬ間際言い残した。

「凪。おまえが今よりも幼い頃、喘息で生命の危機に遭ったことがある、わしはそれが不安でたまらない。身体の弱いおまえが一生、神と共にあるように、イザナギさまによくお願いしておくから、困ったことがあったら相談するといい。ちからになってくれるだろう」

 それだけ告げると、事切れた。

 このときのナギは5つほど。多感という年頃ではなかったこともあり、いまだに特別悲しいそぶりは見せていない。

 ナギの祖父が死んで数日してからだろうか。もともと父親だけで育ったナギは祖父にならって沐浴をしていた。

 そのとき突如として現れた18歳ほどの美丈夫な若者が白絹の着物を身に着け、勾玉や管玉をつけた首飾り姿で声をかけてきた、それがイザナギだったのである。

 ナギの祖父の願いによって、イザナギはナギの前に姿を見せることがかなったと言った。 

 ところで、父親だけ、というのは、ナギの母親はナギを産むと、大学生だった父親の前から姿を消したからだ。

 父の陸男は、まるでレ・ミゼラブルのファンティーヌと逆のようだった、と皮肉を交えて酔いつぶれる。

 ナギはレ・ミゼラブルのようなフランス文学よりも、ドイツ文学や日本古典をたしなむ少年だったので小首をかしげていると、父が教えてくれた。

「ファンティーヌはトロミエスという大学生の子供を産み落とすんだが、捨てられる。母親の死後コゼットはテナルディエ夫妻に引き取られて虐待を受ける。そこをジャン・ヴァルジャンが見つけて育てる。言ってみればおまえの母さんは、そのトロミエスと同じだな」

 父の陸男は神社を継がずに考古学者や海洋学者という肩書きで小遣い稼ぎをしている。

 勉強だけで食っていけるほど世の中は甘くないのに、ナギの父はそうしている。

「子供にとって母親は大切だからなぁ。しかし、最初からいないと、どういう気持ちだ、ナギ」

 あるとき、イザナギは意外なことを尋ねてきた。

「俺には母親がいたので、わからないんだ」

「神様なのに」

 ナギは笑ったが、イザナギのほうは真面目に尋ねたようだった。

「神でもわからないことは、あるってこと」

「僕は母さんがいなくたって平気だよ。父さんとそれに、イザナギさんがいる。寂しいと思ったことは一度もないね」

 イザナギはそれを聞いて、うれしそうに微笑んでいた。

「爺様と約束したものな。神は約束を破りはしない。ナギのことはきっと見守ってやる」




  


 ナギが11歳の誕生日を迎えたころである。

 さぎりの具合がすぐれず、とうとう何日も学校を休む日が続いた。 

「風邪でもこじらせたかな」

 大地はさほど心配そうではなかったようだが、イザナギは違っていた。

「いやな予感のしてならない」

「どういうこと、イザナギさん」

 イザナギはナギの問いに簡潔な答え方をしようと試みていたようで、眉間にしわを寄せながら言った。

「さぎりの身に危険が迫っている、何とかせねば」

 青い顔でさぎりの家の前に立ちつくすイザナギは、神というよりただの弱い男の姿として、小学生ふたりには窺えただろう。

「さぎりに会おう。せっかく来たんだ、あいさつくらいしていこうぜ」

 大地がイザナギに向けて片目を閉じた。

「気を使ってくれたらしいな」

 イザナギは遠慮がちに小さく笑った、イザナギは大地のことが苦手だったのだ。

 なぜなら大地の氏神はイザナギの子で3貴子と呼ばれるひとり、須佐之男(すさのお)の末裔だったからである。

 イザナギは根の堅洲国(ねのかたすくに、あの世)にいる母に会いたいと泣き喚くスサノオを叱りつけて、ナギの家に来る前は近江の多賀(滋賀県)に居を構えていた。大国主(おおくにぬし)のように国土を旅することもなく、土地神として鎮座していた。

「イザナギさん、スサノオが嫌いとか言ってる場合と違わないかい。さぎりを助けたいんだろ。あなた神様じゃないか、もっと『らしく』してよ」 

「ら、らしくってどういう」

 イザナギが、怯えの色を見せてナギに問いかける。ナギは深く息をついた。

「神様らしくって意味だよっ」

 しまいには怒鳴るのがナギの癖だった。

「名前は穏やかなくせに、怒ると怖いぞ」

「余計なこといってないで、さっさといけばっ」

 イザナギの背中を乱暴に押して、ナギはさぎりの家に入った。      

 さぎりの部屋は異様な空気に包まれており、ナギは入るや否や、顔をしかめて袖で口を覆った。

「なんだこの空気。変なにおいがする」

「さすが霊感が強い、じいさまの遺伝か」

 イザナギは茶化すように言ったが、表情は真剣そのものだ。ふだんは持ち歩かない『十握剣(とつかのつるぎ)』という剣を腰に佩いていた。 

「拳10個分の長さの剣、という意味だよね」

「そうだ、よく知っている」

「それの模造品、博物館においてたからね」 

 イザナギは肩をすくめた。

「模造品だって。そうか。現代では戦う必要がなくなったからな。だが、今はちがうぞ。気持ちを引き締めろ」

 ナギと大地は息を飲み込み、不穏な空気の立ち込めるさぎりの部屋の前へとやってきた。

 ドアノブに手をかける。

 すると向こう側から強烈な風が襲ってきて、ドアの開閉を制するように圧力をかけてきた。

「ナギ、大地。さぎりの無事を確認する。準備はいいか」

「いいよ」

 イザナギは剣を構えているので、ドアを開ける役はナギと大地が引き受けた。

「いくぞ。せえのっ」

 ドアをちからいっぱい開くと、すべてを吹き飛ばす勢いで風が吹き荒れた。

「いまだ、イザナギさん」

「よし」

 イザナギが部屋へ飛び込むとさぎりはベッドで横たわり虫の息だった、イザナギは胸にぶらさげていた勾玉をひとつ、とぐろを巻いた不気味な紫の霧へと放り投げる。

 勾玉を避けるかのように、紫の霧は遠ざかっていき、さぎりの呼吸は安定した。

「風がやんだぜ、ナギ」

 大地とナギはゆっくりした足取りで、イザナギの背後に回ってあたりを見回した。

 イザナギのおいた勾玉は、さぎりの周囲を漂っていた怪しい霧を吸い込んでいるところだった。

「この空気、いったいなんなの。ねえイザナギさん」

「これは呪いの霧だ」

「呪いだって。ど、どういうこと」

 イザナギは剣の刃をくわえ、瞼を閉じた。占いが古来から存在し、これもまじないの一種で、先見すなわち先読みの呪術である。

 しばらくして剣を鞘へ戻し、ナギと大地に告げた。

「まずいな。呪いをかけた相手が悪すぎる。こちらへ来るぞ」

「ええっ」

 ナギと大地は同時に声を上げていた。

「案ずることはない。俺がいる」

 イザナギは白い歯を見せ、豪快に笑った。

「いや、悪いけど、イザナギさんのその笑顔は逆に不安になるんで」

「どっ、どういう意味だそれっ」  

「おまえらケンカしてる場合ちゃうだろ。さぎりが起きるぜ。なんて言ってやるつもりだよ」

 大地はさぎりのほうを顎でしゃくって見せた。むろん、イザナギに対してである。

「ほう大地。おまえはあれか、神サマを顎で使おうとか思っちゃってるわけか。なかなか可愛い」

「そうじゃねえよ。あんたに気ィ使ってるだけじゃん。まったく空気読めねえオッサンだなあ」

 イザナギは大地にしてやられることが多い。

「う、ううむ」

 理論的に言いくるめられるわけではないのに、威圧があって反論できない。諦めて言葉を飲み込むしかなかった。

「大地。心配することない。イザナギさんにまかせろ」

「そうかね、頼りねえからなあ」

 イザナギは大地へのツッコミもお疲れのようだ。無視を決め込んでいた。

 そのうち、さぎりが意識を回復し、目覚めた。

「あ、ナギ、それに大地も」

「さぎり、大丈夫。イザナギさんもいるからね」

 ナギがイザナギの名前を出すと、さぎりは頬を赤らめながら飛び起きた。

 イザナギもまた、かける言葉を模索している様子だった。

「いやっ。私、こんな格好で」

 羞恥からか、顔を隠したがるさぎりの顎に手をかけて、イザナギは微笑んだ。

「気にしないでいい。きみが無事でよかったよ」

 これだけで、魔法にかかったかのように、さぎりはうっとりとイザナギを見つめ返すのだ。

「プレイボーイだよなぁ、イザナギさんって。さすが『いざなう男』だ」

 イザナギには聞こえていたが、ナギは小声でつぶやいた。 

             





 ときにイザナミという女神がいた、このイザナミはイザナギの妻であり、妹。

 古代の神々は、もとい天皇もそうだが、異母兄弟すなわち腹違いならば婚姻を認められたのである。

 イザナギの妻はとある神社に鎮座していた。そこには黄泉津比良坂といわれるこの世とあの世をむすぶトンネルのようなものがあった。

 彼女はさぎりに呪いをかけていた張本人でもある。イザナギは正体を見抜いていた。

 イザナミは夫の勾玉から発する光にはじかれ、吹き飛ばされた。

「くっ、バレたか」

 作戦は失敗した。イザナミは次の手を打つしかなかった。

「あのような小娘に手を出そうなど、腹立たしいにもほどがある。かくなるうえは」

 イザナミの表情はにわかに凄まじいものとなり、頭には角が生え、口元には牙を生やした。

 その姿はまるで、鬼のようだった。

 イザナミは金輪を手に取った。金輪にはロウソクが刺してあり、ロウに炎を灯し、頭にかぶる。そして五寸釘と槌も忘れずに。

「牛の刻参りよ。ふっふっふ、これであいつをどうにかしてやる。黄泉の国まで落としてやるよ」

 イザナミは、蛇のような舌で口元をなめまわし、高らかな笑い声を立てていた。

      

  



  

「ねえ、イザナギさん。さぎりを呪ってる相手って、いったい誰なのさ」

 さぎりの家を出たところでナギが尋ねたが、イザナギは言うのをためらっていた様子で唸ってばかりいた。

「怖いので言いたくない」

「神様が怖いってなんだよ。あんた、腑抜けか」

 横から大地が口を挟んでくる。

 イザナギは腹立ち紛れに否定し、怒鳴りつけた。

「俺はフヌケなんかじゃねえ」

 ナギは普段よりも口調の悪いイザナギに小声で突っ込んだ。

「イザナギさん、キャラが違う」

「うるせえ。こうなりゃヤケだ」

 地面を蹴って歩くイザナギを見ながら、大地はおもしろそうに言った。

「へへっ。その意気、その意気」

「大地」     

 ナギはさすがにイザナギのことが不憫に思えたのだろうか、止めに走った。

「イザナギさん。やめたほうがいいんじゃないの。無理は禁物だって爺ちゃんがよく」

「来たか」

 イザナギは身構え、腰の剣に手を当てた。

 入り組んだ迷路のごとし住宅地。

 カーブミラーを目前にしたT字路に『それ』は現れた。

 しかし姿かたちは鏡に映ってなどいない。ようするに『それ』は、霊体であることを証明していた。

「あれって、まさか」

「ナギは大地と逃げろ。俺が必ずカタをつけてくる」

「ま、待ってよ。もしものことがあったらどうする気。神様も消えちゃうこと、あるんでしょ。僕はいやだ、イザナギさんが消えるなんて」

 イザナギは驚愕した表情でナギを見下ろす。だが次の刹那、穏やかな口調でこう言ってナギの頭をなでた。

「そう、霊体であっても、神であっても消滅することはある。それでもやらなくてはならないときが、あるんだよ」

 ナギは半泣きでその場を離れた。あとに残ったイザナギは、不気味な『それ』と対峙する。

『それ』はイザナギすなわち自分に対し、憎しみを持っているようにも思えた。

『それ』の手に持った槌と五寸釘を持つ手が微かに震えていた。

「どこまでも執拗なイザナミ。般若に姿を変えたか。滑稽な」

「なにをいう、わたしを黄泉へおいてきぼりにした狡猾な男め」

「おまえが黄泉の国の食べ物をくちにしたからだろうが。えい、お話の時間は終わりだ。決着をつけよう」

 般若のイザナミは、イザナギの首を鋭い釘の先で掻ききろうと飛び掛ってきた。

 釘の切っ先を避けると、今度は木槌を振り回した。槌はイザナギの剣をこすった。

 イザナギは避けるのが精一杯で、攻撃する隙を与えられず、かいた汗を拭うこともできずにいた。

「ふしゅるるる」

 と、奇妙な音を出しながら、イザナミは元夫への攻撃に手を緩めなかった。

 イザナギはこのような不気味な蛇魔人などと、愛を語らう趣味は持ち合わせていない。

 これできっぱり離縁だ、などと考えていた。何度かイザナミの攻撃を交わすうち、剣で突き刺すタイミングが読めてきたので、倒す準備を始めると。

「イザナギさん」

 イザナギの目の前に、苦しそうな表情のさぎりが現れた。イザナミの幻術である。

「私を殺すの、イザナギさん」

 思わず、剣を振り下ろす手を止めてしまう。敵はその瞬間を見逃さなかった。 

「調子に乗ってガキに色目使うから、こうなるのさ」

 イザナミの木槌がイザナギの頭上へと振り下ろされる。

「よせ。俺とおまえの世は、既に終わったのだ」

 イザナギは剣で槌を受け止めていた。火事場のなんとかというあれだろうか。般若の顔をしたイザナミは奇妙な声を出しながら、イザナギの言葉を聞いていた。

「こっ。してやる」

 イザナギは怪訝な表情をしてイザナミを見た。

 彼女は何かを念仏のようにつぶやいていたからだ。

 イザナギは注意してイザナミのつぶやきに耳をすませた。

「終わってなどいるものか。殺してやる、イザナギ。殺してやるう。そして、おまえの持つすべてを壊してくれようぞ」

「イザナギさん」

 突然自分の名前を呼ばれ、何事かと振り返れば、とんでもない物体が勢いをつけて突っ込んできたではないか。

 これにはイザナギ、我が目を疑い何度もまばたき、物体を凝視していた。

「どこからその、クレーン車持ってきたんだ」

 とナギの言う。

 答える間もなく、運転者の大地はクレーンを巧みに操作し、イザナミを容赦なくクレーンの大玉で殴り飛ばした。骨の砕ける音が響く。

「うっわ、いたそっ」

 ナギは横を向き、イザナミの哀れな姿を見ないようにつとめた。

「免許もないのに乗っちゃイヤン」

 などというキャラではなさそうなイザナミだが、ぶっ飛ばされ全身ぼろぼろにされていた。

「くそ、おぼえておれ。この仮は必ず返してくれる」

「化け物か、もう復活してるぜ」

「しっつれいな、化け物ではないわっ。おぼえてろっ」

 イザナミは呪文を唱えると、どこへともなく姿をくらました。

「大地。おまえは重機の熟練者だったのか」

「父ちゃんのを見ておぼえたんだ。どうだい、おれがいてよかっただろ、イザナギさん」

 大地は得意そうに鼻をこすっていたが、イザナギは笑顔を引きつらせながら大地を諭す。大人としてはそれが普通の対応というものであろう、いや、神だった。

「あ、ありがたかったが、やはり物には限度というのがあるからなぁ。今後は控えたほうがいいと思うぞ」

「うれしくなかったのかよ、助けてやったのに」

「そうではない。そうではないんだが、神としては複雑な」

 大地は押しの強い性格なので、ナギも反論できずイザナギ同様、暴走気味の大地が苦手なようである。 







 しこたまやられたイザナミの次なる手。

 イザナギとさぎりの信頼関係を破壊し、ナギや大地とのつながりを絶つこと、これに尽きた。

「孤独を味わうがいい。わたしを裏切った罰だ、イザナギ。この匂いはスサノオか。それにナギといったか、気になる。あの少年は何者なのだ」

 親にとって子は、かすがいという。

 つまり、夫婦をつなぎとめる、何よりも大切な存在なのだが、イザナミにとってのかすがいはスサノオということになる。

「スサノオ、あの子は根の国の立派な王になっている。大地はその分け御霊をもつ子供なのか」

 分け御霊とは神の本体から分かれた御霊、すなわち霊魂である。

 ほかにも幸魂(さきみたま)とか和魂(にぎみたま)荒魂(あらみたま)など、神々には火地風水の能力が備わり、大地の場合もスサノオの魂が一部入っていて、イザナミはそこに気づいたというわけだろう。

「まだ希望は残っていたのね。でも、あの子がかすがいになっても、イザナギは。あの人はきっと」

 表情は般若のまま、イザナミは何かに想いをめぐらせた。     

「やはり、孤独にしてやろう。あいつを深淵のふちへ追い込んでやる、そしてわたしを捨てたこと、悔いればいい」

 イザナミの口元が徐々に裂けていった、完全な般若顔の完成である。

 こうしてイザナミは、明け方近くまで元夫イザナギを追い込むための策を練り始めた。

「まずはナギから手に入れよう。あの少年がなぜ気にかかるのか、正体を突き止めねば」

 





 

 クレーン車でイザナミを襲撃した翌日のことだ。

 その晩遅く、ナギは自分のベッドで深い眠りに落ちていた。

 窓も開いていないのに、白いレースのカーテンが風で揺れ動く。

 ナギは不審な気配で目を覚ました。

「イザナミッ」

 叫ぶが、イザナミの様子はおかしかった。

 あきらかに、先日までのようではない。それでも警戒し、ナギは訝しげに対応した。

「ナギくん。申し訳なかったわ。本当に」

「気でも変わったの」

「そうね。今までのこと、謝りたくて。ごめんなさいね、怖い思いをさせてしまったようで」

 ナギはそれがイザナミの本心と思い込んだらしく、警戒心を解き始めていた。

「お詫びにいいことを教えましょう。イザナギはあなたや仲間を裏切っているのよ」

「どういうこと」

 ナギは怪訝そうに眉を動かし、イザナミに尋ねた。

「イザナギは嘘をついているということよ。あなたやさぎりさん、大地さんも騙そうとしててね」

「騙すって、イザナギさんが」

「本当よ、信じて」

 イザナミは自分への行動を不審そうに見たナギに幻術をかける。

「わかった、信じる」

「ありがとう。よかったわ。これであなたたちを救ってあげられる」

「救うって、何から」

「もちろん、イザナギの呪縛からよ。今なら間に合うわ。イザナギの元を離れなさい、そしてわたしと来るのよ」

 イザナミは懐から奇妙な食べ物を出し、ナギに渡した。

「さあ、食べて。これはわたしからの贈り物。受け取りなさい」

「ありがとう、いただきます」

 イザナミは美しい女の仮面をかぶっていたに過ぎない。ナギがイザナミの食べ物をくちにしたとたん、女神は般若の顔に変化した。

「まずはひとり目。黄泉の国の食べ物をくちにすると、この世に帰れないのよ。イザナギ、思い知れ」

 この方法で大地も取り入れたのだが、残るさぎりの家にだけは、なぜか手が出せずにいた。

「おかしい。結界のようなものが張り巡らされているのか。さぎりの家に入れない。かくなるうえは」

 イザナミは操縦できるようになったナギと大地を使い、さぎりの家へと忍び込ませた。

 一方でイザナギはその頃、さぎりの部屋で寝ずの番をしていた。

 うなされ続ける、さぎりを案じてのことである。

「ナギ。大地もそっちへいっちゃだめ」

「どうした、さぎり」

 穏やかな口調でさぎりの顔を覗き込む。苦しそうに呼吸を荒くするさぎり。イザナギは不安だった。

「ただでさえ、不穏な空気が流れてきている。なにかが起こる前兆」

 独り言をつぶやいた刹那。イザナギが耳にしたのは、乱暴な動作で扉を開く音。

 思わず身構えた。

 現れたのはナギと大地。瞳には闇の色しか浮かんでいなかった。

「おまえたち、あの世の物を食ったか。死者のにおいがするぞ」

「そのとおり。この子たちは、あたしがもらっていくよ」

 イザナギは元妻に差し向けてやろうと剣を探したが見当たらない。

 腰に佩いていた十握剣(とつかのつるぎ)は、ナギが奪い、手にしていた。 

「よせ、ナギ。それはおまえに扱える代物ではない」

「さあどうかしら。見せておあげなさい、あなたの実力を。倭の兵(やまとのつわもの)としての力量をね」

 ナギはイザナギに剣を振るった。イザナギは彼が非力なのを既知していたので、すばやく避けた。

 だが問題は、体力馬鹿の大地への対処である。こちらはナギのようにいかなかった。

「や、やめろ」

「存分にね。ナギは使えない子だけど、あなたはいい子だわ。さあ、首を思い切り締めつけてやるのよ」 

 血の気の失せていくイザナギ。その首を徐々に締め上げる大地の腕。 

 イザナギはもはや、話す気力すらなかった。

「これで済んだと思わないことね。これからよ、おまえに見せる地獄とやらは」

 イザナミはさぎりの下へ歩を進める。

「この子を殺せばおしまい。でもそうね。どうせならただ殺すんじゃなくて、こうしましょう」

 般若の顔を現し、イザナミはさぎりの胸に五寸釘を近づけた。

 反対の手には槌を持つ。

 イザナギがようやく瞼を押し上げた頃、視界へ飛び込んできた光景に目を見張った。

「さぎり」

 声を絞り出すのがやっとのようだった。イザナミはイザナギの苦悶する様子を心底楽しんでいるようだった。高らかな笑い声を響かせた。

「これよ。わたしが長らく望んでいた結末は。どうだイザナギ。少しは味わえたか、わたしの味わった苦しみを。だがこんなもので済むものか。最後にこうしてくれよう」

 イザナミは、さぎりの心臓へ五寸釘を打ち込もうと、釘と同時に槌も振り下ろす。

 イザナギがちからの限り、さぎりの名を叫ぶと同時、意識を取り戻したナギが、イザナミにしがみつき涙を流し膝をついていた。

 死者のものを食べると、死人になる。今のナギは死人と同じであった。そのため言葉を話せないでいる。ただ涙ぐみ、イザナミの腕にしがみついているのだ。

「ナギ」

 イザナギは大地の馬鹿力に負け意識を失い、くずおれた。

 ナギは母の面影を追い求めているのだろう、イザナミに近づいていった。

「大地ではない。スサノオの血を引くあの子でなく、あなたがわたしを求めていたのね。いいわ、行きましょう」

 イザナミの表情から般若の心が失せかけていた。ナギを見下ろすその瞳は、まさしく母のそれであった。






 

 大地にかけた妖術は、ナギにかけられたものより弱かったようだ。じきに我を取り戻した。

 スサノオの血を引く能力はすさまじいものがある。イザナギは非常に感心したものだ。

「ナギはどこへ消えちまったんだい」

 大地はイザナギに尋ねていた。操られていた間のことはおぼえていないようだった。 

「女狐め。俺のことをさんざん、裏切り者扱いしておいて、挙句にこれかっ」

「私もナギを助けたい。お願い、連れて行って。イザナミさんがいるところへ」

「ばか。おまえは連れて行けない」

 イザナギはありったけの感情を込め、低い声で言った。

「なんでだよ。一緒に連れて行こうぜ。イザナギさん」 

「だめだ。絶対だめだっ」

「ばかはどっちよ。イザナギさんのことも心配してるのに、知らない」

 膨れ面をしながら、さぎりは部屋へ閉じこもる。

「岩戸がくれかよ。イザナギさん。さぎり怒らすと手がつけられねえんだ」

「いやだめだ。イザナミは恐らく、さぎりのことも襲うはず。標的にしやすいためだろう。大地、おまえに頼みがある」   

 イザナギはこのときばかりは大地に遠慮などせず、まっすぐ見つめながら言った。

「俺のいない間、さぎりを抑えていてくれないか」

 大地はふたつ返事で了承した。

「そうだな。足手まといだ、なんていうと余計怒るからな。おれにまかせろ、気をつけて行って来なよ」

 こうしてイザナギは、ナギの祖父と交わした約束を守れなかったことで、激しい後悔の念にとらわれたまま、黄泉へと向かった。

 






 イザナギは、幼いナギと足を運んだ公園へやってきた。

「ここでよく遊んだなあ」

 イザナギは過去の思い出を引きずりつつ、黄泉への入り口へ足を踏み入れた。

 公園の奥には森林があって、夏になれば多くの人間が涼みに来る。

 今は冬なので人通りは少なかった。好都合である。イザナギの姿はナギを含めた子供たちにしか見えなかったが、イザナギからすれば視線が気になったのだ。

 森はやがて、深き闇に飲み込まれていく。闇の一部にさしかかると、イザナギは伯耆(ほうき、鳥取)にあるという箸墓(神倭百襲比売の墓といわれる)によく似た盛り土がしてあり、その箸墓を丁寧に崩し穴をこしらえ、湯津爪櫛(ゆつつまぐし)の櫛から一本折って、火を灯した。

 こうすると周囲に目を凝らすことが可能になるはずだが、イザナギは何も見ることすら、かなわずにいた。

「おかしい。このあたりのはずだが」

 イザナギの探していたのは、イザナミが黄泉に来て以来、住んでいたアズマ屋である。

 イザナミは火の神カグツチ(鍛冶の神)を産み、それがもとになって幽(かく)れてしまった。

 その幽れ場所がここなのだ、しかし一向に見当たらないとなると、考えられる答えはひとつである。

「どこかへ移り住んだかな。しかたない、一度戻ろう」 

 イザナギは櫛から炎を吹き消し、もと来た道を帰り、公園の入り口までたどり着くのだった。  








 ナギの家に戻ると、ナギの父陸男が書斎にこもって原稿を執筆している最中に出くわした。

 イザナギはナギの父に姿を見られることはないので、部屋の前を通過しかけた。

「やあ。待っていたよ、足音が聞こえたのでね。ちょうど聞きたいことがあったのでよかった」

 イザナギは悲鳴を上げた、いつものように姿が見えないのではなかったか。

 イザナギが仰天しているサマが愉快なのか、ナギの父は笑いながらその理由を答えてくれた。

「なあに、かんたんさ。父さんが、おふだを残していってくれてね。ずっと封印していて、いつ使おうか迷ってた。お陰であんたを見られるようになったんだ」

「それで俺に聞きたいこととは」

「ほかでもないナギのことだよ」

 イザナギはリビングのソファに腰掛け、ナギの父の話を聞くことにした。

「イザナギさん。どうしてナギは帰ってこないんだい。その理由をあんたは知ってるんだろう」

「いや、知らない。神であっても知らぬことはある」

 つい大げさな演技をするため胸をそらし、嘘をついてしまった。もちろん悔いてはいたが、不安がらせないための嘘もある。イザナギはそれに従ったまでのこと。

「父さんが言っていた。ナギや子供たちの身に不幸が起こるはずだから、ちゃんと対処できるように、自分が神様に命がけで守ってくれるよう頼んだと。そのときはオレ、まだ意味がわからなくてね。だけどこうしてナギが帰ってこないところを見ると、何かあったのではないかと不安になる」

「あの爺さん、そんなことを」

 ナギの父はグラスにブランデーを継ぎ足すと、勢いよくあおった。

「ナギたちの身に起こる不吉なこととは、いったい何なんだ。教えてくれ」

 イザナギは正直なところ、戸惑い始めていた。

 打ち明けたところでどうなるだろう。さぎりのように一緒についていきたいなどと、無茶を言わないだろうか。 

 そのことが、さぎりの真剣な訴えるようなまなざしが、イザナギの胸中を占めていた。 

「まさか、あんたはこう思ってないだろうな。オレが一緒にどこかへ行きたいとでも言い出しはしないか、そのことが不安なんだろう」

 心の中を読まれたのではないか、とイザナギは冷や汗を拭った。

「馬鹿なことを。オレには仕事があるんだ、このクソ忙しいときにくだらんことを言うわけない。いや、そうじゃない。言いたかったのはそうじゃ」

 酔ってろれつがまわらないようだ。イザナギはただ向かい合わせに腰かけて、ナギの父を同情しながら見つめていた。

「あっそうだ、忘れるところだった。じつは父さんから、あんたに渡すよう頼まれてたものがあったんだよ」

「なんだって」

 千鳥足で立ち上がり、クローゼットを開けるナギの父は、古い布に包んだ剣を差し出した。

「これだよ。なんでも父さんいわく『伊津之尾羽張』とか言ったっけ」

「イツノオハバリ、か。刃こぼれひとつしていない。これをどこで」

「さあ、父さんは神社を継がなかったオレには、何も教えてくれなかったし、聞こうともしなかったしね。まあ、今思うと、そうしておけばよかったんじゃないかとすら、思うんだが。もしナギの身に何かあったんなら、これでナギを助けてくれるか」

 イザナギはその言葉に頷く決心をした。親に子供の危機を隠すのはよくない、と考えた結果である。

「すまない。詳しいことは言えないが、ナギは連れて帰る」

 さすがに仮死状態であることまでは、言えずにいた。

 ナギの父は胸をなでおろしたように、イザナギの両肩をつかみ、支えにした。

「飲みすぎだ、ほどほどにしとけよ」

 ナギの父は、イザナギの言葉に頭をかいていた。



 

  ※ちなみにイザナギの黄泉探訪の古事記原文『左の御角髪(みみずら)に刺せる湯津爪櫛…』左側に髪留めとして使うことで呪術的な意味を得ていたらしい。古代の男性がお守り代わりで頭に飾る櫛のこと。神倭百襲比売(かむやまとももそひめ)は三輪山の大物主神(正体は白蛇)が毎晩通ってきたお姫様。

    

 

 



 ナギの消息が途絶えてから3年経過した。

 ナギの父はイザナギのため、その道の研究家に頼み、霊のような存在を具現化できる薬品による『マテリアライズ』に成功した。

「マテリアライズによって物理的に見えるようになりはしたが、欠点は、あんたが神じゃなくなるということ、つまり、不死ではなくなったということで、年も重ねるだろう。それでもいいのかい」

 そういわれると、悩むことにもなった。 

 そしてナギの父が言うように、姿が見えるようになったイザナギにとっては、不便なことのほうが多かった。

「時代錯誤の甚だしい服装」

 と言ったのは、大地でなく意外にもさぎりだった。 

「現代風の服着てよ。埴輪みたいな服は、いや。デートもしてあげられない」

「そ、そうかな。これが俺の最高の『ふぁっしょん』というやつなのだが」

「なあにそれ。だっさいの」

 14歳のさぎりは、少し成長したのか、ブランド物の雑誌に目を通すようになっていた。

「あっクロエ。これ欲しい。誰に買ってもらおうかなぁ」

「だ、誰にだとっ。さぎり、おまえ誰に買わせるつもりだ」

「あぁら。いたのイザナギさん。私ブランドの『ブ』の字も知らないような人と、付き合いたくありまっせんから」

 つれない態度に冷たい視線で、イザナギを物差しで計るようにしか見なくなってしまった少女。

 無垢だった彼女は、すっかり変貌してしまっていた。

 イザナギは、あまりの物言いに腹が立つのを通り越して、言葉を失った。



 



 

「なにもそこまで言わんでも。だいたい俺のどこがダサいんだっ」

「まあまあ。イザナギさんも悪いんだぜ。あのときナギを助けに行くっていったさぎりを、連れて行けばよかったんだ。あのときからじゃん、さぎりがおかしいの」

 言われてみれば、と大地に突っ込まれたイザナギは過去を振り返ってみる。

「そんなに悪い態度をとったかなあ」

「ははっ、神様が落ち込むな。女ってのは微妙でさぁ。モノさえ与えときゃあ、機嫌がよくなるんだぜ。まっ、おれの彼女もそういうフシはあるな」

「彼女。いつの間に」

「プレイボーイは、あんただけじゃないんだよ」

 大地が神社へ勉強会に行く時間となり、イザナギはまた、ひとりになった。

「しかし、あの大地が神官に、とはなあ」

 イザナギは感心しながら独り言をつぶやいた。

 やはりナギのことが心に引っかかっているのだろう。イザナギは胸を痛めた。

 それにしてもさぎりの変貌振りは、おそろしかった。昨日のことすら思い出すと背筋が凍りつく。

「今日はイヴサンローラン買ってぇ。買えないの、じゃあ私を愛してないのよ。神様は貴族でお金持ちだって、大地が教えてくれたわ。ナギがいても同じように教えてくれたわね」

 イザナギはそのことを突かれると、弱かった。

「な、なんなんだ、そのなんとかって」

「知らないの。ブランドよ、ブランド。クラスのみんなは持ってるのに、私だけノンブランドじゃ、話にもついてけないわ」

「さぎり」

「お話にならないような人とは、顔も合わせたくない。あなたへの百年の愛は醒めました。これからは百年の孤独を味わうのよ。さあ、この部屋から出てって」

「そ、その百年の孤独は、誰が味わうの」

 かなり弱腰で、しかもか細い声でさぎりに尋ねるイザナギ。

 さぎりは無表情のままでドアを半分閉じながら答えた。

「は。決まってるでしょ、あ な た よっ」

 完全に締め出されてしまった。 

 こうなるとイザナギは、居場所のないことをいまさらながら、思い知らされた。

 ナギの家に世話になろうにも、かんじんのナギがいないのでは、立場上居候しづらい。

 大地はもうじき他県の学校を受験するため引越しがある。

 肉体は、神の頃であればまだよかったことも、今ではマテリアライズされてしまって生身である。

 見かけの若々しいのを利用してアヤシイ商売でも、つまり最近流行の男女問わずのなんとやらを始めてみるか、などと狂った思考にもなった。

 だがそれでは、ナギを探せなくなってしまう。物や金にだけは執着したくなかった。

「いくらなんでも神がカネに執着するのは、マズイだろう」

 ナギならばきっと、そういうだろう。我に返るとイザナギは繁華街をうろついていた。  

 それこそ怪しい呼び込みが勢ぞろいで、右に左にとイザナギの腕を引っ張ろうとする。

「は、離せっ。おまえらに用はねえ」

 呼び込みの若作り女は、頬を膨らませてイザナギを蹴るしぐさ。

 イザナギは胸を痛めた、これがヤマトと呼ばれた日本の姿なのだと。

「お兄さん、ステキね。うちで一杯飲んでいかない。安くしとくわ」

 呼び込みの娘をよく見れば、今まで見たこともないような、昔のさぎりに少し似た純粋そうな少女であった。

「いや、こんな日本でも悪くないんじゃないかな。いくいくぅ」

 イザナギは鼻の下を伸ばすと、呼び込みの娘についていった。   

  




「そ。閉め出したら帰ってきてねえのよ、あのばかちん」

 居間の電話で話をしているさぎり。夜半を過ぎようとしていた。

「神様にばかちんはないぞ、さぎり」

 電話の相手は、大地である。

「いいんだよ。あんなもん馬鹿チンで。ブランドひとつ買えないなんて、情けない男だろ」

「変わったなあ。ナギがそれ聞いたら、なんつうのかなあ」

 さぎりが言いかけた刹那、玄関先で派手な音が響いた。さぎりは息を呑む。

「どうした。なんだ、今の音」

「悪い大地。ちょっと見てくる」

 受話器を置いて玄関へ走った。

「さぎりちゃん。すまないね、こんな遅く」

 ナギの父に介抱され、酔いつぶれているイザナギの前で、さぎりは腰に手を当て仁王立ちをしていた。  

 さぎりの両親はいつも留守がちなので、普段はイザナギとふたりきりである。

 ナギの父が帰宅してしまうと、静寂がさぎりの家を包んでいた。

 イザナギは自分のベッドで高いびきをかいて眠っている。

「いい気なもんだ。人の気も知らずして」       

 さぎりはイザナギの服にまとわりつく、くすぐるような匂いに鼻を動かした。

「こ、これは、欲しかったブランドの香水。私には買ってくれなかったくせに。浮気してんのか、こいつっ」

 羽根枕を思い切りイザナギにたたきつける。何度もたたいているうちに袋が破けて羽根が散る。

「ムキーッ、くたばれ、くたばれくたばれくたばれっ」

 散らばった羽根がイザナギの顔に当たり、息苦しくなって目を覚ます。

「許さない、絶対ゆるさねえからっ。私が欲しかった香水を誰に買ってあげたんだっ。正直に言え」

「なんのこと、香水って」

「とぼけるな。匂うだろぷんぷんに。誰に買い与えたのか白状しろ」

「買ってないよ」   

「いやあああ。シャネルのバッグだって、ほしいのにいいいいいいいいいいいっ」

 イザナギのベッドに突っ伏して大泣きを始めた。

 さぎりが、こわれた。

 イザナギはすっかり酔いも醒めてしまい、身震いしてから立ち上がった。

「待て。どこへ行く」

 ティッシュで鼻を拭くさぎりは、再び外出でもするのか確認する意味で尋ねたに相違なかった。

「トイレ。おまえ、俺の見たいの」

「本当にトイレなら、ついていかねえわっ」

 さぎりは羽根枕の破片をイザナギの顔面へと投げつけ、部屋を出て行った。

「おい、もしもし。さぎり聞こえてる、もしもし」

 電話の向こうで必死に呼びかける、忘れ去られた大地が不憫である。  

  

      


  当然のことながら、イザナギはナギのことを忘れたわけではなく、さぎりの素行の悪さに手を焼いていたこともあって、時々思い出すくらいしか出来ずじまいだった。

 伊津之尾羽張、つまり刃こぼれひとつない立派な剣をナギの父陸男から受け取ったときから、イザナギは心に決めていた。

 ナギの祖父宗一郎が自分に残してくれたこの剣で、必ずナギを救い出そう。と。

「ねえ、いざりん。ちょっと出かけてきていい」

 最近のさぎりはイザナギにあだ名をつけて呼ぶようになった。

「出かけるって、どこにだ」

「クリスマスパーティ。教会いくの、いざりんは違う宗教の神様でしょ。お呼びじゃないからね」

「ひでえ言われよう」

 さぎりの後ろから大地が顔を出す。

「大地も行くでしょ」

「いや。おれも宗派ちがうから、ここで待ってる」 

 大地はイザナギの顔を見ながら、引きつった笑みを浮かべていた。

「あっそ。いざりん、ちゃんと留守番してんだぞ」

「ちょッ、待てさぎり。人を、いや神をなんだとっ」

「番犬代わりにでも思ってんじゃねえの」

 どう聞いても大地の慰めとも思えぬ言葉に、イザナギは瞳を潤ませ、とうとう泣き出した。

「ば」

 イザナギは、がっくりと膝をつき、床に頭をこすりつけた。

「くううっ、なさけないっ。これでもいちおう、国産んだ神様なんだがっ」

「気を落とすなって。あ、そうだ。こんなことしてられねえよ。じつはさ、イザナギさん。おれ、ある筋からいい話聞いてきた」

「いい話」

「ナギが、見つかった」

 イザナギはその言葉に大地を凝視する。

「ほんとうか」

「聞いたのは、おれの行ってる神社の宮司さんだ。おれくらいの男の子と若い女が一緒にそこで参拝してたのを見かけたって、いってたぜ」

「若い女というのは、イザナミだな。そうか」

 イザナギの表情に和らぎが戻っていた。心底胸をなでおろしていたのだ。ナギの祖父との約束はまだ生きている。そしてナギが存在していることに。

 黄泉の国、根の国ともいうがそこへ行ったとき、イザナミのアズマ屋は見当たらなかった。

 大地の話から察するに、おそらくイザナミは、根の国ではなくこちらの現世へとやってきているのだろう。

「ナギはまだ生きていたんだ。あの世の物をくちにすれば、二度とこちらに帰れないはずなのに」

「それってどういうことだろうな。ナギは死んだ。それなのにおれのいる神社に来てんだぜ。おかしいだろ」

「イザナミに会って、直接聞くしかあるまい。直談判してナギを返してもらう」

 イザナギはイツノオハバリを布から出し、鞘から出した。

「神殺しの剣とまでいわれている。これでイザナミを討つ」

「イザナギさん」

 大地は不安そうにイザナギを見つめていた。イザナギは大地の視線に気がついた。

「どうした、そんな顔をして」

「本当にやるのかなと思って。あんたの妹だろ。後悔はしねえのか」

 イザナギは表情を堅くして、決意した答えを告げた。

「あいつはナギを奪っていった。だから、やられる前に手を打つしかないのだ」

「きっぱりいうね。さすが神様、かっこいい。なんでさぎりの前だとダセえのかなぁ」

 大地のツッコミにイザナギは頬を赤らめ、苦笑いして言った。

「よけいなお世話だっ」

        

    

    

 

 大地はイザナギを自分の通う神社へと連れて来た。

「ここがそうだよ」

 イザナギはあたりを見回した。

 社殿には千社札が張ってあり、御影石や神々が降り立ったときに腰かけられるよう用意された磐倉(いわくら)が設置されている。

 鎮守の森も美しく整備されていた。

「大地。きょうは現れるかな」

「毎日じゃないにしても、イザナミがこの近所を駆け回ってるらしいから、ここに立ち寄るかも」

「待つしかないのか」

 イザナギは疲弊してため息をついた。

「おれ、宮司さんに話してくる。朝早く来たかもしれない」

 イザナギは頷き、社殿を見た。立派な鰹木である。そのうち大地が宮司を連れてやって来た。

「見ましたよ、あなたのお連れだとか」

「ええ、まあ」

 自分が何者かは明かさずにおいた。神だと打ち明けたなら信じないか、あるいは腰を抜かしてしまうだろう。

「一緒に連れていた少年は顔色がすぐれなかったので、どうしたのか聞いてみました。すると、ご婦人が何でもないと答えてすぐ神社からお帰りになりましたが」

「そうですか」

「きょうも来るかはわかりませんね。しかし、わたしが見たところ、三日に一度はここへ立ち寄るようです」

 それだけ言うと、宮司は自宅へ戻っていった、イザナギは宮司の話を思い返す。

「三日に一度か。そうすると明日かあさってということになる」

「どうするよ、ここに泊り込んで待ってみるかい。宮司さんに頼んでみるけど」

 大地の箴言にそれもよいだろう、とイザナギは同意しかけた。

 だが思い直し、申し出を断った。  

「いや、また来よう。ナギよりも不安なのがいるからな」

「ああ、そうだった」

 大地は手をたたきながら叫んでいた。

「もし帰らなかったらイザナギさん、殺されるぜ」

「いうなっ。わかっていることを、いちいちと」

 イザナギは額に手を当てて、外泊したときのことを想像すると、泣きたくなっていたのだった。

「男が一泊くらいしたって、いいだろうになぁ。くうう、あの頃に帰りたいっ」

    

 


 さぎりの家に戻ると、小さな爆発音が聞こえてきた。何度もである。

 イザナギは呆れ果てていた。

 玄関先は大勢の客の靴で脱ぎ散らかし、足の踏み場もなかった。

「ひっでえな。さぎりのやつ、教会から戻ってきたのかな」

「それにしても大勢来たんだなあ。あの爆発音はなんだったんだ」

「クラッカーだろ。キリスト様のお祭りだから」

 居間へ歩を進めると、ケーキを切り分ける女子や、菓子を食べている男子などが多数テーブルを囲んでいた。

「こんにちは。さぎりのお兄さんですよねぇ。噂どおりカッコいいですね」

「マジすげえっす。さぎりちゃんと全然似てないくらい、ハンサムっす」

 さぎりのクラスメイトだろうが、口々に言いたい放題。

 祭りで興奮気味なのはわかる、とイザナギは思ったのだがそれ以上に許せない一言が、イザナギの逆鱗に触れてしまった。

「お に い さ ん」

 イザナギは凍りついた表情でさぎりを見た。さぎりはそっぽを向いている。  

「誰がお兄さんだ、俺に兄弟などおらん」

 誰かが、えっ、と声を上げたきり、沈黙がその場を包み込む。

 大地はイザナギの背後に立ち、息を呑んでいた。

「そ、そろそろお開きにしない。充分遊んだし、ねっ」

「そうっすね、おじゃましたっすぅ」

 イザナギに頭を下げて一同は外へ出て行った。

「どういうつもりなんだ、さぎり。友達を家にあげるのは構わんぞ。しかしな、俺をお兄さん呼ばわりするとは」

「違うの。いっつも保護者気取りでさ。兄貴じゃないなら、なんだっての」

「さぎり、開き直ってるぜ」

 大地が小声で突っ込んだ。

「大地には関係ない。さっさと帰れば。なんなら、いざりん熨斗つけて献上してやるけど」

「熨斗って」

 大地はイザナギとさぎりに挟まれ、かける言葉を考えているようだ。

「さぎり、いいかげんにしろ。俺だってこんな家、いたくているわけじゃない。おまえはいつも独りだし、俺が面倒見なければって」

「ほら、それ。また始まった。うざいんだよねぇ、そういう保護者ぶってる態度がさ。あなたなんていないほうがいい。さっきの友達だって、高価なプレゼントくれるんだもん、私が望めばみんなが何かをくれる。だから寂しくないわ」

「さぎり、それは言いすぎ」

 大地がようやく言葉をかけたころ、イザナギは怒りを通り越して悲しくなっていたので決定的な言葉を告げた。

「わかったさぎり。おまえにはもう、俺が必要ないのだな。いくぞ、大地」

「えっ、あ。うん」

 さぎりはソファに腰掛け、サッシから差し込む夕陽に照らされ、オレンジ色に染まりながらクッションを抱え込んでいた。 

 

 




「いいのかよ、イザナギさ」

 大地はイザナギの顔を見て大口を開いた。

「うう、どうしよう大地。俺、思い切り過ぎちゃったぁ」

 イザナギは涙で顔を汚しながら大地に抱きついてくる。

 さぎりの家からかなり離れた場所だったので、さぎりには見られずに済んだが、この光景を目にした通行人は、イザナギと大地を遠ざけ、かかわらないようにと視線をそらしていた。

「だったら言わなきゃいいのに。ほら、鼻水ふいて」

「だってだってだってだってええ」

「おお、よしよし。なんだっておれが神様をお守りしなくちゃ、ならんのか」

 大地はイザナギに汚されたシャツを着替えるため、自宅に戻る、イザナギも一緒であった。

「おれ考えたんだけど、いい機会だから、神社でイザナミを待ち伏せしてはどうだい。さぎりと距離を置きたいんだろ」

「うん、まあ」

 イザナギは気の進まぬまま曖昧に返事しておいた。

「おいっ。おれの話を聞け」

「うん、聞いてる」

「ほんとだろうなあ。それじゃあ宮司さんに伝えとくぞ、いいんだな」

「ああ、うん」

 大地は肩をすくめながら階段を下りていく。

 イザナギも少し間をおいてあとを追い、階段を下りた。

 大地が電話をしている。

「なあ、大地」

 電話を終えた大地は、背後からの声に驚き飛び上がった。 

「びびびびびっくりしたびっくりしたびっくり」

「大地も俺が邪魔か」

 イザナギは瞳をうるませ、大地に涙声で尋ねてくる。大地は困った顔をしながらイザナギに言った。

「男のおれにいちいち聞くな。そんなんわからねえよ。邪魔とはおもわねえけどな」

「うざいのかな」

「だから、それはないってばぁ」

 精一杯の慰めのつもりであろう、しかしイザナギは、大地の慰めさえも深読みしすぎていた。

「うわあくやしい、くやしいよお」

「毎度、たっきゅうびんで、す。あ」

 イザナギが大地に抱きついた瞬間、玄関のチャイムが鳴り、宅配便の青年と視線が合った。

 3名は硬直したまま動かなかった。いや、動けずにいた。

「ありがとうござい、ます」

 外界との隔てである扉は閉じられた。

「まずい、あのあんちゃん、完全に誤解したぞ。噂になりでもしたら」

「いいじゃないか、俺たちはそういう仲なんだよ」

 既に、こじつけに近い。

「イヤだ、おれがいやだ、おれがっ」

「ほらやっぱり、俺はうざい子なんじゃないかっ」

「だからそうじゃねえ。それよかさ。ナギ捜しに行こうぜ。おれもあいつに、会いたいからさ」

 イザナギは大地の言葉で明るさを取り戻した。涙を乾かすため、なおも執拗に大地のシャツで顔を拭く。

「着替えたばっかなのによぉ。弁償してくれ、弁償。生身になったらイザナギさん、涙もろくねえか」

「うるさいっ」

 こうしてこの日の夜は更けていった。






 翌日からイザナギは宮司の家に泊まりこみ、イザナミが来るのを待つことにした。

 大地は学校があるので、夕方は来てくれた。

 泊まったその日は何事もなく過ぎたが、2日目の朝だった。

 若い女が年頃の少年を連れて、詣でに来たのだ。

 イザナギは宮司宅のバルコニーから社殿を見下ろしており、神剣を手に階段を駆けおりた。

 息を切らせて2人連れを捜した。どこにもいない。

「く。どこだ、どこに行った」

 参道を隔てた向こう側に鎮守の森がある。短時間で姿を消せるとすれば、そこへ足を運んだのだろう。

 イザナギは意を決して森へ飛び込んだ。イザナミと遭遇したらすぐにでも斬りつけ、ナギを取り返そうとしていた。

 森の奥には泉が湧き出ており、泉の淵で2人連れが楽しそうに笑っていた。

「やっと見つけたぞ、イザナミ。ナギを返せ」

 肩で大きく呼吸するイザナギに、女は振り返った。  

 連れていた少年はナギだが、女はイザナミではなかった。イザナギは狐にでもつままれたのではないかという気になって、剣を収めた。

「イザナミはどうした」

「はい、それが。お幽れになりました」

「なにっ、幽れただと。なんの冗談だ、あいつが死ぬわけ」

「本当です、ナギ様を跡継ぎにしようとして、あのかたは」

 女は泣き崩れた。イザナギは片膝をつき、女から訳を聞きだそうと肩に手を置いた。

「申し遅れましたがわたくしは醜女(しこめ)と言います。イザナミ様はナギ様をそれはとても大切に育てたのです。ですが、黄泉の大王のご判断はナギ様を好ましくおもわないので、命を奪うようにと命令をしたのです」

「殺そうとしていたのか」

 イザナギは怒りがこみあげてきた。女は話を続けた。

「お厳しいだけだったのです。以前までは。ところがナギ様が根の国へおいでになってから、国は荒れました。いつもお住みになっていたアズマ屋も死人らの手で壊されました」

 イザナギは自分が黄泉へ旅立ったときに、跡形もなくアズマ屋が消えていたことを思い出していた。

「それで、黄泉の大王はどこにいる」

「いかがされるおつもりです、イザナギ様」

 醜女は青ざめた表情でイザナギを見据えた、イザナギはナギのほうを救いたい一心で見つめて告げた。

「どうするつもりだと。決まっている、ナギを守るのだ。どうせその大王とかいうのは、ナギを狙ってこちらに来るのだろう、イザナミと決着をつけたかったが、大王のほうが悪そうじゃないか」

「やめてください、あなたまでもがお怪我を」

「いまさら怪我くらいで騒ぐな。こいつはな醜女、こいつの爺様から預かった、大切な人間。失うわけには行かないんだ」

 ナギには死の臭いのまとわりつきはしていたが、まぎれもなく、そこに存在している。

 イザナギは涙をこぼし、懐かしさとか、愛情とか、まぜこぜの感情を以って抱きしめていた。

「お帰り。つらかっただろう、ナギ」

 イザナギが抱きしめようと、たとえ懐かしがろうとも、ナギには意思がないようだった。か細い呼吸で生きている、それだけのようだった。

 だがそれでも、イザナギにとっては大切な、大切な家族同然、それ以上の存在なのである。  

「申し訳ないのですが、ナギ様はまだ現世に帰れません」

 醜女は暗い面持ちでイザナギに告げた。

「どういうことだ」

「黄泉の物を食べてしまったナギ様に、お言葉を発することは愚か、意思さえもありません。すべては大王のものになっています。銀の竪琴を取り返せれば、あるいは」

「竪琴。それがあれば元に戻るのだな」

「おそらく」

 イザナギは決意した。ナギの両肩に手を置き、瞳を覗き込むが、光は帯びていなかった。

 落胆するイザナギではあったが、大王との決着をつけたほうが早いと、醜女のほうを向き直って尋ねた。

「醜女、ナギを頼む。俺はやはり決着をつけに行こう。場所を教えてくれ」

「とめても無駄のようですね。わかりました、お教えします。ナギ様のことはお任せください」

 醜女とナギはイザナギを高台からいつまでもいつまでも、見送っていた。    






 夕刻、黄泉へ向かう直前、イザナギは大地と、そしてさぎりに別れを告げようとしていた。

 さぎりとはあんな別れ方をしたが、愛おしい気持ちには偽りがなく、できるならやり直したかった。

 だがいまは、ナギを救済するほうが先決である。さぎりは学校から戻らないのか留守だったので、あきらめて大地に会おうと決める。 

「イザナミが死んだ」

 大地はそれを耳にすると、眉をひそめた。

「イザナギさん、気をつけたほうがいいぜ。その醜女っての、うさんくさくねえか」

「なにを言う。醜女はナギを助けてくれているんだぞ、その言い方はちょっと」

「まあ、イザナギさんがいいって言うなら何もいわねえよ。ただ、気になるからさ」

 大地は革の袋から大きな神鏡を取り出すと、イザナギに渡した。

「八咫の鏡(やたのかがみ)っていうらしいぜ。真実を映し出す鏡とかいってたな。宮司さんが貸してくれた」

「いいのか、ご神体だぞ」

「ナギが帰ってくるんだったら、おれ何があってもかまわねえよ。それと、生身のままじゃ危ないから、お守りの勾玉も持っていきな」

 イザナギは礼を言うと、町のはずれにある公園へと足を運んだ。 

 森の奥深くに根の国への道がつながっている。

 イザナギは深い穴の中へと足を踏み入れた。

 以前と同じように、櫛に炎を灯して闇の中を進んでいく。

 洞窟のようになった長いトンネルを進んでいくと、アズマ屋のあった場所ではなく、立派な宮殿へと続いていた。

「ようこそ、根の堅洲国へ。ここは天国、退屈な日常にさらば、来ればあなたも昇天間違いなし」 

 まるでどこぞの風俗店が大仰な宣伝文句を並べ立て、競争に勝とうとしているかのようである。

「やれやれ。どこの世界もおんなじだな」

 呆れたイザナギは、大きなずだ袋を肩にかけて、宮殿へ入った。

「いらっしゃいませぇ、いなばのしろうさぎ店へようこそぉ」

 出迎えたのは頭にウサギの耳をつけた娘である。

「た、たしかに白いね。あのう、黄泉の大王さんに会いたいんだけど」

 戦いにきたつもりが調子の狂ってしまう。  

 イザナギは頭をかきながら、うさぎの帰ってくるのを待った。

 しばらくして、背広姿の男が現れ、イザナギに挨拶を交わした。

「お客様、支配人に御用とか」

「しはいにん。たしかに支配はしてんだろうけどなあ。まあいいか。あのう、イザナギが来たと伝えてもらえますか」

「はい、イザナギ様ですね。承りました」

 イザナギはこれでまた待たされた。

 しばらくして、奥へどうぞと通された。

「おひさしぶりですね、親父殿。母上はどうしてますか。おや、生身か。こりゃ滑稽。生身になった国生み神が、黄泉の国へと恐れもせずに」

 支配人室にいたのは、イザナギが苦手としているスサノオだった。イザナギがマテリアライズしたことを、皮肉を交えて大笑いする。

 イザナギは納得してもいた、根の国の王者はこのスサノオだ。ではなぜ醜女は教えてくれなかったのかと。      

「イザナミは死んだそうだ」

「えっ。うそでしょう」

 スサノオはイザナギが、からかいにきたとでも思ったのか尋ね返した。

「醜女から聞いた」

「ご冗談を。母上は生きてます」

 スサノオは真顔でイザナギに告げた。イザナギは話がわからずに肩をすくめていた。

「ほんとうですよ、母上は生きてます。その証拠に魂がこちらに来ていません。何かの間違いでしょう」

「ばかな」

 イザナギは大地の言葉を思い出していた。

「醜女ってヤツ、うさんくさくねえか」

「親父殿、用事とはそれだけですか」

 訝しげに尋ねてくるスサノオに、イザナギは本題を伝えた。

「そうだった、スサノオ。ここに銀の竪琴があるはず。それを貸してくれ。そして、悪いがナギという少年の魂を返してくれないか。あれは俺の」

「そいつはできない」

 イザナギの言葉を聴き終わらぬうち否定した。

「なぜ」

「母上から頼まれてましてね。ナギと言う子の魂を解放しては危険だと。ナギは悪魔です。この黄泉にとって、よくない。それに竪琴なんてここにはありません」

「ばか、ナギは」

 言いかけてやめた。スサノオとは幼少の頃に別れたきりだった。

「ところで親父殿。わたしは」

「もういい、おまえはナギの命を奪うつもりなのだな、醜女の言ったとおりだ」

 イザナギはスサノオに鋭い視線を向けて剣を鞘から抜き放つ。

「わかりませんね。あなたのいう醜女とは、誰のことでしょう。それよりも聞いてほしいことが」

「うるさい。話など聞けるか。きさまには頼む余地など、最初からなかったのだ」

「その剣でわたしを殺すと。おもしろい。わたしもあなたの無神経でぶしつけな、そういうところが気に入らなくてね。受けてたちます」

 スサノオもまた、草薙の剣(くさなぎのつるぎ)を鞘から抜いた。

 ヤマタノオロチを倒したときに尻尾から現れた、神の剣である。  

「その剣とこの草薙、どちらが強いか、勝負しましょう」 

 イザナギが剣をかまえると、スサノオも同じようにかまえた。

 2人は同時に踏み込むと、間合いをつめ、剣戟を鳴らした。

 にらみ合い、剣の刃をこすりあわせると金属音が響いた。

「ここでは狭い。場所を変えましょう」

 肩で息を切らせ、スサノオは外苑を提案した。   

「いいだろう。最期の舞台くらい決めさせてやる」

 スサノオの提案どおり外苑で再び剣を交える。

 かけ声と共に剣を打ち鳴らす2人、ひさびさに剣を持つスサノオには、少々無理が生じたようだった。

「ずっと机に向かって事務業でしたからね。身体が鈍ってしまいました」

「では、そろそろ負けを認めるということだな」

 イザナギは剣の切っ先でスサノオの鼻をかすめた。

「言ったはずです。わたしはまだ負けられない。あなたのような卑怯者にはね、親父殿」

「なにをっ」

 剣を逆さに構え、イザナギは、スサノオの右肩を直撃した。

 悲鳴を上げるスサノオに慈悲など無用と、さらに傷口を広げ、えぐった。

「ナギは必ず守ると約束したのだ。もう破るわけには、いかない」

 スサノオは急所の心臓を剣で貫かれ、大量の吐血をした。

「支配人」

 大勢の従業員がスサノオを支えて医務室へ向かう。

「あ、あなた惨いことをなさいますね。支配人が何をしたんです、人、いえ神殺しっ」

「おまえらも神のはしくれなら、闘って陣地を奪うくらいのこと、してみろよ」

 剣についた返り血を振り払い、イザナギは剣を鞘に収めて外苑を去った。 





「お疲れ様です」

 黄泉の入り口付近まで来ると、醜女が明かりを灯して待っていた。

 ナギはいなかった。

「終わったよ。大王は死んだ。ナギもこれで元に戻るだろう」

「ですが、竪琴がありません」

 イザナギは考えてから言った。

「そんなものなかったが。スサノオに聞いたが、知らないと言ってた」

 醜女は嘲笑するかのように高笑いを始めた。

「馬鹿なイザナギ。スサノオはあんたと仲直りしたかっただけなのにさ」

「なんだと」

「それを殺してしまうとは、なんと愚かな。あんたは本物の大馬鹿だね」

 イザナギは大地から借りた八咫の鏡を取り出して醜女にかざす。

 醜女の正体こそがイザナミだったのである。

「おのれ、よくも騙したな。ナギを返せ」

「出来ないって言っただろう。スサノオを丸め込むのだって苦労したんだ。それというのもあんたとのくだらない因縁を断ち切るための大芝居だったんだけどね。殺してくれてありがとう。おかげでわたしがここの王になれるよ」

 イザナミは腰に手を当ててイザナギを見下す態度をとっている。

 その様子をつい最近、どこかで見かけた気もするが、記憶の片隅へ追いやった。

「ようやく、あんたを忘れて新しい人生、いえ、神生をいきることに専念できる」

「そうはいかせない」

 イザナギはたった今、スサノオを斬った剣を鞘から抜き放った。

「ナギを返してもらうぞ」

「返せないって言ってるだろ。物分りの悪い男だね、しつこいよ」

「諦めが悪いと言えっ」

 剣の切っ先はイザナミの着物のすそを引きちぎった。

 イザナミは悲鳴を上げる。さらに追い討ちをかけるように、イザナギは剣を振り上げた。

「終わりにしよう。イザナミ」

 そのときだった、神鏡が光り輝き、鏡はイザナギに何かを伝えたがっていた。

 イザナギが振り上げた剣をおろし、鏡を覗くと、ナギの姿が映し出されていた。

 鏡の中のナギはイザナミを愛しそうな眼差しで見つめていた。幸せそうに笑顔で、イザナミのあとをどこまでもついていく。

「どういうことなんだ、これは」

 イザナギは妹に尋ねた。

「知らないよ」

「ナギが言葉を話すには、どうしたらいいんだ、教えてくれ」

 イザナミは転んで泥だらけの服をはたくと、しかめ面で教えてくれた。

「本当はあの子に食わせた実は、黄泉の国のものじゃなかったんだよ。わたしが妖術をかけただけ。もうじき話せるよ」

 イザナミは面白くなさそうに暗い表情のまま、背中を向け、黄泉の国へ帰りかけた。

「待ってくれ。やり直そうとまでは言わないが、礼くらいは言わせて欲しい。ありがとう、ナギは命より大切なんだ」

「ふん。らしいわね、ナギも同じこといってたよ。でも知ってらして。あの子、月読(ツクヨミ)の分け御霊なんですよ」

 イザナミはそれだけ言い残し、はるか洞窟の奥へ姿を消していった。







 イザナギが公園に戻ってくると、大地、さぎり、そしてナギが、イザナギの帰りを待っていてくれた。

 さぎりはイザナギが無事だと知ると、頬を膨らませてなじってきた。

「どうして無事だったんだよ」

「さぎり」

 イザナギはさぎりの毒舌に脱力していた。

「なんでおまえは、そうかわいげがない」

「いざりんが悪いの。私にブランドのバッグや香水買ってくれないからっ」

「俺は神様だから、お金は賽銭でしか手に入らないんで」

 大地はイザナギの言い訳のような言葉に噴出した。

「賽銭は使っちゃだめだろ、賽銭は」

 イザナギは、自分を見つめているナギに気がつき、歩み寄った。

「お帰りなさい、イザナギさん」

 少し頬がこけてはいるがいつものナギだと、イザナギは安心した。

「ただいま。イザナミから聞いたよ、おまえ本当は」 

 ナギは小首を傾げたが、イザナギは長くなるのでやめておいた。

「なんでもない。ナギ、家に帰ろう。父上が待っている」

「あれえ。私ンちにはもう来ないんだぁ。来ないんだったら私、ここで言っちゃおうかなぁ。未成年に毎晩なにをしてたかって」

 さぎりがスネたように大声を出す。イザナギはさぎりの顔を覗き込み、何のことかわからないと、眉間にしわを寄せながら尋ねた。   

「俺がなにをしてたって」

「じつはロリコンだってこと、みんなにバラしてやる。たとえ手を出したのが嘘でも、町内の噂になる神様なんて、面白いだろう」

 さぎりは、白い歯を見せて笑い顔。

「おまえって小娘は」

「じゃあ、ナギの家じゃなくて私の家に戻ってよ。いいでしょ、愛してるわ」

 イザナギはさぎりが本心からそれを言っているならば、喜んでいただろう。しかし懐疑的にもなりつつあったイザナギである。

「おまえのその言葉に何度苦い汁を飲まされたことか。俺はもう騙されんぞ。ナギの家にいく」

「じゃあ、ばらすけどいいね。あのこと言っちゃうよ、ねえってばあ」

 ナギはさぎりの変貌に衝撃を受けていたようで、大地に耳打ちした。

「な、大地。さぎりって、ああいうキャラだっけ」

「ナギ。時代は変わるものなんだよ。ブランド志向になったりとか、イザナギさんを手玉にとったりとか、微妙にこええよ」

「ブ、ブランド」

 ナギは目を見張りながらさぎりを見つめ、イザナギの弱腰ぶりにも驚いていたようだった。


 



 あとからイザナギが知ったことだが、さぎりはイザナミの荒御霊(あらみたま、激しい性格)が乗り移ったものらしい、と。

「どうりで。それで納得したぞ」

「あら。なにが納得したの」  

 イザナギは今日もさぎりにブランド品をねだられることに。       

 




 ナギはナギで、医者になることを選択した。

 黄泉で見てきた亡者たちを、持ち前の博学と薬草辞典によって助けていたことがきっかけになったらしい。

「大地が神官になるなら、僕は医者。それでバランス取れるはずでしょ」

 イザナギはナギが決めた道なので、好きにしろ、と言った。

「ナギ。イザナミと一緒にいて、楽しかったか」

 イザナギは特に聞きたかったことをナギに尋ねた。

「僕には母さんがいないから楽しかったよ。年上の女の人と一緒だったことって、ないからね」

「そうか」

 イザナギにはそれだけで充分な答えだった。

「話は変わるがさぎりのことだ。どうしたらいいと思う。助けてくれ、ナギ」

「えぇ。僕にどうしろと」

「さぎりが昔のように戻ってくれさえすれば、いいのだがなあ」

「無理無理。絶対無理、僕まで巻き添えにされちゃうよ」

 イザナギとナギは、背後から恐ろしい殺気を察知し、振り返ることもせず脱兎の如く逃げ出した。

「誰が巻き添えにするだぁ。ナギまでグルになりやがってえ」

 とまあ、すっかり性格の変わったさぎり嬢ではあったが、本心は違うはず。

「なにが違うの。私がブランド品じゃなく愛に目覚めたってことかしら。そんなわけないっしょ。ブランド好きはやめられねえぜ、げへっげへへっ」

 さぎりはリボンで結んだロングヘアをかきあげた。笑い方が、ちょっと。

 ちなみにこのリボン、イザナギからの誕生日プレゼントだそうで。 



 大地は神官の資格を取るため、引越ししてしまった。

 ナギやさぎりやイザナギにも手紙を送ることもあるのだが、大地はけっしてナギのように文学向きではないため、達筆とは言いがたかった。

「む。読めん」

 イザナギは象形文字に近い大地の手紙を、丁寧に解読してから、さぎりやナギに渡すのが役目となっていた。

「なんのために生身になったのか、さっぱりわからん。もしや、これだけのためかっ」





 おしまい。        


    

   

   

  

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