水之江の浦島さん(第一稿)

 あずみ(安純)は学校帰り、川沿いに腰掛け、空想にふけることが日課だった。

 その日はいつの間にか居眠りを始め、気がついた頃、夕日が傾いていた。

 帰らないとテレビがはじまる、あずみは急いで立ち上がり、かばんを手にかけた。

「おまちください」

 足元を見ると大きな亀があずみのスカートをくわえていた。

「か、亀…」

「はい、おっしゃるとおり亀です。じつはあなたにお願いがあるのです」

「夢じゃなさそうね…お願いって、なにかしら」

「わたしの国にいらっしゃれば、くわしいことをお話できるんですがねぇ。いかがでしょう、わたしと一緒にいらっしゃいませんか」

 いやみを言いたくなるほど、営業トークのうまい亀である。

 あずみは先述のとおり好奇心だけは強かったので、亀についていってみることにした。

「それでは、目を閉じていてくださいよ」

 言うが早いか亀は光の速さも飛び越えて、川くだりを始めた。 

 海が近づくと海底にもぐり、大きな神殿へ連れてこられた。

「それで亀さん。お願いってなに」

「ここの城主は亀比売さまといって、月読命さまのご子孫です。たいそう美しいお姫様だったのですが、今はもう亡くなってしまい、主人はありません。そのご子息が筒川村にいらっしゃいますが…」

「筒川村? どこ」

「この近所です。会ってみればわかります」

「ふうん、わかった。その島子って人に会えばいいのね。会ってどうすればいいの」

「お母上が生前残したかったというこの玉手箱をわたしてください」 

「おっけ。かんたんじゃん、期待して良いわよ」

 あずみは亀にウィンクを送る。

「それでは、今夜はここへお泊りいただいて、筒川村まで参りましょう」

「その筒川村まで今すぐ行ってみたい。ねえ、いいでしょ、亀さん」

「いっ、いまからですか」

「そ。いまから。いきましょうよ」

 亀はため息をつきつつも、あずみの頼みを引き受け、筒川村まで連れて行ってくれた。





「それでは、このへんで。水之江の島子という青年ですよ、あずみさん」

「オッケ、オッケ。まかせて」

 勇み足で去っていくあずみを心配そうに見送る亀。





 あずみは筒川村の住居地に足を運ぶ。

 住居といっても粗末な木造建ての家が立ち並ぶ、寂しい場所だった。

 そのうちの一軒を探し当て、あずみは言葉をかけた。

「こんばんは。一夜の宿を貸していただけませんか」

 あずみは時代劇ファンで、とっさのセリフが浮かぶのは時代劇のおかげだろうか。

「はい」

 あずみでなくとも若い乙女の胸を締めつけるような、若者らしい声が帰ってきた。

 髪を後ろで束ねていて、麻で織った簡素な前あわせを身に着けていた。

「こんなおそくにお困りでしょう、さあ、中へ」

「どうもありがとう」

 島子はひとりで漁をしながら暮らしており、あずみは島子と向かい合い、いろりで食事をした。

 炎で照らされた島子はオレンジ色に染まり、顔の整った美しい青年であることを強調していた。

 あずみもまた、胸が騒いでいたに違いない。頬に紅がさしていた。

「さ。明日も早いので、寝ましょうか」

「そうですね。そのまえに」

 あずみは荷物から玉手箱を取り出した。

「なんです」

「島子さんのお母さんが渡したかった物だって、亀さんが」

「亀? あなたは亀に言われて、わざわざ、ぼくに会いに来てくれたと言うんですか。あっはっはっは…。笑ったりしてごめん。どうもありがとう、母上のね…」

 島子が玉手箱を開けると、中から筆でしたためられた便箋が出てきて、島子は達筆なその文字を読んでいる。

「母は病気で亡くなったんです。父がこちらで逝去したあと、ぼくもここで暮らすようになったんです。そのことを書いている文ですね」

「そうですか」

「さてと。ぼくはこちらで休むので、あずみさんはそちらの布団でどうぞ」

「板の間じゃないですか。まだ寒いですよ」

「いいですから、お客人に風邪を引かれては申し訳ない。ましてや母の大切な文を持ってきてくれた人。大切にしなければバチが当たります」

「男と女がひとつ屋根の下にいれば、間違いが起こっても不思議ではないのに。律儀な人」

 あずみは心の中でそう言うと、島子に対して特別な感情を湧き上がらせた。

 突如として外が騒がしくなってきた。

「なんですか、あの声」

「皇子様が行幸にいらしているのですよ」

「皇子様ってだれ」

 あずみの質問に島子は顔を引きつらせた。

「え…知らないんですか。皇子様ですよ、日嗣の皇子様ではないけれど、今上天皇の三人目のご嫡男。吉備津彦尊様です」

「きびつひこ…」

「本当に知らないんですね。変わった服だし、あずみさんは外国から来たのですか」 

「あずみでいいよ。外国ってほどでもないんだけど」

「ちがうんですか? でも皇子さまの存在を知らないなんて…」

 島子の呆れたような口調から窺えるのは、間抜けとでも言いたそうなことだ。

「このへんは麻と銅と鉄が豊富で、朝廷がごっそり持っていってしまうんです。武具を調達するには都合のいい土地ですからね」

「まあ、ひどい。私が言ってきてあげようか。迷惑だから他人の物を奪うのはよせって」

「とんでもない! やめてくれ」

 島子は駆け出しそうなあずみの両肩を強くつかんで座りなおした。

「あ…ごめんなさい。でも、気持ちだけでうれしいので、やめてください。よけいなことを言えば、なにをされるか」

「う、うん。島子さんがそういうなら」

 そのうちに戸口が開き、いろりで暖まった部屋に、潮の香りと冷気とが流れ込んできた。

「島子殿。今年も魚を献上してくれて、すまないね」

 にこやかに入ってきた上等の絹服に角髪の少年は、あずみに視線を流すと、じきに島子のほうへ向き直る。

「これは吉備津彦様、いつもお目にかけていただけて光栄にございます」

 吉備津彦にひれ伏す島子。あずみは正座したまま、吉備津彦の顔を長いこと見つめていた。

「いや。あなたはツクヨミさまのご子孫だ。偉大なるアマテラスのいろせ(実の弟)…。朝廷が庇護しなければ神の鉄槌がやってこよう。どうだろう。この間の話は」

「私にはもったいないお話です、皇子様。朝廷に仕えるなど、とても」

「まあ、気持ちが変わったら、わたしを訪ねてまた来てくれ。ところでその娘は」

 吉備津彦はようやく本題に入れるといった表情であずみのことを聞き出した。

「は。私の客人です」

 しかし島子はそれ以上説明しなかったため、吉備津彦も深くは問いたださない。

「そうか。邪魔したな」

 吉備津彦が立ち去ると、島子は大きく息をついた。

「はぁ。やっと帰ってくれた…」

「あの人が吉備津彦さん。ぜんぜんえらそうに見えない」

 島子は口もとを押さえて笑った。それから緊張が解けたのか敬語も使わなくなっていた。

「吉備津彦さまは威張ったりしない。皇子様はね、いつもぼくたち漁師のことを気にかけてくれるんだ」

「ふうん、そうなんだね」

「さて、だいぶ夜も更けた。そろそろ寝ないと明日がツライなぁ」

 大きく腕を伸ばすと、戸口につっかえ棒をはめ、あずみに視線を移した。

 あずみは島子が言葉を発する前から寝息を立てて眠り込んでいた。

「はるばるここまで来られて、疲れたのかな」

 島子は上掛けを運んでくると、あずみに羽織らせ、自分も横になって眠りに落ちる。 

 




 朝を迎え、島子は日課の、沖へ出て魚とりをしている。

 あずみはといえば、亀に運ばれ、見知らぬ時代へつれてこられて、なにをしてよいかわからず、島子の漁の様子を眺めていることくらいしか出来ずにいる。

「のどかでいいわねぇ。ここには学校も、受験戦争も、就活もないんだから…」

 暖かい日差しを浴びていると気持ちよくなってきたのか、あくびをした。 

「島子さんて、ホント、カッコいいよね。ああいう彼氏ほしいなぁ」

「ふうん。ああいうのが好みなんだ」

 背後から話しかけられ、あずみは飛び上がるほどの勢いで驚き、崖から落ちそうになった。

「あぶない」

 腕を引っ張られて、落下を免れた。

「あ、ありが…」

 あずみは声をあげそうになった、昨日の吉備津彦だったので、固まってしまったのである。

「どうした。俺の顔、なんかついてる?」  

「いいえ。あのう、皇子さま…」

「吉備津彦でいい。なんだ」

「銅や鉄を持っていくの、やめてもらえませんか。みんな迷惑してるって…」

「島子に聞いたのか」

「そういうわけじゃないけど」

 吉備津彦はしばらく考え込むと、

「よし、わかった。全部は無理だが、出来る限りの物資は残そう」

「ありがとう。これで島子さんに恩返しが出来た…」

 あずみは口を押さえるが、とき既に遅し。吉備津彦はおかしそうに吹きだした。

「おまえ、島子のことが好きなんだな」

「そ、そういうわけじゃ…」

「俺には隠し立て無用だ。べつにおまえを、どうこうしたいわけじゃないよ。けど、名前くらい知りたいな」

 吉備津彦はあずみに微笑みかけてくる。

「あずみ」

「あずみか。変わった名だ。また会えるかな」

「わかりませんけど…」 

「いやちがった。また俺と会いたいと思うかい」

 吉備津彦は背中を向けたままで尋ねてくる。

「ええ、吉備津彦が会いたければ、いつでも…」

「ありがとう。それじゃ」

 吉備津彦は拍手を打つと、白い鷺に変身して弧を描きながら空中を舞った。

「あのひと、鳥人間だったの…?」

 あずみはあんぐりと大口を開いたまま、吉備津彦の飛び去った方向を見つめていた。

 そこをちょうど漁を終えて帰ってきた島子に声をかけられて、2度ビックリした。

「あずみ。どうかしたの」

「と、鳥人間…」

「はぁ? 馬鹿なこと言ってないで、お昼にしよう」

 島子は魚篭の中に入った大量の魚をあずみに見せながら、戸口を開いた。

 


 いろり端に串焼きされた魚を、ふたりで取り分けて食べる。

「お魚、おいしい」

「ここらの自慢は、星空と、魚くらいだからねぇ。ほかには何もなくて、寂しいだけだよ」

「私は島子さんがいてくれれば、幸せ」

 とは、さすがに言えないあずみだった。

「おまえ、島子のことが好きなんだなぁ」

 吉備津彦に言われた言葉が、あずみの胸をしめつけていた。

「島子さんは彼女いるの」

「彼女?」

「付き合ってる人。結婚したい女の人とかさ」

「結婚ねぇ、考えたこともない。だいたいぼくは、ごらんの有様で女っ気ないだろ。なんでそんなことを」

「島子さん、カッコいいから…」

「え…」

 火箸をかき回す手を止め、あずみを見上げる島子。

 あずみは食べかけた魚をいろりに刺して、立ち上がる。

「あっ、あの、ごちそうさま。私、散歩してくる」

 せわしなく戸を開き、外へと駆け出した。 

「胸の奥が締めつけられる。どうしよう、どうしよう、顔合わせられない…」

 沖のよく見える場所に、一本松が植えられていて、雨宿りができそうな立派な樹である。

 松の樹の梢に、白い鷺が一羽、羽根を休めて止まっていた。

 あずみがやってくると、鷺は宙を舞い、あずみの前で変化した。

「よう、あずみちゃん。どうした、元気ないじゃないか」

 鳥に化けた吉備津彦だった。

「元気だよ、鳥人間さん」

「イヤな言い方するねぇ。俺は鳥人間じゃなくて吉備津彦だ、考霊天皇の…」

「知ってる、言ってみただけ」

 松の根へと腰を下ろすあずみの肩に手を置きながら、吉備津彦は囁いた。

「なにかあっただろ。言ってみな、力になるぜ」

「もう。あなたのせいよ」

「はい? なんで俺のせい?」

「さっき、あなたが変なこと言うから、意識しちゃって、ついあんなことを。昨日知り合ったばかりで、おかしいって思われてるぅ」

 あずみは突っ伏して泣き出してしまった。

 吉備津彦はあずみの隣に腰かけ、あずみの手に自分の手を重ねて慰めようとした。

「好きになるのに、時間は関係ないんだよ。長い年月かけて誰かを好きなことに気づくこともあれば、一瞬で燃え上がる恋だって…きっと島子も同じ気持ちだ」

「ほんと?」

 顔を上げたあずみの頬を、滴が伝う。

「だから、泣かなくていいんだって。ほら、拭いてやる。島子が待ってると思うぜ」

 半信半疑で島子の家に戻るあずみを見送りながら、吉備津彦は重い口調でつぶやいた。

「そうさ。一瞬で燃え上がる恋だって、あるんだからな…」

 

  

  


 


 島子の家に戻っては来たものの、島子にかける言葉が見つからない。

 もうじき逢魔が時で、夕闇が訪れる。

 戸口の前で右往左往するあずみ、あわてた様子で戸口がはずれて、ロウソクを手にした島子と視線がぶつかった。

「無事でよかったあ。捜しに行こうと思ってたんだ。心配したよ」

「ご、ごめんなさい」

 謝ることで精一杯だったようだ。

「さあ、中へ。夕飯のしたくは出来なかったから、今から作るけど」

「あの。食事はいいから、見たいものがあって。一緒に見てくれる?」

「いいけど」

 あずみは明かりを部屋において外へ出てくる島子に、夜空を指差した。

「ここの自慢でしょ。あの星も、この星もキレイ。私ね、大好きな人と一緒に、夜空を見上げるのが夢だったから、かなってうれしいんだ」

「え。それって…」

 島子はあずみの顔を覗き込むようにして尋ねた。

「私は島子さんが好きなの。一瞬で燃え上がる恋もあるって、そういわれたけど、島子さんは私のこと、おかしいと思うでしょ。昨日知り合ったばかりなのに」

「おかしいといえば、あずみは変わってるし、妙なこと口走るし、とても変な子だと思ってる。でもそういうところが面白い。ぼくはイヤじゃないよ」

「お、面白いんだ」

「だって、もう少し時間がほしいよ。きみのこと、もっと知りたい」

 島子はあずみの両手を、自分の両手で握り締めて、少しずつ顔を近づけていく。

「冷たい手だね。すっかり、かじかんでる」

「暖かい、島子さん。好きになってよかった」 

 近づいてくる島子を受け入れるように、あずみは瞼を閉じた。


 今宵はふたご座流星群。たくさんの星が落ちる夜。

 星が落ちるように、若い男女もまた、恋に落ちる夜…。   


      


  

   

   

 それから静かに時間が流れ、あずみは島子の漁場を手伝った。

 不器用に網を扱うあずみ。島子は苦笑いを浮かべていたものだ。

 魚を取っているときでも、島子は気分で歌を詠むことがあった。

 

 春たてば 消ゆる氷の 残りなく きみが心は 吾にとけなむ。


「島子さんてさぁ、歌好きだけど、いまのどういう意味」

「さ、魚がよくとれるなぁ、と」

「ふうん。でも、きみっていわなかった」

「魚がきみなんだよ…」

 あずみが歌に興味ないのを知っていたので、島子は咄嗟にごまかしただけである。

 本当の意味は


 春が来て凍りついた水が一片も残さずに溶け出すように、きみがぼくに親しみを持ってくれて(打ち解けて)幸せだ。


 という意味なのだが…。

 例によって吉備津彦がいつものように鷺に変身して空中旋回していた。

 あずみはそれに気がついて、鷺を指差した。

「見て。また今日もいるわ、鳥人間が」

「鳥人間? この間から、きみが変なことばっか、いうもんだから…」

「なにを言いたいの? 私が変じゃないでしょ、あいつがおかしいんだってば」

 ふたりのケンカを見ていて、仲裁するどころか、鷺は下品な笑い声を立てて船の縁に落ち着いた。

「失礼な人ね。笑ってないで早く変化といてよ。私がおかしいって思われてるのよ、助けなさいよ」

「ただの鷺に怒ってもねぇ」

 島子は鼻で笑うと、魚の網を引っ張り揚げた。

「あっ…いっちゃった。からかいに来たのね。吉備津彦め…」

「えっ、皇子さま、あの鷺が? まさか」

「ほんとだよ、ほんとにあれ吉備津彦が変身してるんだよ。信じて、ねえ島子さん。信じてよ」

 島子は作業をしつつも手を休めることなく、はいはい、と答えた。

 夕食の時間になっても、その話をはさむので、島子はとうとう呆れて。

「いいかげんにしないと、怒るぞ」

「だって、ほんとに」

「あずみ、皇子さまに恨みでもあるのか? 皇子さまがそんなこと出来るはずないだろ」

「でも出来たんだよ。信じてくれないんだね。もういい」

「なにがもういいんだ? ちょっと待ちなさい…」 

 島子が言うのも聞かずに、外へ飛び出していった。

「いつも飛び出すな。外が好きなのかな」

 いや、そういう問題ではないと思うが…。

 


 あずみはひとり膝を抱え、一本松の根元で沖を眺めていた。

 今夜は満月なので、月明かりは夜の世界をまんべんなく照らしている。

「うちに帰ろうかな」

 亀のことを思い出した。

 帰りたいときは断崖から飛び降りてください、必ず迎えに参りますから、と言っていたことを思い出した。

 だが、あずみの家は崩壊していて、両親は離婚の話を持ち出してばかりいた。

 どちらにしても、不幸な選択のようである。

「島子のことあきらめて、帰っちゃうの? 意外と根性ねえなあ」

 振り返れば吉備津彦が松の樹に寄りかかっていた。

「いつの間に…ていうか、根性ならあるし、よけいなお世話じゃ。昼間なんで助けてくれなかったの」

「だってねぇ」

 吉備津彦はニヤニヤとするばかりで、答えてくれずにいる。

「な、なによ」

「顔が赤いね。どうしちゃったの。あずみちゃん」

「あんたなんか、キライ。顔も見たくないわ」

 吉備津彦の表情が、一瞬だけ暗く陰りを見せた。しかしその後はいつもの笑顔を向けていた。

「すっかり嫌われちゃったか。そろそろ退散したほうがいいかしら」

「どうぞ、どうぞ。私、あんたとは二度と会いたくないから」

 背中を向けたまま語るあずみに、吉備津彦は無表情のまま別れのような言葉を告げた。

「じゃあな、あずみ。島子と仲良くやるんだぜ…」     

 あずみはいつもと違う口調の吉備津彦に、息を呑みながら振り返ったが、人影は失せていた。

「吉備津彦…、なんか暗かったけど」

 そのうち睡魔に襲われたあずみは、松の樹に身をもたれかけ、寝入ってしまった。


 しばらくして戻ってきた吉備津彦は、肩をすくめてあずみを抱き上げ、島子の家まで送っていくことにした。


 あずみは夢を見た。

 それは、とても恐ろしい夢で、大きな鎌をもった骸骨が島子の首を狙い、背中から襲いかかろうとする夢である。

 島子は魚とりに夢中で気づかない、あずみは叫ぶが、島子に声は届かない。

 目が覚めたとき、射光がさしこみ、腕で日よけを作る。 

「あれ? 私、たしか松の樹で」

 島子の家だった。

 いつの間に戻ってきたのだろう。

 家の主人はあずみの起きたことを確認すると、冷淡な口ぶりでこういった。

「おはよう。朝ごはん食べるだろ」

 島子に向き合って箸を取る。

「あの、島子さん、怒ってる?」

「怒ってないよ」

「うそ。怒ってる。怖い顔だもん」

「怒ってないったら」

 あずみは箸をおき、島子の背中に抱きついた。

「お、おい、なにを…」

「ごめんなさい。もうどこにも行かないから、怒らないでいて。好き、愛してる」

 島子は箸を落っことし、硬直したままでいた。

「きょうは、私と、ここにいて。沖にいっちゃダメ。島子さん殺される」 

「こ、殺される? 誰にだい」

「大きな骸骨。きっと死神ね」 

「骸骨…」

 島子はため息をつくと、あずみの両手をはずし、自分と向かい合わせて座らせた。

「あのさ、あずみ…」

「わかってる、でも夢で見たの。怖い夢を。あなたはきっと、誰かに殺されてしまうんだわ」

「骸骨にかい。死体になにが出来るというんだ」

「バカにされてもいいから、それでも、今日だけは、いかないでいて」   

 懇願すると、あずみの泣き腫らした顔を両手で包み込み、島子はあきらめたように言うのだった。

「わかった、ぼくの負けだ。きょうだけは、ここできみと一緒にいることにしよう」

「うん…ありがと…」

 あずみは抱きしめられ、恍惚として自分からも島子に抱きついた。

「私を離さないでね。絶対離しちゃやだ」

「どのみち今日は離すつもりないけど。そういう約束だったからね」

 わざとらしく意地悪な言い方をする。



 島子とあずみは数時間後、脱ぎ捨てた服を身に着け、あずみは思い出したように尋ねた。

「そういえば、私、歩いて帰ってきたんだっけ」

「いいや。皇子さまが連れてきてくれたんだ。あとでお礼言っておきなさい」

「…そう。あの人が」

 昨夜の吉備津彦の様子が気にかかったのか、あずみはブラウスのボタンをはめると、外の様子をうかがった。

 鷺の姿は。どこにも見当たらなかった。

    

 

 その日の晩のことだった。

 隣のじいさまが腰を壊したので、島子は自分の分も漁をしてくれないか、と頼まれた。

「だめ。絶対いっちゃだめ」

「でもこれは仕事なんだ。頼まれたんだよ、わかってくれ」

「それじゃあ、私もいきたい…」

「眠くなるぞ、いいのか」

 いっても聞かないあずみのことを、わかっていたのであきらめ口調だった。

「うん、かまわないから連れてって」

 島子はいつものように小船を出した。

 漁の道具をそろえると、島子はあずみの手を引いて船にのせる。

「お姫様みたいで、いいわねぇ。王子さまに手を引かれてボートに乗るの。デートみたい。あっ、王子さまってあなたのことね」

「はは、なにいってんだか…。さあ、手伝ってくれ。仕事するぞ」

 漁火が揺らめいて、海面に映し出される。神秘的だが近づくと熱いので気をつけることにする。

「初めて見た。漁火ってこんな風になってるのね」

「珍しいかい」

「うん。それにちょっとロマンチックだしぃ。大好きな島子さんと夜のデートだなんて」      

 珍しかったのは島子の方で、その日に限ってあずみの言葉に耳も貸さず、今夜の島子は仕事に集中していた。

 


 そのころ、朝廷では、大変な騒ぎが持ち上がっていた。

 温羅(うら)の一族の末裔である島子を処刑することに決まったのである。

 吉備津彦はこれに異論をとなえたが、ムダなあがきだった。

「吉備津彦殿は筒川の島子と交流があるさかいになぁ。残念やけど、あきらめはったほうが、ええやないかえ」

 いやみな貴族に蔑みごとを言われ、吉備津彦は拳をにぎり、唇を真一文字に結んでいた。

 

「討て」

 あずみはその囁き声を聞き漏らさなかった。

「あぶない、島子! なにかが、くる…」

 あずみの右肩に矢が刺さった。

 島子はすっかり取り乱し、あずみの名を呼び続けた。

「うっ、いたっ…。でも痛いだけみたい、死にはしないわ」

「あずみ…しかしこの矢はいったい」

 島子の船を、数隻の船が取り囲む。

 すべての船に大和の兵が武器を携え乗船していた。

 島子はあずみを庇うように抱きかかえ、身構えた。

「筒川の浦島子。我々と共に来るのだ。貴様の処刑が決まったそうだ」

「処刑…」

「島子さんがなにしたってのよ。奪ったのはそっちの癖してひどいわ」

「あずみ、よさないか…」

「大君がお決めになったことだ、我々に権限はないのさ」

 重い口調に変わった。

 じつはこの武将も島子の魚をわけてもらったりの交流があったのだ。

「吉備津彦様おひとりでは、どうにもできなかったそうです、おゆるしを…島子さま、いえ、阿久留王」

「いいんです。これがさだめなら、しょうがないじゃないですか」

「威嚇するつもりで討った矢がお嬢様に刺さってしまいました、おゆるし願いたい」

「平気。もう痛くないわ…。それより阿久留ってなに」

「千葉でそう呼ばれていたのです。島子様の別称は、アクル…。土蜘蛛(盗賊の頭領)とか言われましたが、立派な豪族です。名前を変えただけで温羅も同様でした。こちらに流れ着いてきたのもつかの間、このようになるとは」

「難斗米(なしめ)さん、もうそのへんで」

 島子はあずみに向き直ると、きつく抱擁して最後の別れを惜しんだ。

「あずみ…きみに逢えたことは運命だったんだ。ぼくはそう信じてる。そしてこうなることを教えてくれたのも、きみだったね…なぜ信じてあげられなかっただろう、きみは必死にぼくを助けようとしてくれたのにね。でも感謝している。母上が引き合わせてくれたのだと…」

「私は納得してないからね! こんな別れ方いやだ! どうしてあなたが、死ななくちゃいけないのよ」

「ぼくが生きていると…」

 島子はよけいな言葉を絶ち、あずみを何度も抱きなおした。

「だいじょうぶ。ぼくは死んでも魂があれば、きみのそばにいるから」

「いやだ! あなたがいなければ、私には生きてる意味が…」

 あずみは、島子と引き離され、やがて吉備津彦と対面する。

「ねえ、島子を助けてあげて。代わりに私が死んでもいいから。お願いだから殺さないで…」

「むちゃいうなよ…。おまえが死んで、どんな意味があるんだ」

「だったら島子さんを殺したって同じだよね。あの人殺して、どんな意味を成すの」

 吉備津彦はあずみの問いに閉口した。正論だったからだ。島子はなにもしていない。生きていられると、ただ政治的に都合が悪いというだけのこと…。    

「だから俺は、だから俺は、朝廷という箱庭が、大嫌いだ。温羅は悪事など犯してない。それなのに…」

 吉備津彦はあずみを強く抱きしめ、すすり泣いた。あずみは吉備津彦の悲痛な叫びをこのとき初めて聞いたのである。

  

   

 

「吉備津彦さま。覚悟は出来ておりますよ。あずみのこと、よろしくお願いしますね」

 死者の帷子を身につけ、島子は吉備津彦に微笑みかけていた。

 潔い死、島子はもともとこうなることを承知していたようで、誰も恨んでいない、と吉備津彦に告げていた。 

「すまない、島子。俺ひとりの力じゃ、おまえの一族、温羅のことをどうにもできなかった…」 

「いいんですよ。あなたのせいではありません。ぼくはここまで、23年でしたが、生きられただけで満足なんです」

「おまえを守るって…守ると約束したのに、何も出来なかったんだぞ、感謝するな。責めてくれよ。俺のことを恨んでくれ。そのほうが、おまえを失う苦しみが、減るではないか…」 

 


 処刑され、吉備津彦の腕と剣の柄から滴る鮮血は、あずみの愛した男の流している。

 あずみは世界史の授業で教わったプロイセンの王、フリードリヒ大王の若い頃のことを思い出した。

 わがままで自分勝手な振る舞いをしていた父親の横暴のせいで斬首されてしまった、若き大王の理解者、カッテ少尉。

 首を切り離され、2階から処刑現場を見ていろと命じられ、自分を愛するものを殺すサマを見せつけられた大王は苦しんだという。

「ゆるしてくれ、余をゆるせ、カッテ…」

 あずみは頬を伝う涙を拭うこともせず、大王と吉備津彦の姿を重ねていたのだろうか。

「ゆるせ。俺をゆるせ、島子…」     

 くずおれ、地面につっぷす吉備津彦を、あずみは嗚咽をこらえながら見つめていた。 

    


「島子がな。おまえにこれをと」

 島子の手紙を受け取るあずみ、読み始めたが達筆すぎて理解に苦しんだ。

「読んでくれる」

 吉備津彦は肩をすくめて読んでくれた。

「あずみには感謝している。母上の手紙を持ってきてくれたときから、きみのことを気にかけていた。きみの告白はとてもうれしかった、あのときは勢いで面白いと言ったけど、本心は違う。真剣に心を奪われていたんだよ…」

 

 飛鳥川 淵は瀬になる 世なりとも 思ひそめてむ 人は忘れじ。

 

「流れの速い飛鳥川、世間では永遠がないというけれど、なにがあっても、きみを絶対忘れない。そういう意味の歌だよ」

「島子さ…。うっ」

「あずみ」

 あずみはうずくまり、嘔吐した。

 ストレスがかかると吐くものだが、あずみにその兆候は見られなかった。健康そのものである。

 吉備津彦は、ある可能性を疑ってみた。

「あずみ、おまえ、ひょっとして」

 自分に支えられながら立ち上がるあずみを、吉備津彦は悲しそうに顔をゆがめて見つめている。

「そうよ…デキたみたい。生まれたら、守ってくれる」

「俺が」

「あなたにしか頼めないじゃない…私じゃ無理。朝廷に逆らえるわけないわ…だからお願い。温羅の最後の子供を…私の好きだった人の子を、どうか」

「わかった。それじゃ俺も、歌を詠もう」

 

 吾(あ)を思ふ 人を思はぬ 報ひにや わが思ふ人の 吾を思はぬ。 


「どういう意味」

「うん、まあ、いいじゃないか。命がけでおまえたちを守る、てことだよ…」


 吉備津彦が読んだ歌の意味は、自分を思ってくれる人を思わぬ報いからか、思い人には心が伝わらない、という意味である。

 その後、吉備津彦とあずみは、吉備津彦が赤子を自分の子として育て、かりそめの夫婦を演じたが、あずみの心はどう変化したのか、誰にもわからない。

 


    ~fin~



  


 ハッピーエンドヴァージョン。




※ 後味悪いので、ハッピーエンドもw







「ねえ、島子を助けてあげて。代わりに私が死んでもいいから。お願いだから殺さないで…」

「むちゃいうなよ…。おまえが死んで、どんな意味があるんだ」

「だったら島子さんを殺したって同じだよね。あの人殺して、どんな意味を成すの」

 吉備津彦はあずみの問いに閉口した。正論だったからだ。島子はなにもしていない。生きていられると、ただ政治的に都合が悪いというだけのこと…。    

「だから俺は、だから俺は、朝廷という箱庭が、大嫌いだ。温羅は悪事など犯してない。それなのに…」

 吉備津彦はあずみを強く抱きしめ、すすり泣いた。あずみは吉備津彦の悲痛な叫びをこのとき初めて聞いたのである。

「吉備津彦…島子さんをたすける方法、あるよ」

「どんなのだ」

「亀さんに頼むの。手伝ってくれる」

 吉備津彦は大きく頷き、あずみの耳を貸す。



「まったくもう、吉備津彦さまったら。ひとづかい、いえ、亀使いの荒い人ですねぇ」

「悪いね、急ぐことだから」

 鷺に化けた吉備津彦は、あずみに頼まれ亀を迎えにいっていたのである。

「ここらへんで待てばよろしいので?」

「ああ。頼んだぞ」

「へいへい…さあ、若いおふたかたを背中にのせなくちゃいけませんからね。待ちましょう、どっこいしょと」    



 戻ってきた吉備津彦は、兵たちに命じて、島子を断崖絶壁から突き落とす作戦に出た。

「容赦なく落としてやる。覚悟するんだな」

 くぐもった声色で、こっそりと島子にウィンクを送る吉備津彦。

 島子にはなんのことか、わからずにいた。

「ついでだから、その小娘も一緒に殺してやる。連れて来い」

「いやあっ、離してぇ」

 これが演技かというくらい、あずみは暴れまくった。

 島子は全身から血の気が引く思いで、あずみを案じている。

 吉備津彦はおかしくてたまらない様子だったが、阿呆な貴族連中にはおそらく、吉備津彦の行動は気違いのように思えたであろう。

「そらっ、地獄に逝って来いッ」

 ふたりを同時に絶壁から突き落とす。

「達者で暮らせよ…しあわせにな、島子。それと、あずみ」  


 きみ恋(こ)ふる 涙の床に みちぬれば 身をつくしとぞ 吾はなりにける。


 きみのことを恋しく思うほどに、身を削るほどに泣き濡れてしまうよ。という意味の歌である。

 

 

「ちょ、亀さん、だいじょうぶ」

 亀比売の神殿まで帰ってきた亀は、息も絶え絶えやっとこさ、島子とあずみを降ろすことが出来。

「はあはあ。なんせ長生きしてますから」 

「ご、ごくろうさま…」

 島子の笑顔は引きつっている。

「ああ、もう筒川の村には二度と戻れないな…。どのみち焼き討ちされてしまっただろうし。みんな無事だといいが…」

「吉備津彦が精一杯やってくれてるはずよ。あの人、あなたのためにずっと、泣いてた」

「そういう方だからね、吉備津彦様は…」

 島子はあずみを抱き、横を向いて肩を震わせていた。

「申し訳のないことをしたかな…」

「どうして? あなた悪くないのに。貴族が勝手すぎるんだよ。ほしいものを奪うのにわざわざ殺す必要なんて」

「それが現実さ。たとえ悪くなくても悪者にされてしまう。だから吉備津彦様は、ひとりで戦ってるんだよ、世の中を変えようと必死でね」

「そうだったんだ…。感謝しなくちゃね…」

 城の外でしばらく抱擁して吉備津彦のことを案じていたふたりだが、あずみは思い出したように切り出した。

「聞いて。このところ、身体がおかしかったんだけど、その原因がわかったんだ」

「病気したの、あずみ。だったら大事にしてなくちゃ」

「ううん、ちがうのよ。じつは…赤ちゃんが…」

 あずみの顔は耳まで真っ赤に染まっていき、うつむいたままで報告をした。

「なんだって」

「あのとき、一回しかしてなかったのに。ふしぎよねぇ」

「一発でデキちゃったんだ…ははっ、複雑だな…」  

 島子も赤くなって頭をかいていた。  

「名前、どうしよっか」

「そうだなぁ…あとで考えよう。いいの思いついとく」

「そうして。お父さんになるんだから」

 これからは3人で島子の母親、亀比売の神殿を守っていくことになるだろう。

 

 あ。亀さんもだった…。

 

     

  ~fin~   

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