修道女アニエス

 スールはフランス語で修道女をあらわす。

 アニエスは貧しい村の教会で神様に仕えていた。

 教会に先日死去した司祭の代わりとなる、若い司祭がやってきて、皆に挨拶をした。

 アニエスもその司祭と歳は近い。

 若いふたりだった。

 初めてあった瞬間から、ふたりは通じ合い、禁じられた恋に身を投じる。

「アニエス」

 と、司祭ーーパウロが言った。

「なんでしょう」

「きみは・・・・・・僕のこと、いつも思ってくれてるね。もし、その気持ちがみんなにばれたら、破戒僧として、生きなければならないが・・・・・・」

 破戒僧とは、戒律、すなわち決まりを破り、神様にさからって生きる僧侶をさしていう。

「たとえそうなろうと、私はかまいません」

 アニエスは目をつり上げていった。

「それに疑問でした。なぜ、あれだけ祈りを強要しておきながら、空腹を満たせないのか。神はパンを一切れさえも、お与えにならないではないですか。間違いに気づいてしまいました。しかも人を愛せと言っておいて、なぜ私たちが愛し合うことが・・・・・・許されませんか」

 アニエスはパウロと視線が合うと、あわててそらす。

「僕だってそれは疑問だった。じつはね・・・・・・僕、スピノザが好きなんだ。しかし彼も・・・・・・キリスト教的な考えから脱してはいないようだった。それでも僕は、彼のことが好きだから信じている」

「スピノザ、って誰です?」

 アニエスはほうきで地面を払い、聞き返した。

「スピノザは哲学者。彼はユダヤ人だったが・・・・・・キリスト教から追放されてしまった。彼は彼なりに、神の実体をつかんだというのに、ゲーテは言った。スピノザの神、と。スピノザの神は世界全体のことをさして言うんだよ! このすばらしい思想が、きみにはわかるかい!」

「いいえ、ぜんぜん」

 そっけなくアニエスが答える。

「世界という名の、スピノザの神は、僕らに祈りで命をつなげとはいわない。生きるためには多少の殺生もいとわないと言っているんだ。そうさ、ありのままに生きろとね」

「へ、へえ・・・・・・」

「きみも今言ったじゃないか。パン一切れさえも与えてはくれない神に、祈る必要はもう、ない! だからやめて・・・・・・」

 パウロはアニエスの肩をつかみ、しかし言葉の続きを言いよどんだ。

「やめて?」

「僕と、ここをでよう」

 アニエスは驚いてパウロを見つめた。

「うそ、司祭様。それって」

「村をでて・・・・・・ふたりで暮らそう。どんな仕事だって平気だ。きみとふたりなら」

 アニエスは深く頷いて、こぼれる涙を拭っていた。

「これからは・・・・・・キリストの神じゃない。スピノザの神が、僕らを祝福してくれるだろうから」

 その夜、誰にも見つかることなく、パウロはアニエスと村をでていった。


 

 修道院を抜け出して一年が過ぎようとしていた。

 世の中は戦争の話題で持ちきりだった。

 普仏戦争である。

「ついにプロイセンが戦争を仕掛けるぞ」

 プロイセンはフリードリヒ大王と呼ばれる若き王の治める国。

『啓蒙専制君主』などと呼ばれ、たしかにその啓蒙思想は画期的な考えに違いはしなかったのだが、父親と違う生き方を望んだ息子もやはり、王族であった。

「どうして・・・・・・」

 アニエスは買い物に出かけたが、その途中で新聞に目を通し苦痛に顔をゆがめていた。

「プロイセンはオーストリアには・・・・・・フランスやロシアには勝てないのに」

 フリードリヒはフランスの政治思想などを本で読んでいたので、その考えを導入した。

 ゲーテやニーチェも参戦した、プロイセン戦争。

 神の道から脱線したアニエスにとって、ニーチェはお気に入りの学者であったから、死んで欲しくなかった。

「戦争は、たくさん・・・・・・」

 アニエスは町を歩くときも用心しながらだった。

 町にはフランス軍の竜騎兵やプロイセン軍の兵士がたむろしていた。

 下手に関わるとかつ上げや婦女暴行などの、偉い目に遭わされる。

 アニエスは彼らと視線を合わすまいと、必死で家路にたどり着いた。


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 「くやしいわ」

 アニエスがパウロに言う。

「僕らがとやかく言ったところで、戦争はやめないだろうよ」

 投げやりな言い方に、アニエスは腹が立った。

「ニーチェ先生が死んでしまっていいの!? 私、あのひとには音楽を教わったわ。国語も考古学も・・・・・・。あなたは人の命が消えても、どうと思わないの?」

 ニーチェは一時期、音楽の教師でもあった。

 幼い頃のアニエスは、キリスト教をまだ信仰していたニーチェを思い出していた。

「ワーグナーさんよりずっと、ニーチェ先生の方が好きだった。ワーグナーさんは横暴すぎるし、私にもちょっかいを出してきたり。それをニーチェ先生は非難したの。そうしたら・・・・・・彼はワーグナー批判と言うことで・・・・・・大学に入って教授にならざるを得なかった」

「だからなに。僕にどうして欲しいわけ。僕も明日から、兵隊として戦わないと行けない」

「なんですって!?」

 アニエスはテーブルをたたいた。

「あなた!」

「いいじゃないか。僕らには子供はいないし・・・・・・逃げるときもきみ一人なら身軽で」

「・・・・・・そう言うこと言ってるんじゃないのに」

 落胆したアニエスに、これ以上何かを言う気力などなかった。 


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兵士ヴィルヘルム


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 翌日から、パウロはアニエスをおいて参戦した。

 竜騎兵団の兵士として・・・・・・。

 竜騎兵とは、フランス軍の兵隊のことで馬に乗って移動し、敵兵に出くわすと馬から下りて銃殺する。

 ふだんはカーボン銃で、ときにはグレネードを使う。

「おそろしいわ」

 アニエスは唇をかんだ。

「あなた・・・・・・」

 十字を切りたくても切れなかった。

 自分は破戒僧。とてもじゃないが、虫が良すぎるとアニエスは考えていた。

「くやしいわ・・・・・・」

 礼拝堂の前で感慨深そうに突っ立っているアニエスを見て、プロイセンの兵士ヴィルヘルムは声をかけた。

「フロイライン。どうかしたんですか、こんなところで」

 アニエスは敵兵だと言うことをすぐさま制服で見分け、鋭くにらみつけた。

「あなたにフロイライン(お嬢さん)と呼ばれる筋合いはないわ!」

「おや、気のお強いこと」

 ヴィルヘルムは高貴なほほえみを見せる。

「俺はヴィリ。この界隈を監視しています。お嬢さんも早く家に帰りなさい、家はどちら? 送ります」

「け、結構よ。あんたみたいな敵兵に送られて、何かされたらとおもうと怖くてたまらないわ」

「俺が?」

 ヴィリは声を立てて笑い出す。

 アニエスはそれが恥ずかしいことのように思え、真っ赤な顔になった。

「しない、しない。だいいち、そんなことするつもりなら、とっくにしてますよ」

 アニエスは頭の頂点まで熱くなり、

「そ、それもそうだわね」

 と答えるのがやっとであった。

「アニエスって言うの。いい名前だね。ドイツじゃその名前は、アグネスっていうんだ」

 ヴィリは話していてとても気持ちの良い青年だった。

 そんなヴィリに、アニエスは会うたびごとに惹かれていった。

 ヴィリを・・・・・・愛していった。

 すると、こういうときに限って運悪くパウロが帰ってきてしまう。

「お帰りなさい」

 アニエスは焦った。

 今夜はヴィリが家に来る・・・・・・。

 もし見つかりでもしたら?

 そのときは、ヴィリが危ない。

「うれしそうじゃないな。まさか浮気でもしてるんじゃ」

 アニエスはぎくりとしたが、冷静になり、表情を変えないようにつとめながら、

「いいえ。私があなたを裏切るはず、ないでしょう。でも今夜はちょっと、出かけなくてはなりません。お留守をお願いね」

「うむ・・・・・・」

 アニエスは急いでヴィリのことを捜した。

 素直に留守番を承諾してくれることに正直怪しい気もしたが・・・・・・。

 今はそれどころではなかった。

 ランスの近くであるこの小さな村に、広場があって、ヴィリはそこにいた。

「やあ、アニエス。どうしたんだ、血相変えて」

「たいへん、パウロが・・・・・・帰って来ちゃったの。まずいわ、これからは逢瀬ができない」

「早い帰還だな。兵士はそうかんたんには帰してもらえないはずなんだが・・・・・・」

「なんですって・・・・・・」

 ふたりは顔を見合わせた。

 アニエスは青ざめている。

 ヴィリは心配するなと言って肩をたたいて元気づけた。

「でも、私嫌な予感がする」

 ヴィリはアニエスに口づけをした。

「大丈夫だよ。俺ならいざとなれば、相手を殺せるし・・・・・・戦いのプロでもある。先代の兵隊王時代とは違って、いくらか戦力は劣るだろうけど・・・・・・」

「そんなこといっちゃやだ」

「俺ね、傭兵もしてたんだ。だけど、今の啓蒙王にみそめられてね。実力を買ってくれたんだ。『汝は朕に貢献するか』

なんていってさ。・・・・・・それだけ、王は俺を見ていてくれたんだな。だから平気さ」

 アニエスはそれでも拭いきれない暗い陰を心に抱いていた。




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パウロとプリシラ


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 「ねえ、パウロ」

 パウロと派手な服装の女がベッドで戯れている。

「なんだい、プリシラ」

「もっと愛して。そしたらもっと、お金上げるわ」

 アニエスがその様子をじっと見ていたことに、パウロはいまさら気づく。

「アニエス!?」

「こういうことだったのね。やけに素直だと思ったら」

 パウロはカーボン銃を出し、銃口をアニエスに突きつけた。

「くそ、殺してやる!」

「なんてことを・・・・・・」

 アニエスは動揺もせずにパウロを見据えた。

「おかしいね。ちっともこわくない」

「ふん、負け惜しみだろう」

「そうでもないぜ」

 もうひとり、別の声がしたのでパウロは仰天した。

「なんだ貴様・・・・・・あっ、プロイセン!?」

「そうさ。アニエスのことを守る騎士だよ」

 いうがはやいか、ヴィリはパウロの顎に拳を打ち付け、銃をぶんどった。

「まったく、保険をかけてアニエスを殺そうだなんて・・・・・・冗談にもほどがある!」

 ヴィリが台所で見つけた保険金の証明書をひらひらとやって見せた。

 パウロは青ざめる。

「貴様・・・・・・」

「アニエスはわたさない。こうなれば俺のものにしちまうぞ、いいんだな?」

 パウロはプリシラを見てから、

「好きにしろ・・・・・・」

 といった。

 だが、次の瞬間ーー。

 ズドン! と激しい銃声がして、ヴィリの太股を鮮血がほとばしった。

「あっ、ヴィリ!」

 アニエスは泣きながらヴィリを抱えた。

「大丈夫だ。かすり傷だよ」

 だが玉が貫通し、ヴィリは歩けそうもなかった。

「あはは・・・・・・これで、貴様をフランス軍に売れば、アニエスを殺すまでもない。大金が手に入る」

「パウロ・・・・・・!!」

 アニエスは怒りに身を震わす。

「そんなこと許さないから!」

「貴様に何が出来る。僕はもう決めたんだ。それに世の中は金さえあれば、なんだって望める。いいよな、この世界は!」

「・・・・・・狂ってるわ」

 アニエスはヴィリをかばう姿勢になった。

「よせ、アニエス!」

「だめよ、ヴィリはけが人だし、なによりパウロ以上にヴィリを愛してるんだから」

 アニエスはそれから、すっくと立ち上がってこういった。

「絶対にあたし・・・・・・フランス軍なんかにヴィリを渡さないからっ」

 パウロはアニエスを殴りつけた。

「こしゃくな女だ! このドイツ兵は僕が進駐軍に渡す、いいな、邪魔だてするなよ!」

 アニエスは殴られた頬を押さえて、

「パウロ! パウロ!」

 と、叫んだ。

「むださ。パウロはあたしが呼んだからここにこれたんだし・・・・・・あたしには逆らえないんだ」

 葉巻を吸い、プリシラが苦笑する。

「あなたが!?」

「そう。あたしが大金はたいてパウロを兵隊から離脱させた。あたしに従順だったからねえ。おもしろいペットさ」

 アニエスは吐き気を催す。

「なんて・・・・・・腐ってる・・・・・・」

「アニエスだっけ。あんな奴のどこがいいのさ。あたしでもパウロとどっちがいいかっていったらその、ドイツ兵のお兄ちゃんを選ぶけど。どうせだから、ドイツ領に逃げちまえばよかったじゃん」

 熱にうなされ始めたヴィリを、アニエスは必死で看病する。

「このままじゃ、助からない・・・・・・。お願い、医者を呼んで・・・・・・」

 そこにパウロが戻ってきた。

 プリシラは耳打ちするとパウロはアニエスを殴りつける。

「こんな敵兵を医者になんぞ見せる金なんかねえ!」

「そんな!? どうして非人道的なことが言えるっ」

「みせてやったら。あたしが払うよ」

 さすがにプリシラもヴィリが心配だと見えた。

「あ、ありがとう」

 アニエスはヴィリを抱き起こし、水を飲ませてやる。

「ごめんね、ごめんねヴィリ」

 ヴィリは苦しそうに息を乱していた。


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 傷はたいしたことがなかった。

 ほっとするもつかの間、次はヴィリを助ける手だてを考えなくてはならない。

 とはいえ、けが人を動かすのは感心できなかった。

「どうしよう・・・・・・」

 そんなとき、アニエスの元に手紙が届いた。

 信頼するニーチェからの手紙だった。

 フランスと戦う前、アニエスの家族はドイツに住んでいた。その時世話になったのがニーチェだった。

 ニーチェは音楽と語学をていねいにアニエスに教え込んだ。

 特にドイツ語に関して、アニエスの理解力はニーチェも驚くほどであった。

「先生・・・・・・」

 アニエスはさっそく、手紙の返事を書いた。

 ヴィリを救って欲しい、と言う密書だった。

 それゆえ、誰にも見つかってはならない。

 へたをすれば、ヴィリと自分、両方の命が危険にさらされる。

 パウロの監視をかいくぐり、どうにか買い物の途中で手紙を出すことが出来た。


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 それからーー。

 数週間後。

 ヴィリの傷もすっかり癒えて、アニエスとヴィリは幸せに暮らしていた。

 一週間前、届いた知らせでは戦争がおさまりつつあって、ヴィリのことも救ってくれるということだった。

 そのうちに、パウロはプリシラとともに警備兵にとっつかまって牢獄に放り込まれた。

 罪状はもちろん、戦争の任務放棄。

 まあそんなわけで、ふたりは堂々と愛し合うことが出来たのである。

 パウロとアニエスはーー結婚までしていなかった。

 パウロには婚姻までする気がなかったから。

 アニエスがいくら尋ねても、その理由を明かさなかった。

 プリシラがいたからだったのであるが・・・・・・。


 完

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