第4話『シュウ・ヴォクン・オミ』(3/6)

 垂れ幕の内側で、シュウは鎧を身につけた。


 風合わせの約束をしてから三日が経ち、今やその時が来ている。

 垂れ幕の向こうから迸る凍てついた闘気は、シュウにウルザの存在を否応なく感じさせた。 そのせいで、喉はからからに渇いている。 少し水を飲もうと卓上の杯に手を伸ばして、やはりやめた。 さっきも飲んだばかりだ。


 やれるのか。 本当に、ウルザ相手に勝負になるのか。 何度もそう考えることをやめようとしたが、いつの間にか自分に向かって問いかけている。

 その度に、自分に言い聞かせるのだ。


 今の俺には“うまのぼり”がある。 それを上手く使うひらめきは、思い込みじゃない。 乗馬の練習は、ほとんど自分への調教に近いくらいやった。 何度も馬を走らせては転げ落ち続けて、背筋に痺れを感じにくい乗り方を身体に覚え込ませた。 風の民と対等に渡り合うなど夢のまた夢だが、馬相撲という種目の中でなら勝負に持ち込める。


 勝ち目のない状態から、万に一つの勝利を狙える状態には持ってきた。

 後はここから、己の策で掴みにいく。


「……シュウ殿、よろしいですか?」

「入ってくれ。 幕を広げずにな」


 垂れ幕の向こうからクリクの声が聞こえたので中へ入るように促した。 ややするとクリクは幕を小さくのけて、横身で中に入ってくる。


「失礼しま」


 クリクが口をあんぐりと開けて固まった。 シュウの格好を見たからだ。 シュウは口元に指を当てて、クリクに笑いかけた。


「誰にも言うなよ」

「は、はあ」


 はウルザへの対策だ。 ぎりぎりまで隠し通しておいた方が効果が高まる。 と言っても、この程度は魔法と呼べるものではないが。


「んで、何か用か?」

「こんな時に言うべきことか迷ったのですが、その」

「話せ」

「一部の市民が逃げだそうとして、風の民に殺されました」

「そうか」


 恐らく長老たちの誰かだろう。 付け入る隙が少しでもあると思ったのだとすれば、愚かな判断としか言いようがない。 そこまで責任は持てないことだ。


「私はその時ちょうど石壁の上で、生き残りの兵隊と話していました。

 ハコンがどのように死んだのか、聞いておきたくて」

「風の民の戦いを、じかに見たんだな?」

「はい。 あのウルザという女でした」

「……とんでもねぇやつだったろ」


 クリクは小さく頷いた。 肩が震えている。

 ハコンが死んだことも、納得せずにはいられまい。


「勝てるのでしょうか? あのような相手に……」

「俺がやらなきゃ皆殺しにされるだけだ」

「シュウ殿……」

「どうせお前に出来ることは何もない。 俺が勝った後のことでも考えてろよ」


 クリクは顔を上げると、首を横に振った。 シュウが勝ったとしても、ナグハ新市場が元通りになるわけではない。 シュウが去り、クリクが代わりの総長となる。


「不安か?」

「俺に出来るわけがありません」

「お前なりにやればいいさ」

「俺なりって……」

「お前はグレンほど強くなく、ハコンほど冷静でもない。 サフィラのように高度な文書を読み書きすることも出来ないし、カイナに関しちゃ…… 言うまでもねぇな」

「知ってますよ、そんなこと」


 クリクがむっとした顔で肯定したのを見て、シュウは卓上の杯を手に持った。

 喉の渇きは、あまり気にならなくなっていた。


「しかし、そんなお前にもひとつの才能がある」

「才能?」

「お前は平凡な人間だよ。 戦場に出るくらいのことは出来るが、特段強くはない。 商人の仕事は出来るが、学んだことを引き出して状況に当てはめるのが限度だ。

 誰も思いつかない商いをやれるほど秀でた発想の力はない……」


 杯をクリクに手渡す。 水面に、その顔が映り込んだ。


「クリク。 お前は鏡のような男だ。

 在るものを写し返すことはできても、何もないものを写すことはできない」

「鏡……」


 だからこの男を傍に置いたのだ。 シュウにとってクリクの反応は常にありきたりな人間の目安だった。 考えを告げられたクリクが大きく取り乱し、感情を露わにするほど、それはやる価値のあることだと思えた。


「鏡には鏡のやり方がある。 最初はサフィラに読み書きを教えてもらって、俺の代わりに交易隊を使えるようになるといい」


 東方への交易が安定すれば、そうそう市場の経営は傾かない。

 総長らしさが身についたら、機会を見つけて長老たちの子息に褒美を与え権力を若い世代に移させろ。 時間のかかることだが、気長にいけ。 長老たちのご機嫌も伺って、ばれないようにやるんだ。

 その間にすることは、まず何より食糧の蓄えを増やすことだ。 長期保存の効く穀物は市場に出さず、凶作に備えて貯蔵しておけ。

 余った穀物は兵糧にしろ。 今ある兵糧で一年食わせられる規模の兵士を常に手元に置き、そうでない者は農地に帰すか軍以外の働き場所を用意してやれ。 兵隊を持ちすぎると富が遠のく。


「どこに攻めに行く必要もないが、訓練だけはしっかりやれよ。

 ハコンがいないから、時々はお前が自分でやった方がいいかもしれない」


 あとは風の民との関係も回復させて。

 そこまで語ったところで、クリクが口を挟んだ。


「シュウ殿にはそこまで見えているのですね」


 下を向いて、悲しげな眼をしている。


「難しいことは言ってねぇ。 何年か勉強すればお前にも身につくさ」

「それなら俺は、あなたにも普通でいてほしかった」

「何?」

「王など目指さず普通に市場を切り盛りしてくれていれば、シュウ殿はきっと立派な総長になったでしょうに」


 ナグハから目指す王への道は、もう崩れたと思っている。

 どうでも良くなっていたが、クリクに言いたいことが沸き起こった。


「普通に、か……」


 多分俺は、後を引き継ぐこの男に分かってほしいのだ。


「普通にやってたら、俺たちはあの日、カイナを頼らずに死んでたぞ」

「それは……!」


 反論しかけたクリクに手のひらを向けた。 クリクが口を噤む。


「普通の俺たちは汚らわしい長耳には頼らないし、よしんば賊どもを退けたとしても奴らを殺していた。 サフィラを神殿の外に引っ張りだすこともなく、ハコンやティラードはきっと兵隊のひとりのままだっただろう」


 そして鉄を発見することはなかっただろうし、市場の発展もずっと緩やかになっていたはずだ。


「この世界で普通というのは、そういうことだ。 どんなに秀でた才能を持った人間でも、生まれ育ちで劣っていると見なされれば這い上がれない」


 その例外が俺なのだと、シュウは思っている。 憎むべき父親の思惑が手伝って、長耳でありながら土の民の支配階級として生きることが出来た。

 今まで普通だった物事を、変えられるかもしれない立場が自分にはある。 だから、それを使いたいと思った。


 王を志したのは、歪んだ過去を断ち切る為だ。


「お前は鏡のような奴だが、変わろうとしてきた男でもある」

「…………」

「今のお前には、普通の連中よりでかいことが出来るぞ」


 ただの人間であるクリクが変わるのなら、いつか多くの人間の心も変えられる。 シュウはそう信じてきた。 今も信じているが、その時を自分の力でもたらすことはできないようだ。


 外でざわめきが大きくなってきたので、シュウはクリクに背を向けた。

 対決の時が近づいている。 ウルザが現れたに違いない。


「んじゃ、そろそろ行ってくるわ」

「シュウ殿!」


 垂れ幕に手を伸ばしかけた時、クリクの声が呼び止めた。 背を向けたまま、言葉を待つ。 無言の時間にクリクのためらいを感じる。 やがて意を決したようにクリクは言葉を紡いだ。


「あんたは、普通の人じゃない」

「……いきなり、なんだってんだ?」

「俺が普通の人間なら、あんたは異常だ。 いつもいつも、誰も思いつかないようなことを考えて、実行に移してきた。 その度に俺は振り回されて、ひどい目に遭ってきた……」

「お前の反応を見るの、結構楽しかったぜ」

「俺も同じだ……!」


 思わず振り向きかけて、こらえた。

 クリクと話していて不意を打たれた気分になったのは、初めてだ。


「あんたのわけのわからないやり方に、どきどきした。 こんなことはおかしい、やっちゃいけないと思う度に、心のどこかではもっと先が見たい、次は何をするんだと思っていた」

「変なこと言うんだな、お前」

「ウルザは強い。 凄まじく強い風の民の中でも、きっとあいつが最強の戦士だ」

「知ってるよ」


 だけど。 それでも。

 絞り出すような声で、クリクの顔が濡れていることが分かった。

 振り向きはしない。 見ないでおいてやる。


「あんたならやってくれるんだろう、シュウッ!!」

「……当然だ!」


 シュウは垂れ幕の外へと歩みだした。

 晴天の空の下。 満場の土の民が囲う広場が、時を待っている。



 最後の戦いの舞台へと、シュウ・ヴォクン・オミが往く。

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