第4話『シュウ・ヴォクン・オミ』(1/6)

 全てはあっという間のことだった。


 あっという間に馬に乗った風の民がやってきて、あっという間にシュウが負けたことが分かった。 奴らはあっという間に市場に我がもの顔で踏み入ってきて、あっという間に滅びを告げた。

 クリクに出来ることは何一つなかった。


 そして、気がついた時には、シュウが耳飾りを外していた。 中ほどで切り落とされた三角形の耳。 そのふちにあるやけど跡に、幻が見える。 長い耳の幻だ。

 きっとそれが見えているのはクリクだけではない。 この場にいる誰もが、シュウの正体を悟っている。 だからこの場にいる誰も、喋れなくなってしまった。


「大戦士ウルザ! 風合わせの儀にて、ここに審議を求める!

 まさか嫌だとは言わせねぇぞ!」


 シュウが風の民の長に向けて高らかに告げた。

 風合わせの儀というものが何なのかクリクには分からない。

 シュウは知っている。 どこでそんなものを知ったというのか。


 身体に流れる血の半分が、シュウに教えている。

 嫌な考えを抱いてクリクは首を振った。 カイナを受け入れたはずなのに、シュウの耳を直視できない自分が確かにいる。

 なんと浅ましいのだ、俺は。


「貴様が、私と風合わせだと?」

「そうだ」

「貴様如きが」


 風の民は吐き捨てるように呟く。 シュウの尾が逆立つのが見えた。 今までクリクが見てきたシュウのしっぽは、いつも緊張感なくゆらゆらと揺れていた。


 恐れているのか、あの女戦士を。 それほどまでに強いのか、風の民は。

 グレンが倒されハコンが死んだという報せも、間違いではないのか。


「俺如きの挑戦でも断るあんたじゃあるまい。 ああ、それともさっきのはまぐれ勝ちだったと思ってるのか? そいつはそいつは……」

「下郎」


 シュウが一歩のけぞった。

 女はただ一言発しただけだが、シュウは明らかに動揺している。

 後ろで見ているだけのクリクにとっても、それは同じだった。


 女の声に、異様な力がこもっているのだ。

 その力は背筋のみならず、全身が凍てつくような圧を相手に与える。

 直接声を浴びせられたわけではないクリクでさえ恐怖を覚えるのだから、怒りの対象であるシュウの感じるプレッシャーがどれほどのものか、想像に難くない。


「だ、だったら、断るっていうのか? そしたらあんたの不戦敗だ。 俺との勝負から逃げて俺を殺すなんざ、戦士としての名に傷がつくんじゃあないか」

「くどい」


 女が吐き捨てるように呟くと、黒い馬の眼が光った。 まるで女の怒りを読みとったように、獰猛な輝きが宿る。 もしかすると、心が通じ合っているのかもしれない。 風の民や馬のことは分からないが、そんな気がする。


 主を煩わせる邪魔者を食い殺す。

 黒い馬の怒りが膨らんでいく。 怒りが闘気に変わる。 女が金色の眼でシュウを睨む。 人馬の意志がひとつになって、動き出す。


 黒い馬が突っ込む、その瞬間である。


 横合いから割り込んだ何者かが、黒馬の顔面に拳をねじ込んだ。 甲高い鳴き声を上げて、黒い馬が吹き飛ぶ。 クリクの頭ほどの高さを舞った馬は、そのままの姿勢で着地した。 女は馬の背に座ったまま、みじろぎもしない。


「バウラン!」


 女が闖入者ちんにゅうしゃの名を呼んだ。

 バウランと呼ばれたのは、ふくろうの耳を生やした髭面の男。

 男は白髪交じりの頭を横に振ることで応えた。


「何故だ」

「ウルザ様。 恐れながら」


 ウルザとバウランは簡潔な言葉を交わし、互いの馬首を傾けて近寄っていく。

 ウルザは馬上で腕を組み、バウランは片腕で手綱を掴みながら馬を歩ませる。

 もう片方の腕は、見当たらない。 隻腕だった。


「風合わせの儀、受諾すべきかと」

「弱虫と戦えというのか」

「血に風の流れる者には、審議を求める資格がある。 それが掟です」


 シュウは呆然と二人の問答を聞いていた。 しっぽの先はまだ固まっている。


「この私に掟を説くのだな」

「いかにも」


 ふたりの風の民は間近に馬首を寄せ、訥々とつとつと語る。

 バウランの返答を区切りに言葉が途切れ、両者は黙って睨み合った。


 クリクが瞬きをすると、ふたりが消えた。 空気の弾ける音がする。


「!?」


 次いで横合いより土に倒れ込む音。 弾かれるように視線が動く。

 バウランと茶色の馬が、井戸の傍に崩れ落ちている。

 反対側に視線を移すと、ウルザと黒馬が変わらぬ姿勢で佇んでいた。


 戦った、のか? あの一瞬の内に。


「ギーメル」


 ウルザが下を向いて言った。 何かと思ったが、きっと馬の名前だ。

 黒い馬の鼻から、血が垂れている。


 バウランは立て膝をつき、開いた手の甲の側を地べたにつけた。

 見慣れない所作だが、風の民の作法ということは二人の立場で察しがついた。


「片手で二度も殴るか。 してやられたなぁ、ギーメル」


 呟いたウルザが自嘲気味に笑った。 初めて人間らしい感情を垣間見たような気がする。 笑うことが出来る女だったのか。

 ウルザはすぐに笑顔を消し、峻烈な表情に戻った。 だが、声は氷のようではなく、熱がある。 ギーメルの鼻血を指先で拭い、高らかにバウランへと告げた。


「弱虫の要求は受け付けぬ。 しかしバウラン、貴様は別だ!」

「ならば、我が名において風合わせの儀を所望いたす!」

「承認する!」

「種目は馬相撲にて。

 代理人にシュウ・ヴォクン・オミを任じますが、よろしいな!」

「承認する!」


 流れが変わっている?

 この風の民はどういうわけかこちらの味方をしていたらしい。

 シュウが望んだ風合わせの儀とやらが、行われる運びになっているようだ。


 シュウもまた状況を理解している。 しっぽがうねりを取り戻していた。


「そうか、やってくれるのか!

 そいつはありがたいが、俺ぁ馬を持ってねぇし、乗れねぇ。

 初心者向けの大人しい馬も貸してくれねぇか?」

「…………」


 いつもの調子を取り戻して言ってのけたシュウに、ウルザはなんとも言わない。 一瞥をくれた後、バウランに視線を戻す。 無視されたシュウの尾が、また硬くなった。


「風合わせに臨む代理人の為、若馬を一頭分け与えたく思うが、いかがか」

「……承認する」


 結局、シュウを飛び越して二人の風の民は話をまとめてしまったらしい。 シュウの狙っていた運びではあるのだろうが、今までとは違う。 シュウが自ら思い通りにしたのではなく、割って入った風の民に救われた格好だ。

 それに普段のシュウにはいつもどこかに余裕があったが、今はそれがない。


「土の民よ。 三日後、私とこの男が戦う。 それまで、送還の儀は延期とする」


 一方的に宣言し、ウルザは市場を出て行った。


「先ほどの話通り、後で若馬を連れて参りましょう」

「あ、ああ」


 バウランは片腕で馬を起こし、特に脚を念入りに確かめてから背に飛び乗る。 大きな怪我はなかったらしい。

 シュウは不思議そうにバウランを眺めながら問いかけた。


「なあ、あんた一体……」

「またお会いしましょう、夕暮れ時までには!」


 ハァッ! 喉を張った声と共に、バウランも市場の外へ消えていった。


「なんなんだ、あいつ」


 質問は棚上げにされたが、バウランの意図を考えている余裕はなさそうだ。

 シュウ以外の面々は、それよりよほど大きな謎に直面しているのだから。


「ああ…… そんなに睨むなよ。 ちゃんと話してやるさ」


 クリクの後ろで、無数の人々が山になっていた。

 誰もがシュウの話を聞きたがっている。

 シュウが長耳であるという事実から生じた疑問を、解き明かしたがっている。


「気分のいい話じゃあ、ないと思うけどな」


 シュウは笑ってみせたが、クリクの眼にはどうしても笑顔には見えない。


 ――あんたの笑顔は、もっといやらしいはずだ。


      ◆


 シュウが満場の人々を前に立った。

 耳飾りは、まだ外したままにしている。 爛れた傷跡を風が撫でた。


「それじゃ、どっから話すかなぁ……」


 平静を装っていて、あまり普段のシュウを知らない者たちにはいつも通りにも見えそうだが、クリクには分かる。 覇気とも呼ぶべきものがない。


「あ、そうそう! みんな気になってんのは、ここだよな?」

「長耳」


 シュウが自分の耳を触りながら話した時、言葉が終わるのを待たずに誰かが口を開いた。 長老のひとりだった。 シュウの表情がこわばる。


 長老たちの中ではもっとも若い、四十がらみの男だ。 大柄で酒好きな、しかし力仕事はやりたがらない手合いだったと記憶している。 脂ぎってぱんぱんの顔が、怒気で赤くたぎっている。


「よくも騙しおったな」

「お前は偽物だ。 オミ商会に連なるお方が長耳のはずがない」

「本物のシュウ様を殺し、成り代わったのだな!?」


 長老たちが次々にシュウを糾弾し始めた。 内心ではシュウの振る舞いにかなりの苛立ちを募らせていたこともあるのだろう。 我慢の理由が消えた。 あるいは、堪忍袋の尾が切れたのか。


「おい、お前ら」

「くたばれ、長耳!」


 長老のひとりが石を投げ始めた。 それを皮切りにして他の長老や村人も手近なものを拾い集めて放り投げる。

 多くは市場の中で勤めていて戦場でのシュウを見たことがない者たちだったが、シュウを心酔してきた兵たちも止めに入ろうとしない。 他ならぬクリクも、足が地べたに貼り付いたように動けずにいた。


「詐欺師め!」


 シュウの額に投石のひとつが食い込み、血が流れ出した。


「シュウ殿!」


 シュウは少しよろけたが、一歩も退くことはなかった。

 流れ落ちる血を拭おうともせず、怒号と投擲の中を歩き始める。


 ゆっくり、ゆっくりと、シュウが歩いた。


「てめぇら……!」


 シュウがにじり寄ると、長老たちが物を投げるのをやめた。


「ひっ!」


 代わりに飛び退くように、近づいてきた長耳から離れていく。

 シュウが一歩進む度に、人波が割れる。


「俺が長耳で、詐欺師。 ごもっともじゃないか。

 ばれちゃ困るから黙ってたのは本当のことだしな……」


 人だかりに出来た空白の中心点でシュウが言った。

 薄ら笑いを浮かべ、茫洋とした眼で周りを見渡している。


「しかし間違ってる部分だけは否定しておく。

 悪ぃんだけど、俺は紛れもなくオミ商会の血を引いてるよ。

 そうでなきゃ東にいるカンパ兄やんと商売できんでしょうよ」

「ならば、当主様が風の民と子をなしたというのか?」

「馬鹿げた話だ」

「我が親父殿は生まれついての商人らしく、強欲なタチでね……

 罠にかけて生け捕りにした風の民から、上玉の女を個人的に頂戴したのさ」


 自嘲したように横を向き、シュウはさらに呟いた。


「直に聞いた話では、賢明な土の民の血と勇猛なる風の民の血。

 ふたつを掛け合わせて作った子に、特別な力が宿ると思ったそうだが……

 本当のところは自分の血を引く手駒を増やしたかったんだろうな」


 シュウが人間を土の民と呼んだことが、クリクにはショックだった。

 身体だけではなく、心の半分もシュウは風の民だ。 あるいは、そのどちらでもないのかもしれない。 ますます距離が遠のいていく気がする。


「そういうわけで親父殿の妻になった母上は地下牢の中で病を得て、この世の全てを恨みながら死んでいった。 母上がいなくなった後で、俺は正式に息子として引き取られた。 この耳を綺麗に整えて、土の民にってワケさ」


 語るシュウの顔に張り付いている笑みは悲愴だ。

 ずっとおどけた態度で隠してきたものを、シュウはさらけ出し始めている。


「だから、あなたは……」


 気がつけば、クリクは口を開いていた。 止められない。


「シュウ殿。 ……だからあなたは、王を目指すのですか。

 オミ商会に。 父親に復讐する為に、戦い続けるつもりなのですか?」


 俺は今、とてつもない侮辱を口にしている。 シュウのしてきたことを、全て嘘にしようとしている。 シュウを信じ続けたい自分を押しのけて、シュウを裏切り者と断じたい自分が代わりに喋っている。


 きっと、どちらの感情も本物で、正直な方の自分が語っているのだ。


 クリクの言葉を聞いて、シュウがほんの少しだけ泣きそうな顔をした。

 それもすぐ、嘲るような笑いに変わる。


「復讐か。 そういう言い方もあるな。

 ……俺は母上を虐げ、俺を飼い犬にしようとした父親が許せん。

 奴の信ずる摂理にゴマをする、お前たち長老のような連中もだ!」


 だから。 両腕を広げたシュウが、正面を睨んだ。

 笑みは消え失せた。 例えようもない憎悪の色。


「お前たちがすがっている古い世界のしきたりを叩き潰し、俺の都合がいいようにこの世界を変えてやる。 それが俺の復讐! シュウ・ヴォクン・オミの計画だ!」

「な、なんということを……!」


 シュウの宣言を聞き、長老たちが肩をわなわなと震わせる。


「わしらは貴様のような男を総長とは認めぬ」

「クリク殿だ! 後任者にはクリク殿が相応しい!」


 どきりとした。 何を言い出すのだ、こいつらは。


「クリク殿、お頼みしますぞ」

「ゲンガン大市場から来てくださった本物の商人は貴方をおいて他にない!」


 否定する間もなく長老たちがクリクの背後に居並んだ。

 まさかと思ったが、どうやら本気で言っているらしい。

 商人として駆け出しに過ぎない自分を、ただシュウ憎さだけで総長に据える?

 喉の奥に苦いものがこみ上げてくるのを感じた。 反吐が出るというのは、こういうことなのか。


「クリクに? それも悪くはないかもな」

「シュウ殿!?」

「公文書の読み書きはサフィラに教えてもらえばいいし、人が要るなら俺から紹介状くらいは書いてやってもいいぞ。 置き土産ってのは残しておきたいしな」


 長老たちの妄言をおちょくった、わけではない。 シュウは至って本気の様子で口にしている。 本気でクリクに後を託し、市場を去ろうと考えている。


「俺も氏素性を明かした以上、総長を続けていられるとは思っていない。

 ……だがな、老いぼれども。 これだけは言っておくぜ」


 低い姿勢で睨みつけていたシュウは勢いよく胴体を起こすと、今度は胸を張って長老たちを見下した。 元々背の高いシュウが、さらに大きくなったように見える。


「俺が死ねばてめぇらも全員死ぬ運命。 すなわち俺がウルザに勝ったとしても、お前たちは長耳に命を救われた惨めな土の民として余生を送るってことだ。

 それを忘れるなッ!!」


 シュウが踵を返し、立ち去っていく。 高笑いが響いた。

 乾いた声が、近づこうとする者を拒んでいるようだった。

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