第3話『鷹のウルザ』(2/5)

 ――地上最強の生物とは何かという問いに、人類という答えでは不十分である。

 正解は風の速さを得た人類。

 人類の覇権は、馬と出会った時に確かなものとなった。

カシュ・ルボヤスカ(ポーランドの歴史学者)


      ◆


 脚立の上で、へりにたまった埃を払った。 細かい塵が鼻孔を撫で、くしゃみが飛び出そうになるのを我慢した。 下から見上げた時には隅々まで日頃から丁寧に掃除されている様子だったが、目に見えないところに汚れは溜まっている。

 無理もないことだ。 老爺と若い娘のふたり暮らしで、高いところの掃除などあまりできることではない。

 雑巾で丹念に石壁を擦り、クリクは脚立から降りた。

 脚立を中ほどまで降りたところで、石像と眼が合う。 人間の体に水牛の頭が乗った、農村の神殿には比較的よくある神像だ。 穏やかな顔をしているのだが、間近で見ると結構迫力がある。


(意外と、いいものを見たのかもな)


 神殿の床に立ち、もう一度石像を見上げてからクリクは思った。


「どうもありがとうございます」

「あ、どうも……」


 下で待っていた女性に微笑みかけられて、クリクははにかんだ。

 大きな眼の下に、ほくろがある女性だ。 笑顔をこんなにまっすぐ向けられると、気後れせずにはいられない。

 珍しい赤茶けた髪も、個人的には好きだ。 肉付きの良さも、きっと厚ぼったい平服で着膨れして見えるわけではない。 両手を合わせてお辞儀をすると胸の肉が浮くので分かる。 胸がぽよんと浮くのだ、ぽよんと。

 それに何より、先がくるんと巻いたしっぽがいい。

 形のいい胸と、形のいい尻と、形のいい尾。 全てに丸みがある。 包み込んでくれそうな丸みだ。


 眼福。 間近で見る石像よりもよっぽど得をした。

 クリクはもう掃除の手伝いをしただけの元を取った気になっていた。


「きっと、神々も喜んでくださいます」

「ところで…… ええと、サフィラさん。 司祭様のお帰りにはまだかかられるのかな?」


 見た目にばかり眼が入って名前を忘れかけていた。

 悪い癖だ。 どうにか思い出して女性の名を呼び、話題を戻す。


「いつも通りなら、そろそろ帰ってくるころです」


 軽くうなずいて椅子に腰掛けた。

 自慢ではないが、今のクリクはナグハ新市場において事実上シュウに次ぐ地位にあり、神殿の掃除を手伝っている立場ではない。

 ならば何故、掃除などやっているのかと言えば、結局はシュウのせいだった。


 ――王。

 シュウが目指すと言ったその新しい何かについてクリクは知識を持っていない。

 分かっているのは、王というものが商人に代わってまつりごとを執り行うということ。

 それに、王を目指す者は人間を平気で殺し、戦を巻き起こすということだ。


 それ以上のことを知る為に、神世の時代に詳しい人間が必要だった。

 そこでナグハ村の神殿を訪ねて司祭に頼み込んだところ、神殿の大掃除と引き替えという条件で王についての教えを得られることになった。


 商人らしく言うなら、これも商いの内だ。


「おお、クリク様。 やってくださいましたな」


 戻ってきた老爺が感心した風な声でクリクを呼んだ。

 ちょこちょこと歩いてきて、神像の下から石のへりを見上げる。

 この場所から掃除の具合など見えもしないのに、老爺は見えているかのようにうんうんと深くうなずいた。

 敬虔な司祭の眼にはクリクが一生懸命掃除をした跡が分かるのかもしれない。


「司祭様も、いつもながらご苦労様です」

「ほほ、まったく。 老いぼれにはただのお祈りも堪えますわ」


 そう言うと、司祭は里芋を神像の前に捧げ置き、油を差した台に火を灯した。

 薄暗い神殿の中に小さな光が生まれる。

 神像の表情が厳かに移り変わった、ような気がした。


「では約束通り、お話いたしましょう。 王について」


 司祭が振り向くと、クリクはいつの間にか恭しく頭を下げていた。


      ◆


 ━┳━

 ━╋━

 ━┻━


「これが、王です」

「これが、王ですか」


 司祭が粘土板に大きく刻み込んだのが神聖二千文字のひとつであることは、音節五十文字の心得しか持たないクリクにも想像できる。 三本の横棒を一本の縦棒が繋ぐ単純な構造の文字で、今日忘れるということは絶対にない。

 こんな単純な字が、シュウの言う新たな時代を導く存在を表しているというのか。

 クリクの感情を見抜いたように司祭は粘土板を裏返した。

 今度は別の、もう少し複雑な神聖文字を刻み込んでいく。


「これをなんと読むのか、ご存じですかな」

「いいえ」


 二つの神聖文字を並べている。 それだけは分かった。

 神聖二千文字は音を表した文字ではなく、一文字ひと文字が意味を持っている。

 同じ文字を違う音で読むこともあれば、違う文字を同じ音で読むこともある。

 そんな文字が二つも連なれば、専門的な教育を受けていないクリクには想像することさえ不可能だった。


 返事をした後も悩んでいると、司祭がにっこりと微笑んで正解を口にした。


「商人、です」

「なんと」


 商人とは、このように書くのか。 知らなかった。

 ふた文字もあって、一文字目は難しそうだ。


 商人が王という文字よりも複雑な行程を必要とすることに、クリクは奇妙な安心感を抱いた。 難しい方が、偉大なものであるという気がしたからだ。


「商人を意味するこの文字が、二文字の連なりであることはお気づきですかな?」

「ええ」

「結構。 では一文字目と二文字目に与えられた役割をお教えしましょう」


 クリクは居住まいを正した。

 貧民から取り立てられたクリクが神聖二千文字に触れられる機会は、どんなに真面目に働いたとしても年寄りになってからのはずだった。

 それを十五に過ぎない今、神秘の一端だけでも伺い知ることが出来る。


「もっとも、理屈が分かれば単純なことです。 一文字目は特徴を意味し、二文字目が分類を表している」

「と、いいますと?」

「二つの文字を合わせて、商いをする、人。 そういう意味になるのですよ」


 話すペースに合わせながら文字を指さし、司祭は語った。

 一文字目が商いを意味し、二文字目は人間を意味する、ということか。


「ということは…… 二文字目を大地を意味する言葉に変えたなら、それは市場という意味になるのですか?」

「ほっほ! ……目の付けどころは、実に結構。 しかしながらそうも行かないのが、神世文化の難しいところでございます」


 司祭はにっこりと微笑んで答え、粘土板の“王”の側をもう一度こちらへ向けた。

 神聖文字についてもっと知りたい気持ちが湧き起こったが、今は本題ではない。

 今知るべきは、王についてだ。

 司祭は王という字を通じて何かを教えようとしてくれている。


「神々は商人を表す為に二文字を必要としました。 しかし、王という字には一文字しか与えていない。 この事には、重大な意味があるのですよ」

「重大な意味、ですか」


 顎に手を当てて考えても、商人の方が高等だという考えしか浮かばない。

 司祭の言わんとするところは、違う気がするのだが。


「王という字の方が、単純に出来ておりますでしょう」

「それは分かります」

「商人の二文字目。 人間の字も単純に出来ておりましょう」

「……確かに」

「神々が頻繁に必要とした文字は、このように単純に出来ておるのです」


 驚嘆の声が漏れた。

 司祭の言おうとしている事は、クリクの考えていた事とは逆だ。

 前に何かを足してやる必要がない。

 支えを必要とせず、ひとつで確立された存在。

 神世の時代において、王がそれほど重要な存在だった、と司祭は言っている。


「我々の歴史では初めに多くの作物を実らせた族長が支配者となり、次に族長の信任を得た運び人が商人となり、支配者となった。 だから政の中心は市場であり、商人同士が話し合いで人々を治めてきました。 ……しかしです。 神世の時代には、神々の歴史があります」

「神々の、歴史」

「もしかすると、神々が地上にいた頃は王がいない方がおかしかったのかもしれませんよ」


 あまり信じたくない話だ。

 しかし、誰よりも神世の時代を知り抜いた司祭の言うことには、きっと無視できない説得力がある。


「では、商人による政は間違っていたのですか。 王による支配こそが、正統なのですか」

「そうとは限りません。 神々とて、間違いをするのです。 もし神々が常に正しい道だけを選んでいたら、地上を去って人間に大地を託すことはなかったのですからね」

「……ならば王は、神々が犯した過ちだった?」

「違います。 少なくとも神世の古文書にそのような事実は記されていない」


 段々頭がこんがらがってきた。 結局どっちなんだ。

 王を知りたくてここへ来たのに、何も分かっていないのではないか。 眉を谷の形に、唇を山なりに考え込んでいたクリクを見て、司祭は粘土板を置いた。


「新しく何かを知りたい時、それが正しいか間違っているかという考え方はおやめになった方がよろしい」

「むう」

「クリク殿にとって王が正しいか間違っているか。 この世界が王の時代を必要としているのかどうか。 まず知ってからでなくては、誰にも見極めることはできません」

「…………」


 思わず、胸に手を当てていた。

 王のことは、シュウから聞かされただけだ。

 聞いた話で、とても嫌だと思った。

 一人のわがままが許される政など、あってはならないと今でも思う。

 しかしそれだけでは、王を知っているとは言えない気がする。

 シュウは肝心なことを自分に語らない男だったではないか。


 ドカァッ!!


 叩きつけるような音を聞いて、弾かれるように振り向いた。

 丈夫な木で出来た扉が、蹴破られている。

 太陽を背にして、大きな男の影が映る。

 日の光で出来た影絵に、長いしっぽの形が見える。


「邪魔するぜ」

「しゅ、シュウ殿!?」


 何故こんなところに。

 クリクが尋ねる前に、後ろからシュウの服を引いて止める者がいた。

 巨乳のお姉さん。 いや違う。 サフィラだ。


「おやめください、総長様! 奥の間に入る時は武器を預けていただかないと……」

「こいつは友達からの預かりもんだ! 万一盗まれちゃ困るんでな!」


 女がいくら引っ張ったところで止まるわけがない。

 シュウは意にも介さずのしのしと神殿の中を歩き、司祭とクリクの前までやってきた。


「よお。 何してるんだ?」

「……休日に私が何をしていても、私の勝手でしょう」

「それもそうだな」


 あれ以来、シュウと深い話をすることは避けていた。

 そっけなく答えると、シュウもそっけなく視線を外して司祭の方に話しかける。


「司祭ってのはあんただな」

「いったい何用ですかな? 説法の最中に不作法なお方だ」

「俺も、ありがたーい司祭様に相談したーいことがありまして」


 意地の悪い笑みだ。

 相変わらず、というより普段よりひどい気がする。

 司祭はシュウの態度を諌めるように、強い語気で答えた。


「今はクリク殿の説法をしている最中です。 しばし外でお待ちください」


 腹の据わったところがある老人だ。

 市場の責任者たるシュウを相手に一歩も引かない。

 とはいえ、その言い方は、部下の自分としてはかなり気まずいのだが。


「これまで遠方の取引先に送る文や本店への報告書、それから商売日誌などを全部俺が書いてきたわけなんだが、このところ物や商売相手が溢れてきて手が疲れた。 神聖二千文字が使える人材に代わりをやってもらいたく思う」


 司祭の諌言が全く聞こえなかったように、シュウは一方的に告げた。


 確かにバルト商会の蔵から奪った宝物を売りさばいてからというもの、ナグハ新市場は上手く人が集まっている。

 格安の参加費に釣られ、バルト商会の傘下にあった市場から移ってくるものも出たほどだが、参加費が安いだけに市場の運営には苦労が絶えない。 基本的には西で買いつけた商品を東のキントーク地方に運ばせ、交易で利益を上げる。 そして赤字が出ようという時には対立する商家の蔵を焼き払うという、極めて強引な手法によって、新市場はなんとか破産せずに済んでいる。

 その全てに携わっているシュウに無理が出るのは、当然の帰結ではあった。 神聖二千文字の使い手が稀少なことも悩みの種だろう。


(だからと言って、神官を?)


 あまり褒められた行為ではない。

 神世からの教えでは、神官が政に携わることを戒めているはずだ。

 強制的に還俗させるというのだろうか。


「私を神殿から引き離そうとでも言うのですか? とんでもない提案だ」

「そうは言ってねぇ。 神殿が大事な奴らだっているだろうからな。 俺はただ、文字の読み書きが出来る奴が手に入ればそれでいい」


 そう言うとシュウは勢いよく後ろを向いた。

 背後には、ずっとシュウを引き留めていたサフィラがいる。


「はひっ……!」


 突然シュウが距離を詰め、サフィラがびくんと小刻みに跳ねた。

 豊満な胸も縦に揺れる。


「怖がるな、獲って食ったりはしねぇよ」


 そう言うとおもむろに、シュウが足払いをかけた。

 かくん、とわずかに宙を浮いたサフィラの胴体を右腕で受け止めると、浮いた方を左腕ですくい上げるようにして抱え上げる。

 寝具に横たえられたように、サフィラがシュウの腕の中に囚われた。


「きゃあぁっ!?」

「この女、もらっていくぞ!」

「な、なんですと!?」


 毅然と構えていた司祭が慌てふためいた。

 信じがたい行為だ。 いくらシュウでも、ここまでやるか。


「何を考えておるのだ、あなたは! サフィラはわしの娘であり、この神殿に仕える神官ですぞ!?」

「嘘を言っちゃいかんなぁ、司祭様。 自分たちで広めた言い伝えを忘れたのか?」

「い、言い伝え……?」

「そうだ! 女が神官になることは禁忌で、神殿で働く場合には司祭の親族のみがそれを許される。 それが神世の時代からの取り決めだと俺は教わった!」


 司祭が軽く呻き、眼を反らした。


「司祭の家族は神官なのか? 違うだろうが! ならばこいつをどこへ連れて行って何をさせようが、この俺の勝手だ!」


 反応を見る限りではシュウの語る言い伝えは事実らしい。

 だが、こういうのは揚げ足を取っていると言うのではないか?


「お、お考え直しなさい、シュウ殿。 もはや私の妻は亡く、神殿を滞りなく営むにはサフィラの働きが……」

「ふん。 娘には高いところの掃除ひとつさせられない癖に?」

「うぐっ……!」

「男の働き手を紹介してやる! とっとと子離れしろ、ジジィ!」


 愕然とした表情を浮かべ、司祭が後ろへよろけた。

 なんて言い草だ。 さすがに言いがかりではないのか。


 と、思っていたら、シュウの腕に抱かれているサフィラが眼を反らしている。

 なんと言っていいのか悩んでいるような、笑っていいのか怒るべきなのか迷っているような…… 妙に味のある表情をしていた。

 まさか、それも事実なのか?

 厳かに見えた神殿の、微妙な親子関係を想像してしまいそうになった。


「し、しかし。 しかしです、シュウ殿……」

「なんだ? 娘と離ればなれになるのはさみしいとかほざくなよ」

「うっ!」

「老いぼれは困ったらすぐそれ言うからな!」

「うぐぅっ! む、胸が……!」

「ほんで次は心の臓がどうたら言うんだろ! みんなそうだよ!」

「うぬぅぅぅぅっ……!!」


 司祭の呻き声がますます大きくなった。

 それに伴って何年分か老け込んだように、背を丸めて小さくなってしまっている。


 あの司祭がすっかりおかしくなった。

 シュウの手にかかるとみんなこうなってしまうのだろうか。

 とうとう地面に膝をついて許しを乞い始めた司祭に、シュウは心底愉快そうな笑顔で告げた。


「爺さん、そんなに寂しいのが辛いか?」

「はい……」

「なら寂しくないように新しい仕事をくれてやろう。 あんたにぴったりの仕事をな」


 爺さんが、いや、司祭が一瞬期待を込めた瞳でシュウを見た。

 クリクもこういう顔をしたことがあるような気がする。

 で、大抵の場合期待した通りにはならない。

 司祭の浮かべる顔が先読みできてしまった。


「有望な若者をたくさん集めて、この神殿に教室を開こう。 せっかく見込みがあるのに数の数え方も知らず、文字を読むことも出来ないのでは活躍の場が狭まるからな。 寂しさを覚える暇もないほど忙しくなるぞ」


 シュウの高笑いが神殿の石壁を叩いて跳ね返す。

 司祭が眼を見張り、目尻に涙を浮かべた。

 やっぱりこうなったじゃないか。


「ま、後でじっくり考えろよ! あんたにとっても悪くない話だと思うぜ!」


 そう言って、シュウは踵を返した。

 胸に抱かれたサフィラは大人しく運ばれていく。

 自分を溺愛している父親を気遣ってか多くを語らないが、抵抗しないということは、要するにそういうことなのだろう。


「あ、そうそう」


 シュウが立ち止まった。 まだ何かあるらしい。


「あれだけ活躍したにも関わらず、市場にはまだカイナを悪く言う不届き者がいる。 気に食わんから言い伝えの長耳に関する部分をなんとかしてやめさせろ」

「そ、そ、そんな無茶な……!」

「言い伝えの曖昧な文章なんぞ、解釈次第でまるで逆の意味に出来ちまうもんだ! ご自慢の説法でなんとかしな!」


 言うだけ言い尽くして、シュウは去っていった。

 ほとんど同時に像の前を照らしていた灯りが消える。 油が切れたらしい。


「大丈夫ですか、司祭様」

「だいじょうぶじゃない……」


 すごく大丈夫じゃなさそうな反応で司祭は答えた。

 床に座り込む姿まで、いじけた三角の形になっている。


「ううっ…… これで、これでお分かりになったでしょう、クリク殿……」

「何がですか」

「王の時代とは、こういうものです……」


 古くからのしきたりを自分の都合で行使し、それにも飽きたらずしきたりを自分好みの意味合いに変更しろとまで要求する。

 一人の意志と思いつきで、先祖代々の伝統も軽くなぎ倒す。

 これが王だとするなら、確かにシュウ以上の王はいない。

 あまりに恐ろしく、傲慢な存在だ。


「あの…… 俺、これから市場へ行くんですけど、夕方に何か買って参りましょうか?」

「サフィラ……」

「諦めてください」


 泣き崩れた司祭を後にして、神殿を出た。


      ◆


 神殿からちょっと歩くと、もう中央市場に入る。

 神殿は昔からこの村に建っていて、クリクたちが訪れた初めの頃は村外れに位置していたのだが、今ではむしろ住居が固まっている区画よりも盛り場に近い。 隣にあった柵を取り払ってそこに市を開く為の広場を設けたからで、つまりは後から開発の手が入ったのだが、こう賑わっていると神殿の方が浮いて見える。


 市場に近いことが便利であるには違いないのだが。

 クリクは市場へ足を踏み入れていく。


 シュウの施策を耳にした時はどうなることかと思ったものだが、市場の賑わいは相当なものだ。

 建屋を構えて常設の店にしているのは胴元のオミ商会だけで、商品はいわゆる“消えもの”が中心だが、驚きなのは荷車を引いてきてそのまま出店を構える行商人の数である。

 大井戸の周りを遠巻きに囲うように荷車が並んで、まあ品物があるわあるわ。

 人が通る道にまで平気ではみ出して商品を陳列させ、そこら中からは客引きの声が絶えない。

「安い、安いよ!」

 それじゃ駄目だ。 安さを売っているようじゃ、所詮半人前未満の商人。

「さあさ、そこへ行くお嬢さんがた、お立ち会い!」

 こっちは慣れた感じの語り口。 きっと遠くから旅をしてきた行商人だろう。 だけど、ちょっと月並みすぎ。

「う、う、売ってるよ! 売ってるよー!」 明らかに村から出てきたばかりの奴まで店を出している。 商人が何をするのかも知らないんじゃないだろうか?


 玉石混淆の、凄まじい喧噪。

 俺だったらもっと上手く客引きが出来るぞ、とクリクは思う。

 しかしそんな稚拙な賑わいの中で、不思議と物が売れていくのだ。


 近隣の村々のみならず、遠方からの行商人までナグハ新市場に足を伸ばしているのは、極端に安い地代を掲げて誘い込むという手法のお陰だろう。

 大市場の作法を外れたやり方だったが、この活況を見ればシュウの商人としての資質を認めざるを得ない。


 この市場を運営する為に略奪行為に手を染めてさえいなければ、と思う。

 秋の収穫を待ち、収めさせた作物を元手に商いを繰り返せば、五年ほどで今の規模にも出来ただろう。 平和的に、商人の流儀でやっていくことも出来たのに、シュウはそれを選ばなかった。

 王という道を選んだからだ。

 クリクには主人の考えがとてももったいなく思えた。


 市場の中央を抜けて、軽食の出店で魚の串焼きを買った。

 日頃はあまりやらないことだ。 金の粒との引き替えを提案すると店主はえらく上機嫌になって、袋に入れて六尾もくれた。

 魚にはうるさい方だが、味は悪くない。 身が痩せて新鮮でない魚だが、がいい。 甘辛くてとろみがあり、あっという間に一尾が腹に入った。

 もっと脂身のある魚と合わせるとなお旨そうだ。


 二尾目の串に手を伸ばそうか迷っている時、軽食の出店が立ち並ぶ区画の脇に男が集まっているのを見つけた。 平服から出ている脚の筋肉で兵隊だということが分かり、クリクは手を挙げて声をかけた。


「あれぇ? クリクさんじゃねぇですか」


 ちょっとむっとした。 失敗だったかもしれない。

 人だかりの主が、顔に刺青を入れていたからだ。

 今やナグハ新市場で知らぬ者はいない三人の勇者の一人、ティラードだ。


「今日はお休みで?」

「ああ。 お前たちも非番みたいだな」


 ティラードを含めた五人組は、戦場でも共に行動しているので見覚えがあった。

 バルト商会への襲撃で仲を深めたのだろうが、非番の日にもつるんでいるとは。

 彼と出会った三日行軍のトラウマで、ティラード個人にあまりいい印象はないが、面倒見のいいところはあるのかもしれない。


「これ、やるよ。 ちょうど五尾あるから分けてくれ」

「俺らに差し入れですか? 物好きですなぁ」

「たまたまだ。 お前たちが何をしているのかも知らないしな」


 そりゃあいいや、と包みを受け取ったティラードはクリクを茂みの奥へと誘った。 通り道にある細長い卓が気になる。 何か遊技でもやるのだろうか。


「交代々々ごうたいだが、ここはクリク殿に一番目を譲りますぜ。 ささ、絶好の席です」


 席と言われても、こんな茂みに何があるというのだろうか。

 しかもよく見ればどこかから刈ってきた木の枝を寄せ集めて積んであるらしく、茂みとも言いがたい。


「なんなんだ?」

「静かに。 身を屈めて、首を突っ込んで待っててくださいよ」


 言われた通りにした。 地べたに寝そべって茂みに顔を突っ込む。 伏兵の訓練でたまにやるものと同じだ。 顔にちくちくと枝が当たり、あまり愉快でない。


「なあ、何をしようってんだ。 あの卓はなんだ?」

撞球どうきゅう。 知りませんか」

「撞球?」


 球を長い棒で突き、決められた穴に落とせば景品がもらえるのだ、とティラードは簡単な説明をした。

 より細かいところでは、卓上に幾つかの石を不作為に撒いておき、障害物とする。

 球をまっすぐ突いただけでは石に阻まれるので、卓の端に球を跳ね返らせて上手に落とすのが醍醐味なのだそうである。


「ふーん……」

「昔、ウラエドの方で流行ってたんでね。 再現してみたんすわ」


 ティラードがここに落ち着くまでの経緯は知らないが、元は東方から流れてきたのだろうか。 珍しいものを知っていることには素直に感心するが、こんなところから眺めているよりどちらかと言うと自分で試してみたかった。


「なあ」

「おっと! 黙って。 客が来ましたぜ」

「おい……」

「若い姉ちゃんだ」

「なんだと」


 クリクは息を殺して正面を見た。

 活気に呑まれたか、真新しい青の一揃えを着た女の子が棒を受け取っている。

 女性というよりは女の子、と言いたくなる年の頃で、卓の下から伸びた白い二本脚が眩しい。


 あ! しっぽ見えた! 灰色のしっぽがふりふり動いてる!


「おいおい、お前…… おいおいおい……!」

「へへ、いいでしょ。 でも、もっといいのあるんすよ」

「マジかよ」


 ティラードはゆっくりと、なるべく音を立てないように茂みから首を抜くと、中腰になって茂みの上の方に顔を埋めた。 クリクも見よう見まねでついていく。

 上の方の茂みから眼を凝らすと、そこに、あった。

 女の子の、ふたつの丘が。


「……どうすか?」

「うん……!」


 何故なのか? 何故、こんなにもあっけなく、日頃どんなに見たいと欲しても叶わない光景が見れてしまうのか?


 撞球というこの遊技、長い棒で正確に球を突く為にはかなり前傾な姿勢を取らなくてはならない。 そうでなくては棒を球に当てることさえおぼつかないからだ。

 だから棒で狙いをつけることで、自然に女の子の健康的な部分が主張する体勢になる。 そして遊技に熱が入れば入るほど、遠慮のない姿勢になっていく。

 卓に胸を押しつけるような姿勢にもなる。


 それがこの茂みからは一望出来る。 なんと、無料で、見放題。

 と、いうことをクリクは一瞬にして理解した。

 恐らく人生の内でもっとも頭を使った瞬間のひとつである。


「お前さ、これさ……」

「うい」

「天才なんじゃないか……?」

「やっぱそう思います?」


 深くうなずいて、正面を見た。

 顔は十人並みのそばかすが目立つ村娘だが、そこは心底どうでもいい。

 大事な部分はしっかりと見えている。

 大きくて、丸い。 他に言うべきことがあるだろうか。

 真新しい服がちょっと大きめらしく、空間に僅かなゆとりがあるのもいい。


 神々の言葉にというものがあるそうで、意味の方はよく知らないのだが、きっとこういうことなのだろう。


 青い服の女の子は三打目で穴に球を落とすことに成功した。

 ラストは斜めの角度になっててこれはこれで良い。

 心の中で寸評していると、女の子が連れ合いの男に棒を渡して交代したのでクリクとティラードは同時に茂みから頭を抜いた。


「うむ……!」

「面白かったでしょ」

「いや…… なんつか…… “良さ”が、あったよな」

「俺もそう思うんすわ。 で、今はまだ非番のお遊びでお試し中なんすけど、今後常設したいと思ってんだよね」

「常設!?」


 いつでもやっているということか。

 心が疲れた時などに、ふらっと来ていいのか。

 とてもいい話を聞いている気がする。


「で、どうせやるならシュウの旦那から公認をもらいたいんすけど、クリク殿になんか知恵はねーですかね?」

「シュウ殿に……」


 冷や水を浴びせられたような気分になった。

 出来れば今聞きたい名前ではない。

 暗い顔になったクリクを見て、ティラードが唇を曲げた。


「なんかあったんすか」

「何か、というほどでもないんだが」

「あ、また姉ちゃんが来た」

「なんだと!」


 茂みに首を突っ込んだ。 ちょっと歳を食い過ぎ。 さっさと首を抜いた。


「お前に言って分かることじゃないのかもしれないが……」

「ほう。 オイラで良けりゃ相談に乗りやしょう」

「王というものを、知ってるか?」

っぱい?」

「そうじゃねえ」


 王というものについて、分かっていることをクリクは話した。

 武力で人を支配するということ。

 商人のように合議での政を行わないこと。

 バルト商会を襲ったように戦いを繰り返し成り上がろうとしているということ。

 ティラードは茂みに突っ込んだまま、黙って聞いていた。

 よく見ている。 結構熟女好みなやつだ。


「俺はどうしたらいいんだろうか。 なんとかしてシュウ殿を止めなければいけないのか、それとも……」

「ちょ待て、今乳首見えた!」

「なにィ!?」


 首を突っ込む。 もう交代している。 舌打ち。

 今度は父親に抱きかかえられた子供だ。 また舌打ちして、首を抜いた。


「だからな、俺は……」

「んー、別にいいんじゃないすかねぇ」

「なに?」


 オイラにゃ王というものはよく分かりゃしやせんが。 ティラードは前置きを入れた。 相変わらず、首は茂みの中にある。 今遊んでいるのは幼い女の子だったと思うが、見境なしかこいつは。


「商人ってそんなにいいもんすかね、政って分野に関して」


 むっとして言い返そうとしたが、言葉に窮した。

 王の政というものは、まだ分からない。 資料があるとしたら、多分このナグハだった。 今まで世の中を上手く回してきたのが商人だとしても、ここに闊達な市場を作ったのはシュウだ、ということにもなる。

 シュウのやり方は独断専行で強引だったが、今までの商人らしいやり方でこんな市場が出来たのだろうか。

 クリクは答えるのをやめたまま考え込んだ。


「上にいるのが商人だろうと、その王様ってのだろうと、オイラたちは命令に従うか逃げるかってだけじゃん」

「……そうだろうな」


 ティラードのように村人から取り立てられた人間にとって、上がどう変わろうがそれこそ雲の上の出来事なのだろう。 選ぶ権利はないし、考えるだけ無駄というものだ。 もう少しみんなが先々のことを真剣に考えてもいいと思うが、クリクに責める筋合いはない。


「俺ももう少し、気楽になった方がいいのかなぁ」

「や、もう十分気楽にやってんでしょ」

「そんなことはない」

「また若い姉ちゃんが来ましたぜ。 でけぇ~」

「そうか!」


 茂みに首を突っ込み、クリクは瞳を凝らし続けた。 本当にでかい。 思わず下側の茂みに潜ると、太ももがむっちりしていて素晴らしかった。 これで、しっぽが長かったら完璧だったんだけどなぁ。 でもひとつくらい欠けがあった方が記憶に残るのかもしんないな。


「お前どう思う」

「あれ、めっちゃ揉みたくないすか?」

「だよな」


 夕暮れ時まで、クリクはティラードと並んで茂みの人になり続けた。


 余談ながら、その日最後の上客を見たクリクが気をたかぶらせて前へ乗り出した為に急拵えの茂みが崩れて事は露見した。


 撞球場は一日で潰れた。 茂みの人は滅んだ。

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