第3話『鷹のウルザ』(1/5)
あまりに臭く、寒い場所にいた。
大地に芽吹いたまま手入れされていない草木や、鳥やハイエナが喰らうままに放置される動物の死骸。 柵もなしに放し飼いで育てられている家畜のよだれや、排泄物。 あまつさえそれを乾燥させて燃料にするという、蛮人の文化。
メイブラント平野に絶え間なく吹き荒ぶ強風でさえも、蛮族の悪臭を消し去ることは出来ない。 風に乗った悪臭は辺り一面に溶け込んでいて、別の風に乗って帰ってくる。
つまりはそれが、草原の気配というものだった。
「……べくしゅんっ!」
くしゃみが出た。
着ているサテン地の装束はこの草原を吹く冷たい風に弱い。 冬場になると抱く気も失せる四番目の妾の足先よりも冷たい生地で、肌を不規則に撫でつけてくるのだ。
その上、装束はあちこちに綻びがあり、穴を空けてしまった部分も目立つ。 高価な織物もこれでは
――クシンタン・バン・バルト。
バルト商会の当主。 大商家の筆頭としての誇りが、数多の商談を着飾ってきた己を曲げることを許さない。
バルト商会がもはや地上から消えた、この時でさえも。
「げほっ、ごほっ……!!」
また、冷たい風が身体を叩いた。 肺腑の荒れた咳が出る。
いつものことだ。
いつか胸が破れるかもしれないと思ったことも、一度や二度ではない。
オミ商会の嫡男、ライゴウ・セト・オミがゲンガン大市場の本店を焼き払い、家族を皆殺しにした時から、この耐え難い痛みが始まった。
(いいや…… いいや!)
風の中で、クシンタンは首を横に振った。
痛みの根元はもっと深く、奥を辿ることが出来る。
恨みを忘れるな。 バルト商会の斜陽が始まった日のことを、思い出せ。 本店の焼き討ちは、最後の一押しだったのだ。
ライゴウの私兵が我が勢力下の村々を襲い始めた時か? それも違う。
ならば、祖父の時代に
それもまた、否。
全てのきっかけになったのは、あの日からだ。
ムース川の荷揚げ場に、たったの十八人で攻め込んだ若造。
そんな無謀な攻撃を成功させ、しかもバルト商会の宝を根こそぎ奪っていった、あの黒い髪の若造。
許すまじ。 許すまじオミ商会。
許すまじ、シュウ・ヴォクン・オミ。
けたたましい音を立て、草原色のついた風が向かってくる。
彼らの風だ。
彼らが飼い慣らす家畜は、彼らを乗せて風のように走る。
尾の生えた人間が操る術を持たない、蛮族の為の生物。
それは“馬”と呼ばれていた。
クシンタンの傍を通りかかった馬群が止まった。
馬蹄の音も聞こえなくなるが、いななきが鼓膜に障った。
それにしても不快な生き物だ。
牛や羊の鳴き声を聞けば心が安らぐものだが、馬の声にはどうも慣れない。
「客人。 どうされた」
馬群を制御していた蛮人が、クシンタンに問いかけた。 馬の上から降りようともせずに上から声を浴びせてくる。 無遠慮で生意気な女だった。
たてがみさながらの長い銀の髪に、日に焼けて赤い肌。 金色の眼は強風をまるで感じないように見開かれて、瞬きのひとつもしない。 革の胸当てと腰巻きだけを身に纏い、へそをむき出しにした服飾は、蛮族の文化でも異様な部類に入る。
だがクシンタンにとって何よりも異様なのは、その耳だ。
羽毛の生えた鋭い耳はまるで広げた鳥の翼のようで、時折風を受けて揺れる。
この怪物じみた耳こそ、彼らが人間と相容れぬ蛮族である証。
そして、風の民と呼ばれる由縁でもあった。
「迷ったのなら、叔父上のゲルに案内する。 土の民に草原の風は堪えるのだろう」
「ウルザ様」
草原の土に、膝を着いた。
ウルザの黒い愛馬が少しだけこちらを見て、面白くもなさそうに草を食み始めた。
馬にさえも見下されているようで、肌寒さを忘れる屈辱の熱が身体の芯を灼いた。
「何のつもりだ」
「この老骨からお願いがございます。 これは最強を究めた風の大戦士、ウルザ・カランダイン様にしか、頼めぬことなのです」
「聞こう。 話せ」
クシンタンがこれほどへりくだって見せても、ウルザは眉のひとつも動かさない。 草原を転がる石と同じようにしか見ていないのではないか。
だが、こんな屈辱はもうなんでもない。 父祖より受け継いだ商会を失った今、これ以上失えるものはひとつしか残っていない。
無意味に失うくらいならば、商いに用いる。 それがバルト商会の受け継いできた商人魂だ。
「客人。 話せ、と言っている」
「送還の儀」
「……なんだと?」
「私とウルザ様の名の下に、送還の儀を執り行いたく存じます」
「意味が分かって言っているのか」
「無論」
食らうがいい、シュウ・ヴォクン・オミ。
風の民の力を使い、今度は私が貴様の全てを破壊する番だ。
貴様だけは許さん。
この命に換えても、貴様の滅びを買う。
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