第1話『魔法使いの剣』(2/5)

 森の中を走り抜け、命拾いをしたと感じるまでにどれくらいの時がかかったのか。

 少なくとも首筋を矢がかすめた時には、まだ死の危険を感じていた。


 荒い息を吐く。 森の空気を肺腑が膨れるほどに吸い込み、もう一度吐く。 何度か呼吸を繰り返すと、壊れたように身体の内側を叩きつけていた心の臓が少しずつ落ち着きを取り戻していく。


(生きてる……)


 俺は生きている。 まだ死ぬかもしれない。 奴らが追ってくるから。 それだけではない。 愚かな三男坊と合流できなければ、仕えているオミ商会に殺される。

 取り込んだ空気が行き渡り、段階を踏んで思考が透き通ってきた。


(あの野郎を見つけねぇと)


 だが、この森の中をどうやって探し出せばいいのだろうか。 お互いに自分の位置を報せる方法など示し合わせてもいないし、下手に動けば賊の餌食だ。

 もしかすると、もう希望はないのかもしれない。 冷静さを取り戻した思考はクリクに悲観的な未来を示し始めていた。


「よお」


 降ってきた声に首を上げる。 樹上から生き物が見下ろしていた。

 生き物。 多分、人間。 まだ冷静さを取り戻せていないのかもしれない。

 枝を掴んだ手で器用に回りながら、樹上の生物が滑り降りてくる。


「無事だったか、意外とやるじゃん」


 まるで締まりのない笑顔に、柔らかそうな黒髪。 やはりあの三男坊だった。


 ただし、その全身は肌色。

 身を飾り立てていた豪奢な装身具をほとんど全部脱ぎ捨て、猿と同じになった男がそこにいた。 男の身体に残っている文明の痕跡は、耳のふちを覆う革の飾りだけである。


「……おまっ、ぼ、坊ちゃん」

「おうよ、俺のことなら心配無用。 奴らの矢は一発も当たってねぇ」

「そのお姿は」

「……いやさいやさ、俺も逃げんのに必死でよ。 奴らを追っ払おうと思って手当たり次第に投げつけて、気がついたらこれなわけ」


 隠すべきものを隠そうともせず、三男坊はふんぞり返って言った。


「ま、俺は何着ても似合う男! 何も着ないのも似合うってわけだ! ガハハ!」


 クリクはめまいを覚えた。 疲れのせいではない。 俺はこれを連れて窮地を脱しなくてはならないのか。

 絶望の先にあったものが更なる絶望だったことに気づき、クリクは自身の着衣を差し出すという提案も出来ずにいた。


「で、では坊ちゃん……」

「どうした?」


 なんとか声を絞り出す。 この場をいかに切り抜けるか、具申しなくてはならない。


「幸いにして、賊は我らを見失ったようです。 お疲れとは存じますが、ここは未だ死地。 一刻も早く森を抜け、市場へ帰りましょう……」

「え? 絶対にいやだ」


 にべもない言葉がクリクの脳天を打った。

 絶望を越えた先にある絶望の先には絶望があったらしい。


「こんなところで護衛を失って全裸で帰ってもみろ。 親父殿は俺をどういう奴だと考える?」


 馬鹿で役立たずの能なしでしょうよ!


「そう、馬鹿で役立たずの能なし、と呼ばれる。 俺は一生足手まといの烙印を押されることになる」


 頭の中で思ったことが見えているのか、クリクが我知らず声に出していたのか定かでないが、三男坊は見透かしたような言葉を続けた。


「そんなのはごめんだ。 俺が人を馬鹿にするのは構わんが、俺が馬鹿にされるのは気に食わん」

「で、では…… その、予定通りナグハ村に向かわれるということで……?」

「……それも無理だな」

「無理!?」

「命令されてついてきただけのお前は知らんだろうが、今度の仕事はオミ商会の勢力にナグハ村や近隣の豪農を加える為のものだぞ」

「はあ」


 妙に馬鹿にした風な言い方だが、決してクリクに分からない話ではない。

 この辺りでは米や豆類が年々よく穫れるようになっているという評判を耳にしたこともある。 商いの手を広めるなら、今日までオミ商会が使者を送らなかったのは遅すぎると言ってもいい。

 ナグハ近隣の長老たちの協力を得て、彼の地にオミ商会が取りしきる小市場を築く。 それが三男坊を送り届ける理由なのだろう。


「内々に交渉は済んでいるが、ここを欲しがってるのはオミ商会だけじゃねぇ。

 ナグハの長老たちはほうほうの体で逃げ込んできた奴と組むくらいなら、話を反故にしてでもよそと手を組むのが得策と考えるだろう」

「じゃあどうしろって言うんですか!!」


 ほとんど半狂乱に陥った声が勝手に溢れてきた。 あれは嫌、これは無理と言われてはもう死ぬしか術が残されていないではないか。

 死ぬのはごめんだ。 都会に帰りたい。


「まあ落ち着けや。 今の状況はそんなに難しかないぜ」

「……どういうことですか?」


 半泣きになりながら問う。 妙に自信たっぷりに言うので、名案がありそうに思えた。


「多分だが、あの賊どもはバルト商会の息のかかった連中だ」

「バルト商会?」

「ただの賊に銅器の調達など出来るわけがねぇからな。 揃えで用意してやった黒幕が必ずいる」

「それは…… 確かにバルト商会は商売敵ですが……」


 商売人同士にいがみ合いがあるのはありふれたことだ。

 話がこじれにこじれた場合、実力行使での妨害という手段に至ることもある。

 しかし、現地の賊に貴重な青銅器を与えてまでこの地方との取引を争う必要があるのだろうか。 損が得を出てしまう。 商いの域を越えた介入は商人のやり方ではない。


「…………」


 クリクは言い掛けた口を閉じた。 現に青銅器を握った賊は目の前に現れ、襲いかかってきたのだ。

 この状況で得をするのはオミ商会以外の有力な商人であり、その最大手はバルト商会である。 不審点はあるものの、三男坊の仮説を否定はしきれない。


「家には帰れない。 手ぶらで向かえば約束は破られる。 黒幕はバルト商会の連中。 そんだけ分かってりゃあ、十分だろうよ」

「どうしようというんですか」

「バルト商会の目論見を潰し、ナグハ村に入る。 何も悩むこたぁなく、きちんと護衛を引き連れて辿り着けば万事よしだ」

「……いや、みんな殺されましたけど!?」


 三男坊はきょとんとした顔をして、それから天を仰いだ。


「そうだっけな。 ま、なんとかなんだろ」


 ならない。 なるわけがない。


 やはり、この男はただの馬鹿だったのだ。 放蕩暮らしが過ぎて、まともに考える能力を喪失しているとしか考えられない。

 クリクの失望が極みに達したことを知ってか知らずか、いずれにせよ飄然としたままで三男坊は言葉を続けた。


「とりあえず、行こうや」

「どこへ?」

「腹減ったし、まずはどっかでめしを恵んでもらおう。 ついでに服ももらえるといいな」


 それだけだった。 言い切ったままどこへともなく足を向ける。 追われている身だという自覚があるとは思えない。


「ちょっと待ってください!」

「なんだよ」


 振り向いた三男坊は眉に皺を寄せると、やがて納得したように手を叩いた。


「あ、そうだな」


 近場に立っていた樹に歩み寄る。 大きな葉をむしり取る。

 手に持った葉を、これ見よがしに示し。


 ペッシィィン!!


 いい音をさせて、股間に張り付けた。


「これでいいだろ。 行こうぜ。 俺に分ける為に粥を炊いてくれている人に悪いからな」


 何がいいんだよ。 ぶっ殺すぞ。 こんな森の中をあてもなく歩いたって何も見つかるわけありませんよ。 都合良くこっちの味方をしてくれるとは限らないでしょ。 もうやめましょう。 せめて少しでも生き残れそうな方法を探しましょうよ。


 わき上がってきた無数の言葉を声にするだけの気力は、もうクリクの中に残されていない。

 ただ背中を追って歩いていくだけだ。

 と、と、クリクは歩いた。



「ほれみろ、あったぜ」


 考えることを諦めて足を動かしていると、自慢げな声が耳を突いた。

 顔を上げてみると言葉の通り、山の奥に木造りの小屋が佇んでいる。

 小屋の横手には作業場らしきところが設けられており、真新しい薪が積まれている。 生活感があり、今も人が住んでいるのは確かなようだった。


「マジかよ……」

「だから言っただろ、俺は幸運の神に愛されてるって」


 そんな話は聞いたこともないが、少しだけ希望が見えた。

 住人が必ずしも友好的とは限らないが、あの賊どもが住まうには手狭な規模の住居だ。

 という距離に見える作業場も、旅人を襲い金品を集めるならず者が使うような間に合わせのものではない。 住人の素性は定かでないが、明らかに生業の為にしつらえている。


 木こりか狩人、それでなければ道具を手ずから作り、食べ物と交換して生きている者が住んでいる。

 つまり、まともな人間だ。 話が通じる可能性は高い。


「……いけるかもしれませんね、坊ちゃん」


 返事はない。 クリクが腕を組んで考えている間に、もう小屋を訪ねたらしい。


(勝手なもんだな……)


 やれやれだ、と息を吐く。 とはいえチャンスが巡ってきた今なら、少しは許せそうだ。


 交渉しなきゃいけないんだから、話をこじらせないでくださいよ。 妙な真似をして警戒されでもしたら、大変ですからね。

 そう、妙な真似をして――


 急に冷や汗が吹き出た。 交渉しなくてはならない。 警戒されてはいけない。 だが、あの馬鹿はこちらの話も聞かず乗り込んでいった。


 すなわち股間に葉っぱを張り付けた裸体の男が。 自分の姿も省みずに。 人様の家に。 堂々と。


「いやぁぁぁぁぁーっ!!」

「ウギャーッ!!」


 若い女の叫び声と共に三男坊が吹き飛んできた。


 土鍋や壷が矢のように降り注ぎ、男に追い打ちをかける。 運の悪いことに住人は女性で、突然押し掛けた全裸の男に恐怖を抱いたらしい。


「坊ちゃん! しっかり!!」

「この女ァ、いきなりなんてことしやがる!」


 おめーが悪いわ。 とは言葉にせず、とりあえず手前に立つ。

 小屋の奥に小柄な女性の姿が見えるが、薄暗く判然としない。 暗がりに向かい、声を張り上げた。


「突然の無礼をお許しください! こちらにおわすのは私の主で、オミ商会に連なる身分歴然たるお方。 決して貴方に邪心を抱いた不埒者ではありません!」


 女性が物を投げるのをやめた。 暗がりから覗き込む紅い眼には怯えの色が残っているが、少なくとも落ち着きを取り戻してくれそうだ。


「……オミ商会って、偉い人?」


 向こうから問いかけが来た。 口調にいささかのなまりが感じられるが、聞き取れないほどではない。


「はい。 このようなお姿になっておられるのも、深い理由あってのこと。 ナグハ村を目指す旅の最中、我らは賊に襲われ全てを奪われたのです」


 嘘はついていない。

 半分は事実だが、もう半分の馬鹿故という理由は伏せた。


「命からがら逃げ出したものの、ご覧の通り。 主は着る物にさえ事欠く有様です。 もしも慈悲の心をお持ちであれば、余りの古着で構いません。 それから食糧を少しばかり、分けてはいただけないでしょうか?」


 差し出がましい申し出をお許しください、と付け加え、クリクは深く頭を下げた。

 商人の端くれとして、下手に出た話し方は叩き込まれている。 コツは相手の良心に訴えかけることと、相手が誰であろうと礼節を以て相対すること。

 教えられた通りに振る舞うことが出来たと思う。 効果は確かなようで、女性がゆっくりと小屋から姿を現した。


「困ってる人を見捨てたら、きっとバチが当たるもんな」


 日の光の下に現れた女性の姿を確かめて、クリクは閉口した。


 日焼けして蜜柑に似た色合いの金髪が、硬そうに跳ねていたからではない。

 若い女にしては肉付きが悪く、胸が薄かったからではない。

 正面からは見えないので、しっぽは小さめなのだろうと見立てた為でもない。


 若い男の常に漏れず、クリクには初対面の女の身体を舐め回すように見る習性がある。

 しかし、今回は例外だ。 女のある部分を眼に留めた瞬間、浮ついた気分は消え失せた。


 女の耳は長く、そして鋭く尖っていた。

 草原に住む風の民のように羽毛に覆われているわけでもなく、肌と同じ色の耳が伸びている。

 その身体的特徴が意味するところはひとつしかない。


 長耳。 人間と蛮族が交わった結果の女。

 血の穢れた生き物だ。


「そん代わり、ひどいことはせんといてな」


 つぶやきながら、長耳の女はうんざりしたような顔を見せた。

 自分がどのように扱われているのか、理解も経験もしているのだろう。 返す言葉が見つからず、クリクは立ち尽くした。

 商人として、長耳相手の処し方を教わったことなどない。 自分の未熟故に、とは考えない。 無理もないことのはずだ。


 普通に生きている限り、人ならざる生き物と言葉を交わす必要はないのだから。

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