第35話 風ではなく波


 フラメンコ舞踊に傾倒して、踊ることに心底打ち込んでいた時期があった。


 私は、風を表現したかった。手のひら一つで風を起こす。渦巻のように回転軸を利用して、全身から風を作る。

 腕をすっと上げた時に感じる空気の層は、自分の身体に沿って足の先まで流れて、新しいものを呼び覚ます。

 けれど、風を目標とした私の踊りは、どこか軽かったのかもしれない。


 私の敬愛した先生は、踊りを海に喩えた。何度も打ち付ける波だとも言った。

 そう。彼女の踊りからは、もっと熱く重い水の抵抗を感じたのだ。抗えないような。力強さにねじ伏せられ、地に着いた重厚な踊りに絡めとられるように。



 舞踊をはじめるきっかけは、立ち直ることなど到底無理に思えた失恋だった。もうどうにもならなくて、何も考えたくなくて、身体をめちゃめちゃに動かしたかった。

 そんな時、フラメンコに出逢って、私はその虜になった。


 私が惹かれた理由は、見学に行った時にK先生の踊りを見たからだ。彼女だったから、私は夢中になったのだと思う。

 或る舞踊団から派遣されて教えに来ていた先生は、日本人離れした容姿をしていた。卵型のきれいな頭の形、陶器のような肌、艶のあるふっくらとした唇、つんとした横顔。


 普段着は白いブラウスにチェックの巻スカートのような可愛くて清楚なお嬢様みたい。実際、彼女はバレエとバイオリンを嗜んでいたのだが。

 稽古場では一転して妖艶。色気のある瞳、影を落とした長い睫毛。小柄なのに、先生が踊り始めると途端に周りの空気が変わり、急に大きく見える。身体の使い方が全然違う。


 他の先生では駄目だった。力強さを保ちながらも、クラシックバレエが基礎にある品のあるエレガントな踊り。私がすきなのは、求めているのは、フラメンコではなくて、K先生の踊りだと気づいた。 

 そんな時、ぱっちりとした瞳で「きっと来てね」とにっこり笑って手渡してくれた招待状。そこには、自分の教室を開くの、と書かれていた。恵比寿の地下のスタジオ。私にとって宝物のような空間。



 私はその場所がだいすきになった。

 ここの特徴は、壁二面に埋め込まれた大きな鏡だ。そして、灯りを落とした照明がスポットライトを当てた舞台のような雰囲気を演出し、踊る高揚感に一役買っていた。

 踵と爪先に釘の入ったフラメンコシューズで木の床を叩く時、体に響いて返ってくる感覚が、どこよりもやわらかく感じた。鏡が情熱を映し、私たちは踊り子の気分で、レッスンという幕を開ける。


 はじめての発表会はこのスタジオだった。奥にはカウンターキッチンがあり、ワインがサーブされた。並んだ客席から舞台はすぐ目の前で、脚さばきがそのまま見えてしまうくらい。とても緊張して、同時に楽しかった。人前で踊ることの快感を覚えてしまった。


 その時、先生が踊ったソレアが忘れられない。

 何度も大きな舞台で踊ったことのある先生が、控室で緊張の余り震えていた。初めての自分の生徒たちの発表の場で、その師としてのお披露目。

 シンプルな黒の衣装と白く光る耳飾りだけで、たった一人で凛と立つ姿は、今でも世界でいちばん美しかったと思う。

 しんとした空気の中で動き出すシルエット。ギターと歌と手拍子にのせて、モノクロの世界が揺らめく。哀愁を帯びたギターの音色と、心から絞り出すような独特の声。

 鏡に映り込みんだ姿が何重にも映し出され、光と影が一緒に踊っているかのように。闇から一条の光線が射し込むように。



 フラメンコと一口にいっても曲の種類がたくさんある。音が、歌が、手拍子が欠かせない。


 コンパスというフラメンコ独特のリズムがある。軽快な2拍子系の曲は、比較的日本人にもリズムが取りやすいが、私は時計を思わせる12拍のコンパスの曲がすきだ。

 12泊の中の3、6、8、10、12泊にアクセントが来る。3拍子2つと2拍子3つの組み合わせになるのだ。ゆったりと3拍子で始まり、後半たたみかけるような2拍子が繰り返され、延々と続いていく。これが非常に難解で、だが心地よい。



 フラメンコは内面からほとばしる情熱を映し出す。

 一つ一つの舞台を思い起こす。恵比寿のスタジオ、移転した先の1階のタブラオ、あこがれの新宿エル・フラメンコ。どの舞台も、宝石箱の指輪のように、大切に心に刻み付けている。ほんとに私は踊ることがすきだった。


 練習はいつも真剣だった。先生のすぐ近くで食い入るように見つめながら踊っていた。みんな遠慮して後ろの方に行くのだもの。特等席たまには譲ろうかなって思って、後ろの方に並んでみる。先生にここって指さされて、嬉しくて戻る。背中を見つめながら一緒に踊る。肩甲骨から腕が生えているかのような動き。


 でもね、厳しかったな、先生。私は一度たりとも褒めてもらったことがなかった。いっつも、背中! 足! ほらって、誰より叱られてばかり。

 だから、とうとうほんとにもうやめようかなって思ったことがあった。さすがに心折れてしまって、勇気が出なくなってしまった。

 ちょうどそんな時に油断したのか、首をぐっきり痛めて包帯でぐるぐる巻きになった。でも動けなくてもやっぱりレッスンが気になって見学に通った。

 そんな時先生から「教えてみない?」って誘われて嬉しかった。それって認めてくれたってことなんだよねって。首が全然動かせなくて頷けなかったけど、やります! って。憧れる存在になりなさいって言われたから、はりきってチャコットに行ってレオタード新調しちゃったな。


 一度だけ仲間が「彼女の踊りは、かわいくて色気がある。見て見てって言われてるようで、つい見てしまう」って言ってくれた時に、先生が頷いてくれた。

 その時も「もう少し重みがあればいいんだけどね」って言ってたけど、にっこりほほえみかけてくれた。たった一回のそれだけで、もう私はずっとここでやっていきたいって思うくらいに嬉しかったんだ。


 事情があって続けられなくなったけど、すぐに戻るつもりだった。片付けたら、いつでも戻れると思っていた。いつのまにか叶わなくなるなんて、思いもしなかった。



 ずっと復帰したくて、何度か再開しようとした。

 なぜか、その度に続けられない出来事が重なって、とうとうあきらめてしまった。でも、あきらめたことが悔しくて認めたくなくて、いつかいつかと思っているうちに、本当に年月が経ってしまった。

 もちろんね、心で踊ればいいんだよ。華々しくなくてもいいんだ。そう言い聞かせて自宅でできることはしてみたけど、だめだった。

 そして、いつしか舞台を見に行くことすらできなくなった。踊らない自分がいやで、踊ってる人たちが羨ましくて。誘いを受けても、ずっと忙しさを理由に誤魔化していた。


 やっとね、今、見に行きたいなって思えるようになってきた。

 多分、自分が夢中になれるものを他に持てたからだと思う。寧ろそれに役立つなら、利用したいくらいに思える。先生の踊りがまた見たい。情熱を受け取る側に身を置けるかもしれない。そんな風に越えられた。



 そう。終わり方が上手じゃなかったから、なかなか思い出のあの場所に行けずにいた。泣き出してしまいそうで。


 でも、もう時が流れて、きっとなつかしいだけのはずだ。

 写真展で恵比寿に行ったついでに、友人と駅で別れてから一人で散策してみることにした。

 そうしたら、見事に迷子になってしまって。どうして?あんなに通ってたのに、方向音痴の自分に笑う。

 街が変わったのかと思ったけど、ぐるぐる歩き回って、最初の曲がり角を間違えていたことに気付いた。


 だいすきだった地下のレッスンスタジオは、外観は同じだけどもう別の空間になっていた。

 レッスンの後よく立ち寄ったタブラオは盛況で、まぶしい光を放っていた。もうそこで躍っていた自分は、いつかの幻想のようだ。


 やっと向き合えたのかもしれない。もう時効だよね、とっくにね。






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