第3話 檸檬への傾倒
バーでウィスキーを飲む。今宵は月も出ている。
仮に、山の上ホテルのバーとしよう。
友人Kが挑戦者の顔をして、楽しそうに私に言う。
「ねぇ、君。 僕は、梶井には惹かれないな」
私が梶井に傾倒していることを知っている彼は、こう続ける。
「檸檬、あれは『五千字で書き並べた檸檬の描写』だね」
檸檬が主役の話なんだよ。
他の全ては檸檬の引き立て役なんだ。
檸檬の香りを立てるために書いているんだよ。
檸檬は正(プラス)の頂点に君臨しているんだよ、六月君。
言われた途端、私の何かがはじけて、別空間へと飛んで行った。
私は、梶井基次郎ではなく、檸檬に魅せられていたのか。
もしKの仮説通りならば、梶井は成功したことになる。
まるで呪縛のように、私の心にはあの日、檸檬が据えられたのだ。
*
私の檸檬へのあこがれは、尋常ではない。
京都へ行けば、丸善に寄る。ああ、元の場所は最早ここではない。本当の舞台はどこだ。探し回り、寺町通りを突き止めるが、もうどこにも以前の姿はない。
昭和初期の洋館、村上開新堂でかすかに残り香の行方を捜す。美しい硝子、タイル、過去の匂い。きっとこの辺りだったのだろうと、似非探偵は心躍り、再び歩き始める。
しまいに、レモンの仲間のシトロンまで気になる始末。二〇一四年に閉店してしまったお菓子店「シトロン・シュクレ」
閉じてしまうのか、すべて。
東京御茶の水では、今も「レモン画翠」は健在だろうか。毎週訪れていたのに、しばらく足を運んでいない。LEMONという名の喫茶店に通い詰め、聖橋から檸檬を投げるシーンを想像した日々。
ブランコのある公園。ぐるりと登る心臓破りの石段。降る葉の影に、いつまでもシャッターを押し続ける。
檸檬と名のつく書物を漁り、満足して頷く。レモン哀歌、トパアズ色の香り。レモンの林を抜けて走ったのは、どの物語だったか。思い描く時、レモンの香りがそこら中に漂う。
レモネード、レモンカード、レモンドロップス。 響きを楽しむ。
檸檬は異国のものでありながら、日本のものでもある。元は中国。ネイモウの発音が レモンと重なる。だがそれは、果物としての形ある、あの液体を持つレモンではなく、文字そのものの漢字の「檸檬」なのである。完璧にイメージだけを一生追い続けてしまうような。
いよいよ自分の書くものにも登場してきた。梶井にかけられた魔法はとけないかもしれない。レモン狂。
もし蜜柑だったら、ここまで虜になっていなかっただろう。檸檬、レモン色、尖った形、檸檬はくすぶり続ける爆弾なんだから。
爆発は永遠に続く洒落だ。目を閉じればいいだけの。
*
また、他の友人が 尋ねる。
「君は、梶井に 恋をしているのかい」それについては、否。
退廃、やけになった狼藉の数々、身が竦むような奇行。気の毒な風貌から察する得意ではないエロティズム。
なのに全てが覆される、文字の力に。
私にとって「檸檬」は、放浪者の視線。一人称の物語。
私はこの時、彼になって歩いている。
遠く果てしない処に思いを馳せながら、いつもの道を歩く。
所在なく虚しさを抱え、何をしていいかわからずに。
傍観者の視線で熱を持て余し、抱えきれずに。
早足で歩いたところで、何も変わりはしないのに。
魂が入ってない振りをして、無機質に見えて、誰よりも熱く、檸檬を書いた作家に。
そして、今宵のレモンの月に、乾杯しよう。
* special thanks to K 近況ノートを往復書簡のように使った日々の記念に
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