第19話 新・狐の章二



「あ、ああ……あ、の……」

 うまく言葉がでてきません。今までこんなことはなかったのに。シロ子になったとたんにこれです。まったくあの子は、と毒づく他ありませんが、これがシロ子なんだろうなぁと思います。

 あの子ならこういう反応をする。それは絶対の自信がありのです。あの子の思考、行動すべてに至るまで完璧に理解できます。

 きっと、きっとあの子は人間に――。

 それが痛いほど伝わってくる。

 それが痛いほど伝わってくるのです。

 それほどまで人間のことを想っていたのにどうしてあの子はここにいないんでしょうね。

 本当に、本当に本当に馬鹿な妹――。

「?」

 言葉が出てこずに立ち尽くす私を人間は首をかしげてを見ています。

 うん、間違っていない。あの人間です。正直なところ私は人間を見るのはこれが初めてなのですが、それでもわかってしまいます。私の中のシロ子が言うのです。

 今目の前にいるのが恋い焦がれた人間だと。

「わわ、わた…わたっ、わた」

「綿?」

 シロ子落ち着きなさい。自分に言い聞かせてみますけど、いっこうに私の心臓は落ち着くことはありません。どうしたものでしょうか。

 よく張り裂けそうな気持ちだとか聞きますけど、これは冗談抜きで張り裂けそうな感じです。自分の心臓の音が、ここまで大きく聞こえたことなど今までありませんでした。それほど私は緊張している。体中の血液が行き着く場所を求めて激流のように全身を流れていく。

「僕の知り合いですか? 申し訳ありませんけど、僕は事故以前の記憶がないんですよ。だからあなたのことを思い出せません」

「……」

 そんな……いや、でも――。

「……生きていてよかったです」

 記憶が無くなっても人間は人間です。あのころのままの人間です。それは変わることのない事実なんです。

 しかしながら本当に生きていてよかったです。あの出血量でよくぞ生きていてくれました。匂いで生きていることはわかっていましたが、実際に顔を見るまで安心はできなかったというのが本音です。

 そして人間は記憶を失っている。

 何もかも忘れてしまったのでしょうか?

 あの思い出はもう思いだされることはないのでしょうか?

 きっと、ない、のでしょうね……。

 どうすれば記憶を戻すことができるのでしょうか? 現在の医学でも無理なものなのでしょうか? 

 だったら。

 だったら私が――記憶を元に戻す、ことができればいいんでしょうけど、生憎そんな力は持ち合わせていません。でも私は化け物です。もしかしたらそんなこともできるのかもしれません。可能性はゼロではないはずです。たとえ、自分の身を削ってでも記憶を取り戻させてあげたいのですけど、きっとこの人間は私が身を削ることを良しとはしないでしょう。

 私の犠牲の上で記憶が戻っても少しも喜ぶとは思えません。

 でも、でもいつか必ず、どんな方法を使ってもあなたを元に戻してみせます。

 シロ子なら絶対にそうするはずです。

「どうぞおかけになってください」

 人間は立ち尽くす私にそう言いました。ベッドのそばにはパイプ椅子があります。それに座れということなのでしょうが……若干距離が、近いですねぇ。

 さすがにこの距離でも心臓がバクバクなのに、その一メートルもない距離に座れるかとても不安です。冗談抜きで私の心臓は人間の屈託ない笑顔に耐え切れずに爆発してしまうかもしれません。しかしながらいつまでもここに突っ立っているわけにもいきませんし、私は意を決して椅子に座りました。

 目を合わせないように私は必死です。ですが人間の方は私を凝視しています。きっと必死に思い出そうとしてくれているんだと思いますけど…………ぎゃぁぁぁぁやめてッ! それ以上見つめないでッ!

 私の視線はずっとベッドの布団に釘付けです。そろっと視線を人間の方へやってみます。

 ゆっくりと、ゆっくりと。

 布団からでた胴。服の上からでも痩せているのがわかります。きっと食べ物が喉を通らないのでしょう。そして鎖骨から首へ。鎖骨は女の人のように綺麗に浮かび上がっていました。それを見るとなんだかとても悲しくなってきます。本当に生きているのが不思議なくらい――。

 首から顔へ視線を移動させるつもりが、気が付いたら私の目の前は真っ白な布団が映っていました。

「……いくじなし」

 ぼそりと呟きます。

「え?」

「あっ、ああいやっ、なんでもありませんよっ」

 私は手と顔をぶんぶんと振って否定をしました。

 まさか聞こえているなんて。気を付けなければ。

 さて、ここから何を話せばいいのやら。まさか私、実はあの時の狐なんです、とか言っても信じてもらえないだろうし、気味悪がられるかもしれません。

 ……いや、この人間はそんなことを思わないのかもしれませんね。

 言いたい。

 言いたい。

 でも、

 言えるはずがない。

 言ったらどうなるんでしょうか? 言えば二度と会うことが出来なくなってしまいそうで、私はそれを飲み込むしかないのです。そぐそこまで出かかった言葉を何度も何度も自分の中へ戻して行きます。

 こんなにも、こんなにも焦がれているのに。それを言ってしまえばすべてが終わる。そんな気がそうしようもなくするのです

 言えるはずがない。

 言えるはずがないじゃないですか。

「それ」

 と不意に言われ、我に返りました。

「え?」

 人間の方を見ると指先をこちらに向けています。その指先は私の顔よりも少しずれていまして、その先を視線で追うと、私という存在を創っているといってもいいほどの印が見えました。

「それって地毛なんですか?」

 普通に考えたら真っ白の髪なんてありませんよね。

 そういえば、なぜ人間は白い髪の人がいないんでしょうか? 私たち動物は稀に白い毛を持って生まれる者がいますが、人間はそれがありません。人間だって白い毛を持って生まれてもなんら不思議じゃないのに。

 私は自分の髪の毛を触りながら答えました。

「え? ええ、まぁ」

 まさか本当に地毛だとは思ってもみなかったらしく、人間は素直に驚いているようでした。

 まぁ疑いたくもなりますね。なんと言い訳をしましょうか。

 私は必死で言い訳を考えていると、先に人間の方が口を開いたのです。

「まさか見た目は若そうなのに八十歳ですとかそんなオチはないでしょうね?」

 はははっ、と笑いながら人間は言いました。それに私は何も考えずに言葉を返してしまったのです。

「そ、そんなことないです。私まだ一歳ですからっ」

「……え?」

「え?」

 しまった。ボロが出てしまった……。

 時間にしてみれば一瞬の沈黙だったと思います。しかしながら私はそれがかなり長く感じられました。もう凍りつくとはこの事ですね……。

「お、面白い人ですね」

 良かった。なんとか冗談として受け取ってもらえたみたいです。

 ふぅ~仕切りなおして、っと。

 今度は私が話しかける番ですね。しかしながら口を開いたのはまたしても人間だったのです。

「あの」

「はい?」

 好奇心というのはどの動物でも一緒のようですね。

「僕とはどういった関係なんですか? あなたみたいな若くて美人な人とどこでどうやって知り合ったんでしょう?」

 びびび美人っ? 別に自分でもわかっていたことですけど、なぜかこの人間に言われたら顔が熱くなってしまいました。どうしましょう……。

 落ち着け私~、と心を必死で落ちつかせます。それに質問に答えなくては。

「ご、ご飯をですね。もらっていたんです」

「ご飯?」

 本当のことを言ってどうする私っ。ごまかしが効かなくなっちゃう。そう思っていたら人間の方から助け舟がでました。

「ご飯をおごってあげたことがある、ということでしょうか?」

「そ、そうですね。そんな感じです。その節はどうも御馳走様でした」

 危ないですねぇ……。意外にこの人間は単純なのかもしれませんね。

「いや、なんかごめんなさい」

「?」

 なぜか謝られてしまいました。なぜでしょう?

 それから私たちは他愛もない話をして盛り上がったのです。なんだかシロ子の言っていたことが今になって痛感させられました。

 たしかにこの人間は他の人間とは違う気がします。

 私はあの時、なぜあんなに意地を張っていたのでしょうか? もっとシロ子の言葉に耳を傾けていればよかった。あの子の言葉に嘘偽りなんてものは存在しないことぐらいわかっていたはずなのに。二人であの場所に行けばよかった。そうしたらこの人間の驚く顔が見れたんでしょうね。

 私は――馬鹿だ。

 今になってシロ子の想いが心に突き刺さってきます。

 どうしようもなく。

 純粋に。

 深く。

 そして時間は過ぎていきました。楽しい時間は長くは続きません。きっと私の中のシロ子も満足したことでしょう。全てはこの人間に会うことが目標だったのですから。

 正直なところ――シロ子本人をこの場にいさせたかった。

 私ではなく。

 本人を。

 あの時、私が囮になれば良かった。そんな後悔の念が今更になって押し寄せるのです。私の心がその想いで溢れそうになった時でした。

『そんなことありません。これで良かったんです』

 そう聞こえた気がしました。

 シロ子――。

 ただの幻聴でしょうか?

 ただ私がそう思いたいだけなのでしょうか?

 ただ――。

 思わず眼がしら熱くなってきました。こんなところで泣いてはダメです。人間に余計な心配をかけてしまうかもしれません。

「そろそろ帰りますね」

 私は逃げるようにそう言いました。

「ええ、お気をつけて」

 私は立ち上がってドアの方へと向かいました。もうここに来ることはないのかもしれない。これが人間に会うのが最後かもしれない。そう思っても、名残惜しいと思っても私にはどうすることも出来ません。

 生きているとわかっただけで良かったはずなのに、それだけで良かったはずなのに、私はもっと人間と話がしたい、傍にいたいと思ってしまっています。

 これは私の想いなのか、それとも私の中にいるシロ子の想いなのかはわかりません。きっとどちらもなのでしょう。

 そんな葛藤に押し寄せられているその時でした。

「あ、あなたのお名前は?」

 それはあなたが思い出せばいいのです。

 あなたがつけてくれた大事な大事な名前なんです。

 そしてその名前を呼んでもらいたかった。

 でもそれは望みすぎているのでしょうね。

「私の名前は――」



 シロ子、ちゃんと伝えられたよ。会って話もできたよ。あんたが私に言ったことは何一つ間違いなんかじゃなかったよ。


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