第17話 新・人間の章一
目を覚ますとそこはよくいう見知らぬ天井でした。今の僕にはどこの天井も見知らぬ天井なんでしょうけどね。
体はまったく動かない。いくつもの線が体に繋がっている。息が苦しい。視線だけが唯一自由に動かせるだけの体。なぜこんなことになっているのでしょうか?
この状況がどういった状況なのか理解ができませんでした。理解しようとしてもまたすぐ睡魔に襲われて僕は夢の中へと落ちていくのです。
一体どのくらい同じことを繰り返したのかわかりません。何も思い出せません。
「君は交通事故に遭ったんだよ」
そんなことを言われました。ただ何を思うわけでもなく納得しました。今の僕の現状を見ればそれは一目瞭然です。
「よく頑張ったね。もう大丈夫だよ」
助かった。きっと助かったんでしょう。良かった。
でもそう思っても何かが欠落しているのがわかりました。欠落しているというのはわかるのに、何が欠落しているのかがわかりませんでした。つまり何も思い出せないのです。過去というものが僕から完全に消え去っているのです。
「どうやら事故の後遺症で記憶に障害が残っているようです」
それは誰に言っているんでしょう。そのセリフを聞いて泣き声が聞こえてきました。誰か僕のことを心配してくれている人がいる? 誰でしょうか? 友人? 恋人? 家族?
申し訳ない。こんな僕で申し訳ない。何も思い出せない。何も。
頭の中は真っ白。白く白く、どこまでも白い――。
それから数週間が経ちました。
僕はなんとか起き上れるまでに回復をしましたが記憶はいまだに戻っていません。戻るかどうかもわからないとお医者さんに言われました。きっとあの顔から察するに、もう記憶は戻らないのだと思います。
別に何も思い出せないので悲しくはありませんでした。知らないことは知らないので、そこに悲しみなんてものはないのです。
ただ。
ただ一つだけ。
頭がよく真っ白になるのです。
その白さに何かを感じるのです。
何かはわかりません。
でも感じるのです。
会いたいと無意識で思っている自分がいるのです。
何に?
わかりません。
誰に?
わかりません。
何もわからないんです。
わかっていることは、もうじき僕の命が無くなるということ。
なんとなくですが、根拠は何もないんですがそう思うんです。もう長くは生きられないだろうと。別に思い残すことはありません。思い出が何一つないのですから何も寂しいなんて思わないのです。
逆にそれでよかったのかもしれませんね。もし記憶があったなら、それはそれはいなくなることに耐えられなかったでしょう。だから都合が良いと言えば良いのかもしれません。
そしてただただ毎日が過ぎて行きました。
何もなく。
何も起こらず。
いつもと変わらない日常だけが存在するのです。
ただただベッドの上でぼーっと自分の命が無くなるのを待つ日々が続いているときでした。
僕の前に一人の女性が現れたのです。
最初僕がその女性を見たとき、なにやら違和感を感じました。
ここに来たってことは僕の知り合いなんですかねぇ?
見た目は十六、七といったところでしょうか。綺麗な顔に今風の服装。そして何よりも目を引くのがその真っ白な髪の毛でした。
とても綺麗だと思います。
見惚れる。
素直に見惚れる。釘づけになる。それほど彼女は綺麗でした。
なによりも美しい。
真っ白なその髪はまったく違和感がなく彼女と同化していました。普通なら不自然に感じるものなのに、逆に彼女は黒髪でいることが不自然だと思うくらいに真っ白なその髪がよく似合っているのです。
そしてなぜかその髪を、真っ白な髪ばかりを見てしまう自分がいます。
僕には記憶がありませんから、お見舞いに来てもらっても顔がわかりません。
彼女はドアの前に立ったまま、何やらモジモジしています。
「あ、ああ……あ、の……」
「?」
やっぱり僕の知り合いみたいですね。
「わわ、わた…わたっ、わた」
「綿?」
彼女はぶんぶんと顔を横に振って冷静さを取り戻そうとしているようですけど、そんなもんで取り戻せるとは思いませんけど。
その仕草がまた可愛いこと可愛いこと。なんだかペットに向ける愛情のような感じで見てしまいました。
「僕の知り合いですか? 申し訳ありませんけど、僕は事故以前の記憶がないんですよ。だからあなたのことを思い出せません」
「……」
彼女は絶句してしまいました。そこには二つの理由があるのでしょう。
ひとつは単純に冷たい言い方だったこと。
もうひとつは記憶がないということにショックだったこと。
僕がそんなことを思っていると彼女は言いました。
「……生きていてよかったです」
心の底からそう言ってくれました。これは断言できます。
まるで自分のことのように言ってくれたのです。
瞳を潤ませながらとびっきりの笑顔で。そんな顔を見せられて僕はようやく生きていてよかったと思えた気がしました。
「どうぞおかけになってください」
彼女はパイプ椅子に座りました。しかし近くで見るとますます凄い。もはや人間とは思えないほどの美貌です。
「それ」
と僕は指さしました。
「え?」
「それって地毛なんですか?」
「え? ええ、まぁ」
まさか地毛だとは。冗談で言ったら当たってしまいました。
「まさか見た目は若そうなのに八十歳ですとかそんなオチはないでしょうね?」
はははっ、と笑いながら言うと彼女は否定しました。
「そ、そんなことないです。私まだ一歳ですからっ」
「……え?」
「え?」
この子は何を言っているでしょう。一歳? いやきっと聞き間違いですね。あれだ。きっと僕を励まそうと冗談を言っているに違いないですね。
「お、面白い人ですね」
彼女は俯きながらモジモジしています。さすがにもうちょっとリアクションをとればよかったですね。前の僕ならうまく突っ込んでいたでしょうか。
ここで疑問が湧きました。こんな美人な人と僕はどういった関係なんでしょう?
そう思ったら聞かずにはいられませんでした。
「あの」
「はい?」
「僕とはどういった関係なんですか? あなたみたいな若くて美人な人とどこでどうやって知り合ったんでしょう?」
そう言うと彼女の顔はぼふっと赤くなってしまった。しかし、しどろもどろながら話だしてくれました。
「ご、ご飯をですね。もらっていたんです」
「ご飯?」
貰っていたという表現が少々気になりましたが、そこはおいおい聞いてみましょう。
「ご飯をおごってあげたことがある、ということでしょうか?」
「そ、そうですね。そんな感じです。その節はどうも御馳走様でした」
どうやら記憶をなくす前の僕はかなりの女たらしだったらしいですね。聞いた話だと僕は結婚しているって言うし、妻というものがありながらこんな美人な子とも?
ありえないですね。
「いや、なんかごめんなさい」
「?」
とりあえず身に覚えはまったくありませんが謝っておくことにしました。
それから他愛もない話をしたのですが、なんとも会話がはずむ。僕は初対面なんですが、なぜか彼女とは気さくに話せているんです。なぜか彼女といると僕は落ち着いている自分に気が付きました。
なんだかとても懐かしいようなそんな感覚です。まぁ過去に会っているんですから、懐かしいといえば懐かしいんでしょうけど。
「そろそろ帰りますね」
「ええ、お気をつけて」
彼女は立ち上がってドアの方へと向かって行きました。ここである重大なことに気が付いたのです。
「あ、あなたのお名前は?」
今更感が否めませんが、なぜか聞いておかなくてはいけないような気がしたのです。
「私の名前は――」
どこかで聞き覚えのある名前でした。
「まっ、また来てください。シロ子さん」
彼女は微笑んで部屋から出て行きました。それと同時に僕の中でそれを言葉にした瞬間から疑問が渦巻いたのです。
「シロ……子? シロ子?」
どこかで……。
一体どこで聞いたのでしょう?
「ど……こだ? どこでこの名前を――」
何も思い出せずに僕は深い眠りへと落ちていきました。
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