第16話 狐の章十一

 ギシ。

 ギシギシ、と床を踏みしめる音が聞こえてきたのです。私たちはすぐにおしゃべりをやめて姿を隠しました。

 音はだんだんと大きくなっていきます。それはつまり、その音を出しているものがこちらに近づいてきているということです。

 それを待っているのはほんの数秒なのですが、とても長い時間に感じられました。自分の呼吸音と心臓の音がやけに大きく聞こえます。

そして私と姉はほぼ同時にそれを目視、さらに言いようのない恐怖が体を突き抜けていきました。

「あ、れが……化け猫」

 屋敷の中央は庭から優雅に化け猫が姿を現したのです。その見た目は完全に人間でしたが、私たちは一目見てそれを人間ではなく、化け猫だと理解しました。

 理由は特にありません。野生の勘です。その勘が言っているのです。『あれは危険だ。すぐにここから離れろ』と。しかしながらそんな命令は聞けません。

 目的のものが今、目の前にいるのですから。

「ね、姉さん、作戦があります」

「な、なによ」

「私が囮になります。その隙に後ろから攻撃をしてください」

「あんた馬鹿なの! そんなのが通じる訳ないじゃないッ」

 姉は声を荒げて反論しますが、ここは引くわけにはいきません。

「大丈夫です。必ず通じます。私にはこれもありますし」

 あの眠くなる葉っぱを私は姉に見せました。これが鍵になることは間違いがないでしょう。「これを最悪口の中に突っ込めば勝負は決まります」

「それが至難の業でしょうが」

 姉もなかなか引いてくれません。

「大丈夫です、私には秘策がありますから」

「……~~っ」

 これ以上は何を言っても聞かないと姉は判断したんでしょう。こんなところで言い合っている時間はないのです。早くしなければ化け猫はどこかに行ってしまうかもしれません。

 そもそも私たちがこの場所にいつまでもいられるとも限りませんしね。もう夜は明けそうなのです。夜明けと共にこの屋敷も消えてしまう可能性があるのです。そうなる前に終わらせないといけません。

「……私は後ろから行けばいいのね?」

「ええ。必ず隙が出来るはずです。頃合いを見て出てきてください」

「わかったわよ。まったく頑固な妹を持つと姉は苦労するわ」

 初めて口で姉に勝ったような気がしました。なんだかいい気分です。場所がこんなところじゃなかったらもっと気分がいいのでしょうけど仕方がありませんね。

「ふふふっ。申し訳ありません」

 覚悟は決まりました。あとは自分の想いをもぎ取るだけです。

「それじゃ姉さん」

「なに今生の別れみたいになってんのよ。しっかりしなさいよ。人間に会いに行くんでしょ?」

「ええ。絶対に人間に会います」

「頑張んなさい。シロ子」

 姉は初めてこの瞬間に私の名前を呼んでくれました。私は少しびっくりして姉の顔を見つめて満面の笑みで応えるのです。

「……はいっ」

 本当に妹想いの良い姉に恵まれました。私はそれだけで幸せ者ですね。姉にもなにか恩返しをしなくてはなりません。

 私は生かされているんだと強く実感した瞬間でした。

「さて、どうやって気を引きましょうか」

 姉と別れたあとで私はぼやきます。あんなことを言ったのにもかかわらず、けっこうノープランなんですよね。この眠りの葉っぱを使うには何かを食べさせないといけないし、そんな都合よく食べてくれるかもわかりません。

 やっぱり気を引いて後ろから渾身の一撃をおみまいするのが一番妥当でしょう。

 私は姉が配置に着くのを待って静かに息を殺していました。

 その時でした。

「誰じゃ? そこにいるのは。いるのはわかっておるよ。出ておいで」

 バレている? 最悪ですね。さすが化け猫。その感覚は他を圧倒しているようです。この濃い霧の中で姿を見られたとは考えにくい。視力に頼らずに感覚だけで私を見つけたのでしょう。

 このまま隠れていても良かったのですが、私が動こうとしないとわかると化け猫は次の行動に出たのです。

「なら致し方がなし。こっちから出向くとするかの」

 万事休すですね。化け猫にあの位置から動かれるとのちのち面倒になります。

 私は覚悟を決めて柱の陰から出て行きました。

「ほぅ。これはよもや珍しい。白い狐、とな。して何用」

 一応は聞く耳を持ってくれるみたいですね。これはまたしても予想外でした。まさか話の通じる相手だったとは思いもしませんでしたし、見つかれば即座に殺されると思っていたので意外や意外。

 私は恐怖を感じながらも声を振り絞って言いました。

「わ、私は噂を聞いてここに来ました。私は――化け物になりたいのです」

 そんな突拍子もないことを言う私を化け猫は冷静に見つめてきます。こんな馬鹿正直に話す狐のことを不信に思っているのでしょう。

 今からあなたを殺します、いいですか? と言っているようなものでしょうね。

「それは何故?」

 化け猫はまっすぐこちらを見て聞き返してきました。その鋭い眼差しは全てを見抜くような感じがします。きっと全てを見透かされているのでしょう。ここで嘘をついても仕方がありませんし、嘘をつく理由がありません。よって私は本心を言うことにしました。

「人里へ下りたいのです。それにはこの姿は目立ちすぎます。ですから人間に化けるしかないのです」

 嘘偽りなく言いました。化け猫はそれを吟味しているようです。腕を組み片手を顎にあてて化け猫は言いました。

「それは、恋か」

 ここで鯉と恋を間違えるようなボケはしません。私にだってそれぐらいはわかります。

「わかりません。でも……そうなのかもしれません。それを確かめるためにも人間に化けれるようになりたいのです」

 これを恋と呼ぶのかはわかりません。恋をしたことがない私にとってそれは理解ができない感情なのです。しかも相手は人間です。そんなことがありえるのでしょうか?

 きっと誰にもわからないことなんでしょうね。これは私だってわからないのに他の誰かにわかるはずがありません。

 でも、これはきっと――。

「化け物になったところでそれを相手が受け入れるとは限らんぞ」

 それはそうでしょう。きっと化け物になって会いにいく私を人間は怖がるでしょう。拒絶をするでしょう。そんなことはどうでもいいのです。ただ無事な姿が見れればそれで満足なのです。たったそれだけの為に私は自分を捨てるのです。その覚悟はできています。

「それもすべて承知の上です」

 私は真っ直ぐ化け猫を見据えました。すると化け猫は信じられないことを言ったのです。

「あいわかった。喰え」

「えっ?」

 くえ? くえってどういう意味でしょうか?

 私は化け猫の言っている意味がわかりませんでした。

「喰えと言ったんじゃ。化け物になるには化け物を喰うしかない。この身をお前にやろう」

「……」

 嘘でしょう? こんな簡単なものでいいんでしょうか。こんなにも覚悟を決めて来たのに、それが全部台無しになったような感覚でした。

 ちょっとこれまでのシリアスな感じを返せと言いたくなってしまいます。姉はこんな展開になっているとも知らずに、まだ懸命に覚悟を決めているのでしょう。

「その眼は疑っとるな? まぁ無理もなかろう」

 さらに化け猫は続けます。

「我はもう飽きた」

 飽きた?

「そう、飽きたのじゃよ。生きることにな。どれだけの時を生きても会えないものは会えないと知ってしまった。もはや未練も糞もないわ。丁度いい。お前にならこの身をくれてやってもよい」

 信じていいのでしょうか? でも化け猫の言うことは理に適っていると思うのです。

「復讐は失敗に終わり、我はみじめにも生かされた。それで終わり」

 化け猫はもう未練はないのでしょう。この世にとどまることに。

 長く生きて、独りで生き抜いて。

 全てがもう元には戻らないということがわかったのでしょう。それは絶望でしかなったはずです。

 開放感にも似た感情が今の化け猫にはあるのでしょう。

 終わり。

 終わり。

 それで終わり。

 どんなに足掻いても、抗っても絶対に覆すことのできない、終わり。

 化け猫の目的は終わった。

「答えはでたようじゃな。近こう寄れ」

 この化け猫は悲しい思いをしたのでしょう。それを何百年も独りで忘れずにいたのでしょう。この人ももしかしたら私と同じなのかもしれませんね。誰かの為に自分を犠牲にして。

 そしてそれは意味を成さなかった。ここまでしたのに何も意味を成さなかった。

 これじゃあ何も報われないじゃないですか。

 あんまりじゃないですか。

 私は絶対にそんな思いはしたくありません。

 そして私は化け猫の言うことを信じて近づいて行きました。すると化け猫がこう言ったのです。

「そうじゃ。こういう言葉を知っておるかぇ?」

「どんな言葉です?」

 化け猫は笑いを抑えきれないといった表情で言いました。

「正直者は馬鹿を見る」




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