第14話 狐の章九
そして二晩ですが、私は正直なところ、この時に恋をしてしまったのかもしれません。これは冗談ではなんでもなく実話です。何があったのかと言いますと――。
一日をずっと走り続けてかなりの距離を来た私たちは、今日はここで一夜を明かそうとしていました。もう一日が終わろうとしています。この日は何事もなく綺麗に一日が終わるんだと私は思っていましたが、そうは姉がさせてくれませんでした。
姉の所為にしてはダメなんですが、のちにこれは姉の所為だと判明したので別にいいのです。
私たちは眠りについてほどなくして、何やら妙な匂いがしてきて私は目を覚ましたのです。
「あ、れ? なんでしょうかこの匂い」
隣を見れば姉は大の字になって眠っていました。
……緊張感とかないんでしょうか?
そしてふと後ろを振り返ったときでした。空が赤かったのです。
それはまるでこの世の終わりのような光景でした。それほど気味が悪く、空は真っ赤に染まっていたのです。私は訳がわからずに姉をたたき起こしました。
「ね、姉さん! 起きてください。緊急事態です。空が、おかしいんです」
「んあ~?」
眠気眼で私が指さす方向を見ると姉の眼は見開き、どうやら意識がようやく覚醒したようでした。今まで出ていたヨダレはどこえやら。一瞬にしていつもの凛々しい顔つきに変わったのです。そして開口一番。
「なにやってんの! 逃げるわよ!」
姉はそう言うと寝起きとは思えないスピードで走りだしたのです。本当にパワフルですね。起きてかたすぐに走ったらアキレス腱切れますよ?
それに何やってんのとか言われましても、今まで事態に気づかなかった姉に言われたくはありませんでしたけど、私は無言で姉の背中を追いました。まったく状況が飲み込めない私は姉に聞くしかありません。
「ね、姉さん。あれはなんなんですか?」
あんな光景、今まで一度も見たことがありません。幻想的なような気もしますけど、それ以上に身の毛がよだつのです。夜なのに明るい。この非日常の感覚が嫌悪感をかき立てるのです。
「この山が燃えているのよ。急いでこの山からでないと私たちこんがりおいしく焼けあがっちゃうわよ」
……この状況で冗談を言う姉が信じられません。しかしながらこの状況は冗談などではなく、現実なのです。さすがにおいしかろうとおいしくなかろうと、こんがり焼けるのは勘弁願いたいところですね。
炎。
山を焼き尽くす炎。それは母から聞かされていました。炎に囲まれれば成すすべはないと。知識だけはありましたけど、それをすぐに思い出せて行動に移せる姉は、やっぱりすごいのだと思います。まったく炎に囲まれた経験などないにも関わらずにすぐに動くというがどれほどのことか。さすがに暴君は違いますね。
冗談を言っている余裕はありません。これは冗談抜きで危険です。まさかこんな目に遭うなんて。日頃の行いは悪い方ではないのですが、なんでこんな時に。
私はそう思って前を走っている姉のことを思い出しました。
「元凶は姉さんですかッ!」
「え? なに? なんか言った?」
昨日のことの天罰がきっと下ったのでしょう。そう思ったらなんだか仕方がないかもと思ってしまう自分が可哀想で可哀想で。たしかに身内ですから多少の責任は私にもあるかもしれません。でもさすがに命を奪われるのはちょっと……。
先ほども言いましたが、まったく冗談を言っている場合ではありません。空の赤さはどんどんと広がっていくのです。気が付けば四方八方が赤く染まっていました。
そしてこの熱量。今は冬だというのに全然寒くないのです。暖かい、などという事もありません。これは完全に熱い。それは夏の日差しよりもずっと暑いのです。まさか真冬にそんな暑さを感じる事になるとは思ってもみませんでした。
「ちっ」
姉は舌打ちをしてこの状況をどうやって打破するかを必死で考えているようです。私程度ではこの状況からどう逃げればいいのかなんて考え付きもしません。
「姉さん。どうすればいいんでしょう?」
「どっか突っ切るしかないわね。かと言って燃えまくっているとこに突っ込んだら最後だし」
こんな真剣な眼差しの姉は初めて見た気がします。それだけ今の状況が最悪ということなのでしょう。ですが私は正直焦っていませんでした。たしかに緊迫はしていますが、なぜか姉と一緒ならどうにかなる気がしたのです。
「いい? 絶対に私から離れるんじゃないわよ? 黙って私について来なさい」
……キュンとした瞬間でした。なんて男前な発言なんでしょう。なぜ姉は雄として生まれてこなかったのでしょうか。もったいない。嗚呼もったいない。死線を一緒に超えていくなんてとてもロマンチックじゃあないですか。
「はっ――。もしかして、これが……恋?」
いやいやと思い直しますが、半ば本気でそう思ってしまいました。赤く染まる光に照らされて姉の横顔はなんと男前なことなのでしょう。
「かっこいい……」
凛々しすぎる。なんというのでしょうか、この赤い炎に照らされて顔の半分は明るく、もう半分は黒くなっているのですが、それがまたなんとも絵になるといいますか……。とにかくかっこいいんですよっ。
なんだか初めて姉を他の狐に自慢できるかもと思いました。
「なんとかしてこのままの姉でいてくれないでしょうか」
そう思いましたがそれはそれで私がドキドキして困るかもしれませんね。しかしながら目を奪われるぐらいにかっこいいです。おそらくこの状況がまたそうさせているのでしょう。この緊迫した命が危険な状況で、それどころではないからこそそう感じてしまう。
「なにぶつぶつ言ってんのよ? 行くわよ。私が絶対に道を作ってあげるから。もしはぐれても絶対に見つけ出してあげるから安心しなさい」
だーかーらー、なぜこうも男前な発言が出てくるのでしょう。そんなに姉は私をキュンキュンさせたいんですかね? この気持ちの責任どうしてくれるんでしょうか。しかも狙ってないで無自覚でこれとかあんまりじゃありません?
とりあえず私は一言返事を「はい」と返しました。それを合図に姉と私は燃える山を見事に突き抜けたのです。私の心も燃えているんで大丈夫ですっ!
見渡す限り炎でした。草木は焼け焦げて鼻孔を嫌な匂いが突き抜けて行きます。それはとても嫌な嫌な匂いなのです。
そもそも自然界において火は存在しないのです。自然発生する火など何万分の一の確率なのでしょうか。一生でも見ない者も多いと思います。それは人間が元で起こることがあるという事実。火は、物が焦げる匂いというのは野生にとって人間の匂いと言っても過言ではないのです。
あ、あれ? でも私は炎や焦げた匂いは嫌いですけど、あの人間とは一緒とは思わないですね……。あの人間の匂いは嫌じゃ……ありませんし。こ、これは別物ですっ。
まぁそれは一般的な野生の感想で、私はしっかり本当の人間の匂いというものを知っていますので別物と感じることが出来るのでしょう。
「……妙ね」
姉が難しい顔をして言いました。
「何がです?」
「どうして山が燃えたんだろ? こんなところに人間はいないし、雷も鳴っていなかったのに」
そう言われてみればおかしな事ですね。炎が出現する発生原因が何も満たされていません。これはいったいどういう事なのでしょうか。
「あまり――穏やかな感じじゃないわね」
何か不吉なことが起こるのかもしれません。いえ、起こったのです。不可解な山火事。私たちを囲むように炎は踊りました。姉はそれがどうやら意図的に起こされたものと感じ取ったのでしょう。
そんなことが出来る存在は――。
「化け猫が近くにいるのかもしれないわね」
「え――?」
たしかにそう考えれなくもないですね。化け猫なら炎を操るなどお茶の子さいさいでしょう。でも――。
「ここはまだ佐賀県じゃないですよ?」
そうなんです。ここはまだ佐賀県ではないのです。
「散歩でもしてるんじゃないの?」
「……」
なんといいますか、冗談が冗談に聞こえないのはなぜでしょうか? たまたま偶然居合わせた?
「まぁ一応頭の片隅に入れておきましょう。あんたも周りの警戒を忘れるんじゃないわよ」
え? そこは守ってくれるんじゃないですか? 押したり引いたり……これ姉はワザとやっているんでしょうか?
と言いますか……どうやら私は自分が思っている以上に乙女なようです。そんな自己確認はいいんですっ。私は何を確認しているのでしょうか。
結局のところ、この山火事については何もわかりませんでした。そもそも調べたりはしていないのですがね。命があっただけでも良しとしましょう。
これが二晩に起きた事件でした。思い出してもちょっと胸が熱くなる出来事でしたね。個人的に。
そして三晩目はまたぞろ何かとんでもないことが起きると思っていたのですが、何も起こることはありませんでした。至って平和な一日だったのです。さすがに姉の悪行も昨日の山が燃えた件で相殺されたのでしょう。とか思っていたんですが、そうは姉がいかせません。
正直に言いましょう。
この佐賀まで行く旅路、一人で行った方が何事もなくスムーズに行けた気がします。
三晩に起こった出来事は、なんと言いますか、致し方がない事だと私は心底思いました。それだけのことをしたのですから。そしてまたしたのです。何があったのかと言いますと――。
それは唐突に現れました。なんの前触れもなく、風が吹くように。
「見つけたぜ~」
声のした方へ私と姉は同時に視線を送りました。そこにいたのはあの時の姉に頭を噛まれた狐だったのです。頭のてっぺんはくっきりと姉の歯型がついていて、そこは……禿げていました。なんと不敏なことなのでしょうか。
「おい、視線を少し下しやがれ! 誰のせいでこうなったと思ってやがる!」
あっ、申し訳ありません。ついついそこに目がいってしまいまして。私たちの視線が若干高いことに気が付いた狐は唸りながら言いました。
そして驚いたことが一つ。それはあの傍若無人、冷酷非道の姉が飛び出さなかった事です。それほどあの頭に視線がいっていたのでしょうか。あれは間違いなく姉の仕業ですし。
「うん、綺麗な歯型ね」
「うるせー」
本当言わなくていいことを平気で言いますね。そんな事を言いながら姉は一歩前に出ました。その足音はとても重くて不吉な音がしたのです。それを察知してか相手の狐は一歩下がります。
「なに逃げてんのよ?」
「……うっせー」
その気持ち、よくわかります。本能が危険を察知したのでしょう。
「あんた、見つけたって言ったわよね? 私たちを探してたってことでしょ? なんで探してたのよ?」
たしかに姉の言うことは気になります。けど、普通に予想がつくのは私だけでしょうか?
「やられっぱなしで黙ってるわけねーだろ」
はい、予想通りですね。復讐ですよ、ふくしゅー。そりゃあれだけやられれば、そう考えたっておかしくないですよね。うん、あなたの意見は間違ってないですし、別に復讐はしていいと思いますけど、相手はあの姉ですよ?
普通に真正面から挑んだって返り討ちにされるだけです。ここはもっとこう何か作戦を考えた方がいいと思いますけど。
たとえば、夜寝ているところを襲うとか――。そう思った私は一つのことを思い出しました。そうです。あの山火事です。まさか――。
「お前、なんであの火事で生きてんだよ。普通死ぬだろ」
あの山火事はこの狐が起こしたものだったのです。狐がどうやって火を起こしたのかは分かりませんが、今の言葉で姉も確信したようです。
「いい覚悟ね」
なんと恐ろしい言葉なのでしょうか。そんな言葉を向けられたら私は一瞬で気絶する自信があります。その姉の言葉の意味とは、そんな事実を知られて自分の身に危険が及ばないとでも思っているの? といった感じでしょうか。
「……」
雄の狐は黙ってしまいました。うん、この方はきっと馬鹿なのでしょうね。まったく考えていなかったようでした。嗚呼これからまたあの惨劇が蘇るのでしょうか。きっと今回は前回よりももっと酷いことになるのは言うまでもありません。
「じゃ、お別れの前に一つ冥土の土産に質問」
あの姉さん、冥土の土産のその台詞なんですが、それってトドメさす側の台詞でしたっけ? 普通は逆のような気もするんですが……まぁいいでしょう。姉は何をこの雄の狐に聞こうとしているのでしょうか。
「鍋島の化け猫ってどこにいるか知ってる?」
「はっ? お前なに言ってんの?」
そう言って雄の狐は笑い転げました。
「何言ってんの? 何言ってんの? 馬鹿なのか? ぎゃははははははっ」
普通に考えて化け猫がいるなどと信じる者はそうはいないでしょう。そんな非現実なもの誰も信じるわけがありません。しかしながら、やはりこの雄の狐は頭が悪いようです。そこまで馬鹿にして姉が黙っているはずないのに。
「……」
姉は無言無表情で一歩前に踏み出しました。その威圧感たるやいなや。この場に化け狐がいました。鬼の形相という言葉がありますが、それを上回るほどの無表情。こんなにも無表情が怖いなどとは誰も思わないでしょう。
あんなに笑っていた雄の狐は現状を理解してピタリと笑うのをやめました。これは冗談にならないと悟ったのでしょうが、もはや手遅れというやつです。
「うん、うんうん。いい度胸だ。近年稀に見るいい度胸の持ち主だね」
近年とかかっこよく言ってますが、私たちはまだ産まれて一年ぐらいですよ?
そしてそこからまぁ姉の動きの早いこと早いこと。躊躇うという言葉はきっと姉の中にはないのでしょう。夜中の森の中に悲鳴と物理的な打撃音が木霊しています。
私はそれが終わるのを無心で何も考えずにボーっとしながら待ちました。
「嗚呼、今日も月が綺麗ですね」
きっとあの雄の狐は夜空に帰っていくのでしょう。綺麗なお星さまになれるといいですね。私は切実にそう願わずにはいられませんでした。そう思っていた時でした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます